番外編短編・その後の婚約指輪の話
高級レストランより緊張する場所はないと思う。
私は作家のアンナ・エマールよ。最近はほぼ缶詰め状態で、ようやく原稿を仕上げたところ。この後、膨大な修正作業が残っているとはいえ、ひとまず第一ハードルの締め切りは乗り越えられた。
そして、締め切り明け。婚約者のクリスと食事中だった。こうして王都の高級レストランにいる。
確かに個室を予約してもらった。レストランのスタッフは最高級のサービスをしてくれる。天井のシャンデリアは美しいし、ワインも素晴らしい味。メインの魚料理もシェフのこだわりの一品だ。レモンソースと白身魚がこれ以上ないぐらい合う。魚も柔らかく、ほっぺが溶けそう。最高。
しかし、緊張する。ここ最近は仕事をしながら、片手でパンを食べ、水で流していたような食生活だった。野生児みたいな食事。締め切り前は仕方ないとはいえ、久々にクリスとディナーしたら緊張してしまう。締め切り前の酷い食生活も思い出し、顔も赤くなってきた。
それに目の前にいるクリス。今日はやけに見た目がいい。いや、普段だって背が高く、顔も整い、声もいい婚約者だが、今日は妙に高そうなスーツを着てる。腕時計も新調したのか、キラキラと美しいものをつけていた。
クリスの腕時計を見ていたら、ふと、指先に気づく。すっと細めの指だが、今は何もつけていないが、タラント村やアサリオン村の事件の時は、ダミーの結婚指輪をつけていた。潜入調査の為だ。
なぜか、何の指輪をつけていないクリスに違和感を持ってしまう。
「アンナ、何を見てる 俺の指がどうしたよ?」
しまった。あまりにも露骨に見ていたせいかクリスにバレた。
「い、いえ。何でもないわ」
「そうか?」
こうしてこの話題も終わり、着々とディナーコースは終わる。最後のドルチェが出てきた。可愛らしいチョコレートケーキ。ウサギ型のチョコレート もデコレーションされ、可愛い。
「可愛いわ。このケーキ!」
作家活動し、成金令嬢と笑われている私だったが、腐っても女なのだ。このケーキの可愛さにきゅんとし、声を上げた時だった。
「その前にアンナ。これをつけろ」
「え?」
クリスはニヤリと笑い、小さな箱を差し出す。中には指輪があった。小さな宝石もデザインされ、繊細で綺麗な指輪だ。キラキラと光り、このレストランの中でも一番派手なもの。
「さっさとしろよ」
私が戸惑っているうちに、クリスは私の手をとり、勝手に指輪をはめてしまう。一瞬の出来事だった。私はバカみたいに口を開けてしまった。もう可愛いケーキも目に入らないぐらい。自分の左手の薬指ばかり見てしまう。
この指輪、タラント村やアサリオン村でつけていたものと全く違う。デザインもそうだし、どう見ても高級品。かといって成金らしい下品さはない。うちの母の指輪と全く違う。聞くと、クリスはわざわざジュエリー職人を探し、一からデザインを描いて作らせたものだという。
クリスも自身の指に指輪をはめる。ニヤリと笑い、実に満足そう。イタズラが成功した子供みたいな顔をしている。
「婚約指輪だよ、アンナ」
さらにクリスは上機嫌。口笛までふき、あの可愛らしいケーキも食べ始めた。
「な、何か恥ずかしいんですけど」
「いいじゃないか、アンナ。まあ、ケーキも食べろよ。おいしいぜ」
しかもクリス、ケーキを私に食べさせようとしてきた。ひとかけらのケーキをフォークにさし、口元に近づける。まりで餌付けじゃないか。食事のマナーも最悪だったが、今は誰も見てはいない。
ケーキの甘い匂いが鼻をくすぐる。我慢できない。結局、このケーキを食べてしまったが、甘い。今まで食べたケーキの中で一番甘かった。顔が赤くなってしまう。恥ずかしい。いつもは比較的、冷静な性格だったはずなのに。タラント村やアサリオン村では犯人を追いかけまわすような女だったのに、どうやら私にも弱点があったらしい。
「面白い!」
こんな私にクリスは大笑いしていたが、もう私は何も言えない。
気づくと緊張感、全部溶けて消えてしまっていた。




