一話
プロローグ
後世の歴史学者たちは、その激動の時代を「神話の黄昏」あるいは「人類最大の分岐点」と呼ぶ。
今からおよそ二千五百年、紀元前五百年前の出来事である。
それは、魔族という圧倒的な捕食者と、人類という脆き生命体が、生存圏どころか種族の存亡を賭けて大陸全土で泥沼の戦争を繰り広げていた時代であった。
当時、人類に希望をもたらしたシステムが存在した。民間の最高戦力を格付けする「冒険者ギルド」である。
ギルドには能力に応じた「ランク」が存在し、一般的には最上級とされる「Sランク」、そして国家規模の災厄に匹敵する「SSランク」が最高峰とされていた。しかし、そのさらに上、歴史上でただ一人にしか与えられず、その死後千年にわたって誰も到達することができなかった不滅の冠が存在した。
──唯一無二のランク、『勇者』。
その称号を背負った男の名は、アレス・ルミナス。
彼は、神の加護を受けた聖剣を振るう超戦士であり、同時に理を覆す魔導を操る、人類史の特異点とも言える存在だった。アレスの周りには、各分野の頂点を極めた伝説的な仲間たちが集い、彼らは常に人類の防波堤として最前線に立ち続けていた。
しかし、人類と魔族の戦争はあまりにも広大であり、あまりにも熾烈だった。勇者アレスがどれほど無敵であろうとも、彼は一人しかおらず、同時に二つの場所を救うことはできない。
これは、そんな『勇者』という絶対的な救世主が不在の中で始まった、人類の命運を賭けた大決戦の記録である。
大陸中央部に位置する「焦熱の平原」。
地平線の彼方まで遮るもののない赤茶けた大地に、人類の命運を懸けた「人類合従軍」三十万が布陣していた。
この軍勢は、魔族の侵攻に対抗するために大陸中の十五の国家が利害を捨てて結成した、歴史上最大の大連合軍である。黄金の鎧に身を包んだ帝国の重装歩兵、白銀の法衣をまとった聖王国の聖騎士団、魔導大国の精鋭魔術師隊、そしてエルフの弓兵部隊。それらが隙間なく並ぶ光景は、一見すれば大陸最強の暴力そのものであった。
しかし、陣頭指揮を執る本陣の空気は、凍りつくような緊張感に支配されていた。
「──報告! 前方の魔力濃度、さらに上昇! 敵本隊、目視できる距離に到達しました!」
伝令兵の悲痛な叫びが、天幕の中に響き渡る。
作戦机を囲むのは、各国から派遣された名だたる将軍たち。皆、一国を代表する猛者たちであったが、その顔には隠しきれない悲壮感が漂っていた。
「ついに来たか……魔王軍四天王が一角、『炎王ファル』……!」
苦渋に満ちた声をあげたのは、魔法王国の老将軍であった。
彼らの眼前に迫りつつあるのは、二十万の魔族軍。数は合従軍が勝っている。しかし、個の戦闘能力において、魔族は人類の十倍以上の強度を持つ。しかも、それを率いるのは魔王の右腕たる四天王。周囲の空間そのものを焼き尽くすという、歩く天災であった。
「……落ち着け。我らが臆せば、後ろに控える数百万の民が焼き尽くされるぞ」
重々しい声で一同を圧したのは、合従軍の総指揮官であり、大陸最強の軍事国家として名高いレグルス帝国の大将軍、バルド・フォン・バザールであった。
白髪交じりの髭を蓄え、無数の死線を潜り抜けてきた大将軍バルド。彼の存在だけが、崩壊しかけている将軍たちの精神的支柱だった。
「バルド大将軍! しかし、肝心の『勇者』はどうしたのですか!? アレス殿とその一行が来なければ、四天王を討ち取るなど不可能だ!」
「そうだ! 我らはアレス殿が参戦するという条件で、この決戦に踏み切ったのだぞ!」
将軍たちの不満と恐怖が爆破する。
それも無理はなかった。勇者アレスとその仲間たちは、この決戦の前に、大陸の反対側で発生した魔族の別働隊──それも十万を超える軍勢──を各個撃破するため、遠征に赴いていたのだ。
「アレス殿からは『必ず間に合わせる』との伝言を預かっている」
バルドは愛刀の柄を握り締め、毅然とした態度で言い放った。
「だが、彼らの到着を待つ間、この防衛線を破られるわけにはいかない。各国から集まった将軍たちよ、己の誇りを思い出せ。我らはただの案山子ではない。国家の、そして人類の盾だ! 勇者が来るその一瞬まで、この地を死守するぞ!」
大将軍の咆哮に、天幕の将軍たちは言葉を呑み、そして覚悟を決めたように力強く頷いた。
しかし、バルド自身の内心は冷や汗で濡れていた。
(アレス……頼む、間に合ってくれ。我ら凡夫の命など、あの化け物たちの前では一刻ともたぬ……!)
第二章:開戦、焦熱の地獄
地天を揺るがす地鳴りとともに、魔族軍が前進を開始した。
先頭を進むのは、体長三メートルを超える巨躯を持つ上位魔族「オーガ」の重装兵団、そして地獄の業火を纏った魔獣「ヘルハウンド」の群れ。
その遥か後方、空中を浮遊する巨大な炎の玉座に、その男は平然と腰掛けていた。
四天王の一人、炎王ファル。
人間の姿に似ているが、その髪は本物の炎で形成され、瞳は溶岩のように赤く輝いている。彼が呼吸をするたびに、周囲の大気が陽炎となって揺らめいた。
「ふむ、三十万か。羽虫がどれだけ集まろうと、一吹きで灰になるというのに、愚かなことだ」
ファルは退屈そうに頬杖をつき、細い指を軽く前に突き出した。
「焼き尽くせ。灰すら残すな」
その一言が、地獄の幕開けだった。
魔族軍の魔術師たちが一斉に呪文を唱え、天を覆うほどの火球が合従軍へと降り注ぐ。それはさながら、世界の終わりを告げる隕石雨のようであった。
「総員、防御結界を展開せよ!!」
聖王国と魔法王国の魔導兵たちが、必死に杖を突き出し、巨大な光の障壁を戦場全体に張り巡らせる。
激しい爆音とともに、結界と火球が衝突した。大地が激しく揺れ、衝撃波が兵士たちの体を震わせる。
「ぐあああっ!」
「結界がもたない! 魔力が、魔力が吸い取られる──!」
ファルの配下が放つ炎の魔法は、通常の魔力を蝕む呪いの炎だった。結界を維持する魔術師たちが、次々と口から血を噴いて倒れていく。
「前衛、前へ! 魔族の突撃を食い止めろ!」
大将軍バルドの激が飛び、帝国の重装歩兵が盾を構えて前進する。
しかし、激突の瞬間、人類の戦列は容易く引き裂かれた。炎を纏った魔獣が盾を溶かし、兵士たちを肉ごと焼き焦がしていく。オーガの巨大な棍棒が一振りのうちに数人の兵士を肉塊へと変えた。
「化物め! 『烈風斬』!」
一人の将軍が、己の気を込めた一撃で上位魔族の首を撥ね飛ばす。しかし、一体を倒しても、その後ろから十体の魔族が押し寄せてくる。
戦場は一瞬にして、血と炎が入り混じる地獄絵図へと変貌した。
「左翼崩壊! 聖騎士団、壊滅状態です!」
「右翼のエルフ弓兵隊、敵の火炎奇襲により退却を余儀なくされています!」
本陣に届くのは、すべて敗戦の報告ばかりだった。
開戦からわずか数時間。人類合従軍は、その圧倒的な数の優位性を全く活かせぬまま、蹂躙されていた。
バルドは自ら前線に立ち、大剣を振るって迫り来る魔族を両断していた。彼の鎧は返り血と、熱気による焦げ跡でボロボロだった。
「 retreat(退却)の文字は我が辞書にない! 踏みとどまれ! 一歩も退くな!」
その孤軍奮闘も虚しく、戦況の悪化は止まらない。
中央突破を図る魔族の精鋭たちが、ついにバルドのいる本陣の手前にまで迫ってきた。
ファルは玉座からその光景を見下ろし、冷酷に微笑んだ。
「終わりだな。人類の最高戦力とやらも、この程度か。やはり、あの『勇者』とやらが出てこねば、遊戯にすらならん」
ファルが立ち上がり、その右手に莫大な魔力を収束させる。彼の周囲の地面がドロドロの溶岩へと変わり始めた。
四天王自らが放つ、一撃で戦場すべてを消滅させる超広域消滅魔術──それが放たれようとしていた。
「ここまで、か……」
バルドは迫り来る破滅の光を前に、歯を食いしばり、天を仰いだ。将軍たちも、兵士たちも、武器を握る力を失い、ただ死を待つしかなかった。
その時──。
戦場の中心、雲に覆われていた天の隙間から、一条の「黄金の光」が 地上へと突き刺さった。
第三章:唯一無二の光
その光は、ファルが放とうとしていた不吉な紅蓮の魔力を、一瞬にしてかき消した。
あまりの神聖さと圧倒的な質量を持ったプレッシャーに、敵味方問わず、全ての動きがピタリと止まる。
地響きのような轟音が戦場に響き渡り、光の柱が消えた中心に、数影の姿が現れた。
先頭に立つのは、一人の青年。
身に纏うのは、一見するとシンプルな、しかし神々しい白銀の軽鎧。その腰には、世界の理を体現したかのような輝きを放つ、伝説の聖剣が帯びられていた。
彼の名は、アレス・ルミナス。
冒険者ギルドの歴史において、過去にも未来にも存在しない、唯一無二の『勇者』ランクを冠する男。
彼の背後には、大魔導書を携えたエルフの賢者、身の丈を超える大斧を担いだドワーフの重戦士、そして神の代行者たる聖女の姿があった。
「すまない、大将軍。少し手こずって遅くなった」
アレスは静かに、しかし戦場全体に響き渡る透き通った声で言った。
その表情には、三十万の軍勢を圧倒する魔族の軍勢を前にしても、微塵の揺らぎもなかった。
「あ……アレス殿……!」
バルドの目から、涙が溢れ出そうになる。地獄の底で見上げた天に、本物の救世主が現れたのだ。
「皆、よく持ちこたえてくれた。ここからは、俺たちの仕事だ」
アレスが聖剣の柄に手をかけると、彼を中心に、戦場全体の空気が一変した。それまで戦場を支配していたファルの絶望的な熱気が、一瞬にして霧散し、清涼で、しかし絶対的な威圧感を持つ風が吹き抜ける。
「ほう……?」
炎の玉座の上で、ファルが初めてその目を限界まで見開いた。
彼の本能が、全身の細胞が、最大級の警鐘を鳴らしていた。目の前にいる青年は、先ほどまで蹂ンジしていた人間どもとは、文字通り「次元が違う」と。
「あれが……『勇者』か。面白い、私の炎で──」
ファルが言葉を紡ぎ終えるより早く、アレスが動いた。
否、動いたと認識できた者は、その場に誰一人としていなかった。
アレスが聖剣をただ一閃させた、その瞬間。
「──『聖王一閃・天割』」
空間そのものが縦に裂けたかのような、巨大な黄金の斬撃が走った。
それは魔法という概念すら超越した、純粋な力の奔流。
斬撃は、合従軍の本陣へと迫っていた魔族の精鋭数千、そしてその後方に控えていたオーガの兵団、さらには大地そのものを巻き込みながら、一直線に魔族軍の中央を駆け抜けた。
ドゴォォォォォォン!!!
凄まじい爆音とともに、赤い平原に深さ数十メートル、長さ数キロメートルに及ぶ巨大な大峡谷が刻まれた。その直線上にいた数万の魔族軍は、悲鳴をあげる暇さえなく、光の中に消滅していた。
「な……ッ!?」
ファルの玉座を支えていた炎の障壁が、風圧だけで粉々に砕け散る。
ファルは思わず空中へ飛び退いたが、彼が先ほどまでいた空間は、アレスの斬撃の余波によって完全に真空状態と化していた。
「一撃で……我が軍の中央が消滅しただと……?」
ファルの顔から余裕が消え、冷たい汗がその頬を伝う。
たった一振り。人間一人の放った攻撃が、二十万の軍勢の四分の一を、文字通り「消し去った」のだ。
第四章:戦火の収束、そして
アレスは聖剣を構え直すと、遥か彼方の空中に浮かぶファルを、その鋭い瞳で見据えた。
二人の距離は数キロメートル離れていたが、視線が交錯した瞬間、ファルはまるで刃を喉元に突きつけられたかのような錯覚を覚えた。
アレスの背後に立つ仲間たちが、それぞれの武器や魔法の準備を始める。
賢者が呪文を唱え始めると、天に巨大な魔法陣がいくつも展開され、ドワーフの戦士が地面を叩くと、魔族軍の足元の大地が次々と陥没を始めた。勇者パーティ全員が、それぞれ国家規模の戦略兵器に匹敵する力を持っていた。
「ファルと言ったな」
アレスの声が、風に乗ってファルの耳元で囁くように聞こえた。
「これ以上進むなら、俺がお前を斬る。……どうする?」
それは、絶対的な強者から放たれる、事実上の最後通牒であった。
ファルは激しい屈辱感に歯噛みした。
自分は魔王軍四天王。人類などいつでも滅ぼせる羽虫だと思っていた。しかし、今ここにいる『勇者』は違う。あれは、魔王様と同じ、あるいはそれ以上の、世界そのものに愛された怪物だ。
(ここで奴と戦えば……勝てるか? いや、死ぬのは私だ。それだけでなく、我が軍勢のすべてがここで全滅する)
ファルは冷酷な戦略家でもあった。勝てぬ戦をプライドだけで続行するほど、愚かではない。
それに、アレスの放った先ほどの斬撃により、魔族軍の連携は完全に崩壊し、兵士たちは恐怖でパニックに陥っている。これ以上の進軍は不可能だった。
「……撤退だ」
ファルは忌々しげに、しかしはっきりとした声で命じた。
「全軍、退け! 陣を収め、魔王領まで後退する!」
炎の玉座が激しい光を放ち、ファルはその姿を炎の中に消した。
四天王の撤退命令を受け、混乱状態にあった魔族軍は、蜘蛛の子を散らすように北の空へと、そして大地の彼方へと敗走していった。
アレスはそれを追撃することはしなかった。
彼らの目的はあくまで防衛であり、傷ついた合従軍の兵士たちを救うことが最優先だったからだ。聖剣を鞘に収めると、アレスは深く息を吐き、背後の仲間たちに向き直った。
「皆、怪我はないか? 聖女、すぐに負傷者の治療に回ってくれ」
「わかりました、アレス様」
光が戦場を包み込み、傷つき倒れていた人類の兵士たちの傷が、奇跡的な速度で癒えていく。
大将軍バルドは、呆然とその光景を見ていた。
自分たちが命を賭して、三十万の軍勢でなお敗れかけていた絶望の戦場。それを、たった数人の到着と、一振りの剣撃だけでひっくり返してしまった。
「これが……『勇者』……。歴史上、彼ただ一人にしか許されなかった、神の領域の強さか……」
バルドは深い畏怖を込め、そして心からの感謝を込めて、アレスに向かって深く首を垂れた。
この戦いは、人類合従軍の勝利という形で幕を閉じた。
結局、四天王である炎王ファルと、勇者アレスが直接刃を交えることはなかった。ファルが命を惜しんで撤退を選んだからである。
しかし、この日、三十万の兵士たちが目撃した『勇者』の輝きは、伝説として大陸全土に語り継がれることとなる。
これ以降、人類と魔族の戦争は激化の一途をたどるが、アレス・ルミナスという光がある限り、人類の心が折れることはなかった。
そして、彼が戦場を去った後、およそ千年の間、冒険者ギルドの歴史において『勇者』のランクを冠する者は、二度と現れることはなかったのである。




