二話
焦熱の平原に、ようやく冷たい夜風が吹き抜けた。
数時間前まで、そこは文字通りの地獄だった。炎王ファルの放った熱魔法は土壌の水分を奪い尽くし、赤土は陶器のように焼き固められ、あちこちから黒い煙が立ち上っている。人類合従軍の兵士たちは、勝利の歓喜に浸る余裕さえなく、ただ泥のように地面に横たわっていた。
その最前線、巨大な亀裂の縁に、勇者アレス・ルミナスは一人立っていた。
彼の背負う聖剣はすでに鞘に収まっているが、その体からはまだ、制御しきれない膨大な魔力の残滓が陽炎のように揺らめている。
「……アレス」
背後から声をかけたのは、エルフの賢者リィンだった。彼女の白磁のような肌も、今は煤と土に汚れ、その瞳には深い疲労の色があった。
「無理をしたわね。あの広域殲滅剣……今のあなたの体でも、相当な負担のはずよ」
「ああ、少しばかりな。だが、あれを見せない限り、ファルは引かなかった」
アレスは短く答え、視線を北の空へと向けた。そこには、魔族軍が去った後の不気味な暗雲が立ち込めている。
「四天王は、まだ三体残っている。そしてその奥には……魔王が」
その時、合従軍の本陣から慌ただしい足音が聞こえてきた。
現れたのは、レグルス帝国のバルド大将軍と、きらびやかな鎧に身を包んだ数人の将軍たち、そして各国の王の代理人たる使節たちだった。
「勇者殿! 素晴らしい、実に見事な一撃であった!」
肥満体の男──小国ポルタの特使が、揉み手をしながら近づいてくる。その目は感謝よりも、アレスという「最強の兵器」をいかに自国のために利用できるかという卑俗な計算で光っていた。
「これで魔族もしばらくは大人しくなるでしょうな。ついては、我が国への凱旋パレードを……」
「特使、控えよ」
バルド大将軍が、地を這うような低い声で遮った。
「我々の不手際で、勇者殿に全負担を強いたのだ。今、彼に必要なのは休息であり、政治的な茶番ではない」
バルドはアレスの前に立つと、深々と頭を下げた。帝国最強と謳われた老将軍のその姿に、周囲の将軍たちは言葉を失う。
「アレス殿。貴公が来なければ、今頃我らの首はファルの炎に焼かれていた。全人類を代表し、心より感謝申し上げる」
「……俺はただ、やるべきことをやっただけだ、バルド大将軍」
アレスは静かに首を振った。
「それよりも、報告がある。ファルは引いたが、軍を壊滅させたわけじゃない。奴らは戦略的に撤退したんだ。魔王城には、今回の合従軍の規模、配置、そして俺の魔力特性がすべて報告されるだろう」
本陣に設けられた巨大な会議用の天幕。そこでは、勝利の宴とは程遠い、醜い論争が繰り広げられていた。
「我が聖王国の聖騎士団が、最も苛烈な中央を守備したのだ! 戦後報酬の分配は、被害規模に比例すべきである!」
「何を言うか! 魔法王国の結界魔導師たちがいたからこそ、全滅を免れたのだぞ! 資源の優先配分権は我らにある!」
地図を囲む15カ国の代表者たちは、アレスの警告をよそに、空想上の戦果を奪い合っていた。人類が危機に直面した時だけ結成される「合従軍」の脆さが、勝利した瞬間に露呈していた。
アレスはその喧騒を遠くに聞きながら、リィン、ドワーフの重戦士ゴル、聖女エレンと共に、天幕の隅で冷めたスープを口にしていた。
「……情けないわね」
リィンが溜息をつく。
「世界が滅びかけているのに、彼らが守ろうとしているのは自分の国の財布だけ」
「それが人間というものだ。リィン」
アレスは淡々と言った。
「彼らが守りたいのは、世界という抽象的な概念じゃない。自分の土地であり、民であり、権力だ。それ自体は責められない。だが、その狭い視点が、次に来る『影』を見落とさせる」
アレスが懸念していた「影」は、北の果て、魔王城「ヴォルガデス」の玉座の間で形を成していた。
外壁を凍てつく猛吹雪が叩き、深淵のような静寂が支配する空間。
玉座の前で片膝をつく炎王ファル。その右腕は、アレスの斬撃の余波によってひどく焼きただれていた。
「……申し訳ございませぬ、陛下。勇者アレス、その力……想定を遥かに超えておりました」
玉座に座る存在──巨大な角を持ち、全身から漆黒の瘴気を放つ魔王は、無言でファルを見下ろしていた。その瞳は深紅の海のように冷徹だった。
「よい、ファル。貴様が持ち帰った情報は、死兵万人に勝る」
魔王の隣に立つ、もう一つの人影が口を開いた。
それは、冷気を纏った美しい女の姿をしていた。四天王が一人、氷王エルゼ。
「勇者ランク……。ギルドが1000年に一度の奇跡と称する理由が分かりましたわ。ですが、光が強ければ強いほど、その影もまた深くなるもの」
エルゼは冷ややかに微笑み、指先で小さな氷の結晶を弄んだ。
「人間たちはすでに、勝利に酔い、仲間割れを始めています。アレスという男がいかに神の如き力を持とうとも、守るべき器が脆ければ、そこから崩すのは容易いこと」
「エルゼ。次はお前が行け」
魔王の重厚な声が響く。
「焦熱の平原を、今度は氷獄に変えてやれ。勇者の聖剣が届かぬ場所から、その『希望』を削り取れ」
焦熱の平原では、アレスが夜空を見上げていた。
彼には聞こえていた。地を這うような不吉な風の音が。
バルド大将軍が近づき、アレスの隣に立った。
「アレス殿。一つだけ聞いておきたい。……貴公は、この醜い争いを続けてまで、我ら人類を守る価値があると思うか?」
アレスはしばらく沈黙し、それから微かに微笑んだ。
「価値があるかどうかは、俺が決めることじゃない。ただ、俺は死なせたくないんだ。……俺を勇者と呼んでくれた、名もなき人々を」
アレスの脳裏には、旅の途中で出会った子供たちの笑顔や、泥にまみれても家族のために剣を握る名もなき兵士たちの姿があった。
たとえ王たちが醜く争おうとも、その下で生きる何百万の命には罪はない。
「勇者ランクは、最強の称号じゃない。世界で最も重い『呪い』だ」
アレスはそう呟くと、再び聖剣の柄を強く握った。
第2章が終わる頃、空からは季節外れの雪が降り始めていた。
それは、次の四天王──氷王エルゼの進軍を告げる、静かな宣戦布告であった。




