2.忘れ物
潮谷君から離れた部屋の入り口の隅に、俺は正座した。
「……」
顔を上げていることすらできない。こんな近くに、こんなそばに潮谷君がいるなんて、それだけでどうしたらいいかわからない。
前髪の隙間から潮谷君を覗くと、潮谷君はパラリと雑誌をめくった。
「なに?」
「いや、えっと、あの……」
俺の視線に気づいた潮谷君に、しどろもどろになった。なんなら汗も出てくるくらいに。
「あの、っ久しぶり……」
「久しぶり?今日会ったじゃん」
そう言われて、俺は顔を上げた。
「お、覚えて……」
「さすがに今日あったことくらい覚えてるけど」
「いや、そうじゃなくて」
怪訝な目で見られて、俺はもう言葉が出なかった。
でもそうだ。俺を覚えていたんじゃなくて、たまたま今日の出来事として覚えてただけで──
「持ってきたぞー!」
陽気な兄ちゃんがお盆いっぱいにお菓子を積んで戻って来た。
「これ新作なんだ~、めっちゃ気になってて。詩織も遠慮せずに食べろよ」
鼻歌でも歌いかねない様子の兄ちゃんが真ん中に座って、お菓子を置いた。
それからは、兄ちゃんと潮谷君が楽しそうに話しているのを隣で聞いていた。
一回だけ、新作のチョコミントさつまいもクッキーのあまりの不味さに「うっ……」とうめいてしまい、「大丈夫かよ?」と潮谷君がサイダーのコップを渡してくれた。飲み終わってからありがとうって言いたかったけど、兄ちゃんの話に笑っているところを邪魔できなくて、俺は同じ空間に入れるだけで十分だって自分に言い聞かせた。
「じゃあな詩織、気ぃつけて帰れよ」
「遅くまですみませんでした。また来ます」
「おー」
すっかり日が暮れてから家に帰る潮谷君を、兄ちゃんと二人で見送った。
一瞬、俺の前を通り過ぎるとき、潮谷君と目が合った。でも勘違いかもしれない。
「詩織がうち来るなんて久しぶりだったな。お前ら最近会ったなかったのかよ?」
「……うん、最近は、なかなか」
「まぁそんなもんかって、うわっ。わりー」
「うん」
先に玄関に入った兄ちゃんの頭が俺の胸元にぶつかった。靴を脱ぐときにぐらついたようだ。
中学三年になって、急に俺は身長が伸びた。今では兄ちゃんより俺の方が背が高い。兄ちゃんも平均よりは身長ある方だけど──そういえば、潮谷君は兄ちゃんよりも少しだけ身長が低かったな。昔は俺の方が二人を見上げてたのに。
それくらい時間が経ったんだなと思うと、切なくて、やっぱり潮谷君のことばかり考えてしまう自分が残念で仕方ない。
「あっ!?忘れたっ!」
「え、なに?」
冷蔵庫からお茶を出した兄ちゃんの急な大声に、俺はあんまり驚かなかった。兄ちゃんが賑やかなのは、いつものことだ。
「いや~、今日詩織が来たのはさ、俺がコンビニ行ったときにスマホも財布も忘れてて。たまたま店に入って来た詩織に払ってもらったから、その金返そうとしてたんだけど」
「じゃあお金返してないの?」
「未央、明日詩織に返しといてくれ」
「……は?」
俺は教室の入り口の前で、ゴクリと唾を飲んだ。その振動でか、ずり落ちてきた眼鏡もかけなおした。
手には兄ちゃんから預かったお金が入った封筒を持っているが、早くしないと中のお金まで俺の手汗で濡れてしまいそうだ。
ここに立って、もうどれくらい経っただろう。
朝からずっと緊張していた。休み時間の度に潮谷君のクラスの前をうろうろしていたが、今日最後の休み時間を迎えてしまった。お金だし、早く返さないとと思うのに、なかなか動けない。
それに潮谷君のクラスは、学年でもカースト上位の人が集まっている。というか、潮谷君がいることで周りの美意識が高まって、見た目も中身も磨いている人達の集団が出来上がっているのではないかと俺は思う。そんなカーストのトップに君臨している潮谷君を、末端の俺が呼び出すなんて──
「ね、あんたさ。さっきからなに?」
急な下からの声に、びっくりして声を上げるかと思った。
棒キャンディーを食べている女子が不審者のごとく俺を見ていた。
「あ、あの、潮谷君に、用があって」
「は?潮谷君に?あんたが?」
「あ、あの、俺というか、俺の兄ちゃんから返すものがあって」
うさんくさそうに俺を見上げた彼女は、くるりと身をひるがえして「潮谷くーん♡」と可愛い声で窓際の席の彼を呼びに行くと、潮谷君はすぐに立ち上がって、俺の方に来た。あまりの早さに、呼びに行ってくれた子が俺をにらんでいる気がする。
「なに?」
扉に手をかけ、俺を見上げる潮谷君は今日もたがわず美しい。なんなら昨日より美しく、どことなくいい香りもしてくる。
「聞いてる?」
ぼーっと見惚れて返事しなかったのがよくなかった。
一歩近づいてきた潮谷君の顔が、俺の目の前に急に迫ってきて、その衝撃に耐えかねて俺は一歩後ろに下がった。
「……あぁあの、兄ちゃんから、お金返しといてッて、言われて」
「あぁ、別によかったのに」
俺が両手で握りしめていた封筒を渡すと、なんでもないようにひょいっと潮谷君は受け取った。
それだけなのに、俺は空虚な気持ちになって、また一歩、後ろに下がった。
これで終わり。もう用事もないから、例え兄ちゃんのところに遊びに来たとしても、もう俺とは話すことはない。
「じゃ、じゃあ、俺教室に戻るから」
俺は潮谷君から足早に遠ざかった。一刻も早く、潮谷君から、もう潮谷君と話せない現実から、逃げたかった。
授業が終わってから、俺は少しだけぼーっとしてた。今日が終わらなければ、今日が過去になることはないのに、潮谷君と話せたことが今日のままなのに。そんなこと考えていてもしょうがない、とゆっくりと立ち上がった。
「あ、梨田!掃除当番変わってくんね?」
そんな俺の前に、彼がまた来た。昨日もそうだった。
「なぁ、どうせ予定なんてないだろ?断るなんて、なしだぜ」
「……」
ギャハハっと彼は品なく周りにいた友達と笑い合っている。俺の苗字に掛けたつもりかもしれないけど、全然面白くない。
断りたい、けど断ったらどうなるのか。カースト最底辺の俺なんて、便利な時は都合よく使って、そうじゃなくなったら扱いはひどくなるんだろう。今はただのぼっちだけど、なにか嫌がらせされたりするんだろうか。
周りも俺がどうするのかを見て見ぬふりして見てる。ここで俺が受けたら、明日からも言ってくるやつがいるかもしれない。でも、嫌がらせされるよりはマシかもしれない。
俺が口を開くと
「梨田」
呼ばれた声に教室の入り口を見ると、潮谷君がいた。
「帰るぞ……掃除当番?なに?そんなこと言ってなかったよな」
俺は目を見開いて、なんなら口も開いたままで、近づいてくる潮谷君をずっと見てることしかできなかった。
「なに、お前。梨田、俺と帰るんだけど、いいよな?」
俺に言ってきた彼も、潮谷君の圧でコクコクと頷くことしかできなくなっていた。普段クラスの中で大声を出している彼のこんな弱腰な姿、初めて見た。
それから、一緒に帰ったけど、駅に行く道でも、電車に乗ってからも、一言も話すことなんてできなかった。潮谷君も、なにも言わなかった。
「あの、潮谷君」
俺の最寄り駅で一緒に降りた潮谷君に、勇気を振り絞って話しかけた。
「あの、さっきは、ありがとう……」
でも潮谷君は全然こっちを見てくれなくて、むしろ話しかけるたびにどんどん足早に遠ざかっていくようで、俺は尻つぼみになってしまった。
立ち止まった俺を振り向くことなく、潮谷君は俺から離れていく。
「しーちゃん……」
もう、俺とはきっと関わり合いたくないんだろう。
俺はギュッと、手が痛くなるほど、カバンの持ち手を握りしめた。
悲しいけど、受け入れるしかないことだ。俺みたいなやつとは、きっと──
「なに、みーくん」
その、甘ったれた声に顔を上げると、困り顔で、今にも泣き出しそうな潮谷君が、俺を見ていた。