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1. 顔を上げろよ、〈王様〉

「おい戸叶、パン買ってこいよ」


 ――それが前世で、最後に聞いた言葉だった。


 前世の俺は戸叶(とかの)という名の、一重まぶたの目立たない高校二年生だ。修学旅行の朝に財布をなくして、ポケットを探ってもパンを買う小銭さえない。


 後ろの席で、笑い声が五つ重なる。返事を飲み込み、俺は冷たい窓に額を寄せた。


 窓の外は新緑の崖だ。カーブに入った途端、バスの床がぐらりと傾いた。


 ガードレールの割れる音が、やけに遠い。


 修学旅行のバスが崖から落ちて、俺たちのクラスは全員死んだ。


 気がつくと、白い場所にバスの座席だけが並んでいた。音もしない。


 網棚で、女の子が俺のポテトチップスの袋を開けた。床まで届く白い髪の下で、裸足がぶらぶらしている。


「ねえ。これ、きみのお菓子? もらうね」


「今、それ?」


 七色の目が俺を向き、女の子は頬いっぱいに菓子を詰めた。ぱり、と場違いに軽い音がする。


「だって、袋が開いてなかったんだもん」


「俺がまだ食べてないからだよ! ここ、どこなんだ?」


「わたしのところ。きみたち、みんな来ちゃったね」


「来ちゃった、で済むのかよ! 帰り道ぐらい教えてくれ!」


「ねえ、きみ、しょっぱいのと甘いの、どっちが好き?」


 こっちは死んだばかりなのに、話題がお菓子だ。


 女の子が袋を俺の頭の上で逆さにする。塩の粒が髪に降った。


「今、お菓子の話なんかしてないだろ!」


「わたしはしてるよ。食べる?」


「なあ、元の場所へみんなで帰れるんだよな? そこまでは面倒を見てくれよ!」


「全員まとめて、わたしの世界に生まれ変わらせてあげる。……そのほうが、面白そうだし」


 網棚から女の子が袋を振る。残りの欠片が床に散る音まで、妙にはっきり聞こえた。


「勝手に決めんなよ! 生まれ変わるって、どこにだよ!」


「ひみつー。着いてからのお楽しみ」


「お楽しみって顔してないだろ、こっちは!」


 せめて、あの五人とは別の場所に。生きる場所まで選べないなら、それぐらいは頼んでもいいはずだ。


「あの五人とだけは、離してくれよ。……頼むから」


 答えは笑い声だけだった。手を伸ばすより早く、白い場所が遠のく。


       ◇


 目が覚めたら、俺は辺境伯家の嫡男ロイクだった。


 前世を思い出したのは、物心がつくころだ。鏡には同じ一重まぶたの顔が映り、銀の前髪がかかっていた。


 目は藍色。髪と目だけ替えるとは、顔の担当は手を抜きすぎだろ。


 熊のような父のもとで剣を覚え、家令からは帳簿の読み方を教わった。


 十五年ぶんの「おはようございます、ロイク様」。呼ばれて顔を上げれば、誰かが待っている。前世の俺が、一つも持っていなかったものだ。父は一度も、俺を急かさなかった。


 それでも大勢に囲まれると、息は浅くなる。胃袋だけは、貴族になってくれない。


 前世で一度だけ「やめなよ」と言ってくれた委員長が、どこにいるのかは知らない。


 その朝、俺はアルドワン辺境伯家の大階段に腰を下ろしていた。背後の大窓から朝の光が流れ込み、石の床を白く照らす。下からでは、俺の顔は影だ。


 十五歳の春。新しく雇われた使用人が五人、玄関に並ぶ。


 厩番。料理番の見習い。庭師。従僕。洗濯女。


 家令が腰の鍵束に手をやった。俺は土地の言葉で訊く。


「家令。あの五人は、今朝ここに着いたのか?」


「左様でございます。募りに応じたのが、ちょうど五人でございました」


「五人とも、領内の別々の村からか?」


「はい。不思議なことに、来たときから仲がよろしゅうございます。ロイク様、お顔はまだお見せにならずに」


 家令が階段の下に立った。靴音が止まると、五人の衣擦れだけが残る。


「お前たち。許しがあるまで、主のお顔を見てはならぬ。私の声で、順に顔を上げよ」


 逆光で、五人には俺の顔の輪郭しか見えない。


 一人ずつ顔を上げさせて、俺は笑いそうになった。全員、見覚えがある。


 厩番の赤毛の刈り上げが持ち上がる。整った顔は久遠寺、あの〈王様〉だ。前世と同じ顔に赤毛とは、似合ってない。


 粉だらけの前掛けの料理番の見習いは、俺の弁当を捨てた男。萌黄色の髪の庭師は、机に落書きした男。


 水色のおさげの洗濯女は、それを見ていた女。狐目の従僕は、俺の財布を盗った男。


 来たときから仲がいいのは、そういうことか。あの女の子の笑い声を、今さら思い出した。


 〈王様〉の家来は、今世でも四人いるらしい。


 また囲まれる。喉が狭まり、吐く息まで浅くなった。


「厩番。最初の務めは、ロイク様の乗馬靴を磨くことだ。ほかのお前たちも、その働きぶりを見ておけ」


 俺は階段を下り、片足を台に載せる。革と靴墨の匂いが、つんと鼻にきた。


 赤毛が、俺の足元にかがむ。布を動かす手だけは、素直らしい。


 俺は台に片足を載せたまま、靴を磨く〈王様〉の前に身をかがめた。目の高さを合わせると、十五年ぶりの日本語が喉から出る。


「……顔を上げろよ、〈王様〉」


 前世で俺をそう呼ばせていた男が、膝をついたまま固まった。五人とも、覚えているのだ。


 五人の顔が、いっせいに白くなった。


「……嘘だろ」


「え、待って、貴族って……戸叶が?」


「……銀髪、似合ってねえ」


 料理番と従僕と庭師が、口々に日本語をこぼす。最後のは余計だ。水色のおさげだけが黙って唇をかみ、床を見ていた。


「……戸叶、なのか?」


「今は、ロイク様だ。で?」


「ふざけんな! 戸叶のくせに、なんでお前が貴族で、俺が厩番なんだよ!」


 怒鳴り声が、教室の後ろの席と同じ高さで耳に刺さる。膝の裏が冷えた。


 息が浅くなり、拳を握る。殴れる。今なら、誰も止めない。でも、それをやったら、俺はこの赤毛と同じ場所に戻る。十五年ぶんの朝を、こいつの声に明け渡してたまるか。


「俺が、またお前のパンを買いに走ると思ってるのか?」


「走るに決まってんだろ! お前のツラなんか、忘れるかよ!」


 靴を磨く布が、床に落ちた。誰も拾おうとはしない。


「顔は変わらないよな。けど今、磨いてるのはどっちの靴だ?」


「決まりだからだ! 俺が好きでこんなことやってると思うなよ!」


 握った指を、一本ずつ開く。手のひらに、爪の跡が四つ並んでいた。


「じゃあ、その決まりどおり、光るまで磨いてくれよ」


「お前が言うな! 俺に命令すんなよ!」


 家令が、俺の顔をのぞき込む。日本語の中身が分からず、俺と厩番の顔を見比べていた。


「……今のは、どちらのお国の言葉でございますか?」


 俺は真顔のまま、土地の言葉に戻す。


「厩の言葉だ」


「……左様で」


 馬語は、俺もまだ習ってない。家令は厩のあるほうへ、まじめに目を向けた。


「では、私も明日から、馬に習いましょうか?」


「やめておけ。あれは怒鳴る言葉ばかりだ」


「お気に召さねば、暇を出しますが」


 暇。その短い言葉に、胸のどこかが飛びつきかける。五人のいない明日を、何度も夢に見たのだから。けれど今、帰る家も、呼ばれる名前も、俺にはある。


「いや。全員、雇う」


「……全員、でございますか? 厩番は先ほど、あれほどの大声を」


「元気な厩番だ。馬が退屈しなくていい」


 俺は殴らない。前世で俺にしたことの裏返しを、今世では仕事として、きちんとやってもらうだけだ。


 足元から、日本語がまた飛んできた。


「俺に、ここで一生働けってのかよ!」


「一生とは言ってない。とりあえず、明日の朝からだ」


「冗談じゃねえ! お前んちの馬なんか、触ったこともねえよ!」


 俺は家令に向き直り、土地の言葉で告げる。


「給金も、ほかの新参と同じだ。仕事を教えてやってくれ」


「そのようにいたします。お前たち、ロイク様のお言葉を忘れるでないぞ」


 家令の鍵束が、ちゃりと鳴った。〈王様〉の口から、また日本語がこぼれる。


「馬の世話って……俺に何ができるってんだよ?」


 〈王様〉が布を拾い、靴先を磨き上げた。まだ顔は白い。磨き残しを探しても、朝の光しか映らない。


 家令が持ち場を示すと、四人がそれぞれの仕事へ散っていく。去り際に、四人ともちらりと赤毛を振り返った。


 俺はそいつにだけ、日本語で言う。


「知らない。でも明日から、馬の世話は頼んだ」


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