0.序章
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「…大丈夫、怖くないわ。お母さまが全部終わらせてあげるから。 」
目の前で揺れる母の姿が、暗い雲間から照らす稲光に、時折照らされた。磨かれた硝子窓には、幼い少女と、若い女が微かに映っていた。
「 ゆっくり息を吸って、それから目を閉じて。十を数えたら、全部終わっているから。大丈夫、大丈夫よ。」
何度か漏らされた言葉は、少女に向けてだけではなく、己に向けたものであるかのようだった。少女の腰に回したのと反対の右手には、その白い華奢な手の平に不釣り合いな黒い鉄塊が握られていた。震えるその指を隠すように、少女を抱きしめた。
「 ああ、ごめんね。ごめんね、わたくしのーーー。お母さまを許して。ーー大丈夫、目を閉じて。痛いのは一瞬だから。そうすれば、そうすれば貴女は普通に生きられるの。」
そっと、母の手が少女の瞳を覆う。少女はそれに従うように、そっと目を閉じた。
「… 大丈夫よ、息を吸って。」
すうっ、と少女の小さな肩が隆起した。
「 お母さまが十を数え終わるまで、目を開けては駄目。……一……二……三……四」
雷鳴が何度か響く。消え入りそうな母の声は、そのつんざくような雷鳴の間になぜだか鮮明に聞こえた。それどころか、彼女の震えを含んだ優しい声をはっきりと切り出しているようだった。
「 五……六……七……」
目を閉じている少女の頬を優しく撫でて、ぎゅっとその身体を抱き込んだ。その小さな胸に、己の握っていた拳銃をそっと当てる。
拳銃の冷たさに驚いたのだろうか、少女の肩が僅かに跳ねた。宥めるように、若い女はさらに強く抱きしめる。
「八……九…… 」
十、という母の声。それからーー
一際強く、雷が轟く。硝子窓が震え、映っていた二人の影が、歪んで消える。
雷雨は、銃声を掻き消した。少女の頬はまだ仄かに温かい。律儀に十を耳にした瞬間に目を開けたのだろうか。硝子球みたいに澄んだ己の母親と同じ金色の瞳が、茫洋と焦点なくあらぬ方向を見つめていた。胸元からどくりどくりと流れる鮮血が、抱きとめている女の胸元も濡らす。
少女の開ききった瞳はぴくりとも動かない。長い睫毛には、飛び散った彼女自身の血が付着していた。
「ああ………ああ!許してーーー…!!ごめんね、ごめんね、ごめんなさい…!ごめんなさい、お母さまを許して…!ああ!…あ、ああっ…… 」
錯乱したように女が、先程少女を撃った銃口を己の額に向けた。震える指先は、しっかりと引き金を握っている。琥珀色の瞳は、瞳孔が開ききって焦点が合っていない。何度か側に倒れた娘の身体を揺すると、また動揺したように呻く。
「ああ…死んでしまった…わたくしが、殺した!わたくしが!わたくしがっ…、ああ…っああ…ごめんね、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…!っーーすぐに、そっちに行くから」
躊躇いは、無かった。迷いなく引き金を引く。弾けるように揺れた身体は、力を失って、重力とともに崩折れた。窓の外で鳴り響く雷鳴が、暗い室内を時折鮮明に映し出した。二人の死体は、赤い血液に縁取られた、1枚の絵画のようだった。




