真相
二章
一
大学病院の一室。装飾品も、家具も、無駄なものが一切なく、代わりにおびただしい数の書物がまるで床から自生しているかのように積まれている。そんな主の病的な性質が垣間見える不気味な部屋で、簡素なパイプ椅子に座り老婆と女性が話している。
老婆は、立ち振舞い、服装共に隙がなく、気位の高さが伺える。華族とでも形容すればその雰囲気を表せるだろうか。そんな、辺りのものを自然と下に置く、貴族の気品があった。
対して、その老婆と話す女性はよれた白衣にぞんざいに梳いた長髪を垂らし、机に肘をついてだらしなく老婆の話を聞いている。
年の頃は三十代後半だろうか。もっと若いかもしれないが、そのただのポーズとしての、やっつけ仕事の身だしなみではどうしてもそう見えてしまう。
気だるげで、無気力な印象を受けさせる彼女であるが、実際は真逆の精神をもっていることが分かる。
なぜそんなことが分かるか。
それは彼女の瞳を見れば分かる。
老婆の話を聞いている彼女の瞳は、まるで恋する少女が意中の相手を見つめている時のように、らんらんと、眩しいほどに光を放っていた。
「先生、だからこちらの要望は、春人を真人間に戻してもらうこと。ただ、それだけです。由緒ある伊佐美の家……、しかも宗家の嫡男が気狂いなんてことは許されない。治す為なら当方はどんな手段でも用いますし、用いることを許可します」
「それはわかっているんですけどね」
先生と呼ばれた女は続きを言いづらそうに頭をかく。
「心の治療は、外科みたいに切った貼ったの世界でもなければ、内科のように薬を出して治すようなものでもないわ。我々が扱うのは形のないものですから。治せと言われて、すぐにできるものじゃない」
それを聞いて対面に座る老婆の眼光が鋭く光る。しかし女はそれを気にした風もなく続ける。
「しかも……この患者、伊佐美春人は鬱病や摂食障害なんて軽い障害じゃない。完全な“廃人”だ。ここから真人間に戻せるのならあたしは医学の神だな。ノーベル賞ですら、あたしを称えるには小さすぎる」
「しかし先生は医学の神です。だから今、私はここにいる」
有無を言わさぬ老婆の口調に、少し閉口する女性。老婆が結論を急いでいることは分かってはいるが、もったいぶった話し方をするのは彼女の天性であり、自分でも今更変えることはできないものだった。
「そういうふうに患者に見込まれるのは医者冥利につきる。けれど……残念ながら貴方の期待を十全に全うすることはできないな。ああ、これは純粋に治療の為に聞くのであって、気を悪くしないで貰いたいんだが……」
すぅっと息を吸い一拍置いてから続きを吐きだす。
「伊佐美春人は禁忌を犯した。そうだろう?」
「……!」
医者の一言に、さすがの老婆もその鉄面皮を崩し、驚きを露わにした。
「ふふ……いや、答えづらいだろうから何も言わなくていい。ここからは私の独り言として話すんだが……我々人は実に様々な、数多くの禁忌を持って生活している。普通各々の文化圏ごとに独自のそれをもつものだが、ただ一つだけ、人類普遍の禁忌となっているのが“近親相姦”だ」
苦々しげに見すえる老婆を前に、どこか嬉々として話す医者。
「なぜ、これだけが人類絶対の禁忌なのか。いろいろな理由を我々学者はこじつけようとしてきた。遺伝子的に似通った個体同士の生殖は畸形児を産みやすいとか、女性は他のグループとの重要な交易品であるため内部で消費しないとか……。しかし、今日の知見ではいずれも実態にそぐわない、単なるこじつけだとされている。実際のところ、全くの謎なんだよ。不思議だろう? 男の子であれば、父親を殺し母を得たいと思う感情……つまり“エディプスコンプレックス”を持つことは、広く認められるものであるのに」
「……先生は、春人がおかしくなったのはその禁忌を侵したからだといいたいわけですね」
医者の講義に嫌気がさし、口を挟む老婆。しかし、医者のまるで陶酔しているかのよ
うな表情は依然変わりない。
「極稀になんだが……この禁忌を犯すことで突如として精神を崩壊させる人間がいる。まぁそれを原因として禁忌が成立したというには統計学的に数が少なすぎるうえに、『禁忌として認知されていることを犯したから発狂したのではないか』という反論を覆せるものでもないから、あまり俎上に上がる現象でもないんだが。でも、これ以外にないんだな。人が、たった二三日で急に廃人になるなんて事例はね。だから伊佐美春人は――」
「先生、御身が大事であるならば、そこから先を探らない方が良い」
冷たく、相手の胸部に穴を穿つような老婆の声。けれど医者は何の臆した風もなく、笑みを湛えて言う。
「ふふ、そう怖い顔をなさらなくてもこの件を外部に漏らす気はないよ。あたしはね、嬉しいんだ。貴重な実験材料が手に入れられて……ね。“禁忌達成者”なんて、そうそう巡り合えるものじゃない」
ふふ、うふふと漏れる笑い。コーヒーカップを持つ手が歓喜で震えている。
「普通、どんな種類の精神病患者でもね、喋るし聞くし反応するんだ。我々は我々の常識では量れない行動をする人間を“廃人”や“狂人”と呼んでいるに過ぎない。ですがね、ふふ……禁忌達成者ってのは全くのがらんどうなんだ。まるで魂だけどこか遠くに行ってしまったかのように、喋らないし、聞かないし、反応しない。そのうえなんと、放っておくと細胞自死が起こって、勝手に肉体的な死をもとげる。まるで世界がその存在を許さないかのようにね……。ふふ……あたしの嬉しさが分かるかな? あたしの《精神成形》の術は、人間の身体に全く新しい心を作り出すというものだ。けれど、心を持たない人間なんていない。あたしも一応医者のはしくれなんでね、他人の心を壊して新しい心を植え付けるなんて実験をするわけにはいかなかった。……ふふ、理解できたかな? あたしにとって、貴方がたのご提案は正に僥倖というより他はない……!」
熱に浮かされた医者とは対照的に、老婆は冷たい声で、
「結論としては、春人を復活させることはできないが、春人の体に新しい精神を植え付け、リヴィングデッドにすることはできるということですね」
医者は首を縦に振り、老婆が次の瞬間発するであろう言葉を喜色満面にして待つ。静寂が室内に被うが、一秒にも満たぬ刹那に、老婆の剣のような凛とした声に切り裂かれる。
「いいでしょう。許可を与えます」
かくして、人の心を形成する禁忌の実験が開始された。