09.巨乳妻、恋い慕う。
妊娠を告げると、悠士は喜んでくれた。「四ヶ月!?」とものすごく驚かれたが。
蛍斗自身はまだ実感が沸かない。今後のスケジュールや気をつけなければならないことをいろいろ言われた気がするのだが、他人事のように聞いていた。それは"クマノミ"だと言われた時に似ている。
――変化薬は、どうされますか?
蛍斗の身体を変えた、"クマノミ"を生み出す薬。
胎児への薬の影響が大きいとされる妊娠十五週までに投与すればうまく作用すると言われている。
蛍斗はもう十四週目に入っている。投与するかしないかを考える時間はわずかしかない。
「どうしよう?」
「どうしようって、あー、お義母さんは?」
「二人で決めなさいって」
「そっか。お前は、どうしたい?」
「……悠士は?」
「俺は……お前が"クマノミ"でよかったと思うから、投与するのもありだと思う」
悠士は蛍斗をじっと見つめながら、そう言った。
赤ちゃんがいる。
そう言われても信じられないほど、蛍斗の腹はぺったんこのままだ。
少し元気がないのは夏バテの所為だと思っていたが、まさかつわりだったとは。
蛍斗の誕生日に一緒に飲もうと思っていたワインは、蛍斗が気分を悪くしたので結局飲まなかった。あれもつわりだったのか。
今でこそ医療の進歩で出産に命を懸けることは稀になったが、それでも危険がないわけではない。母体にとっても胎児にとっても危ないことを、いろいろしてしまっていたのではないかと思い当たってぞっとした。
率直な感想としては、驚いている。
もちろん明るいニュースだと思うし、蛍斗が欲しがるものを与えてやれたという喜びもある。だが、父親としての実感があるかと言われると、まだまだ何も考えられない。それでも、一層蛍斗を大事にしなければと思う。
さしあたっての問題は、"クマノミ"化を促す薬を投与するかどうか。
蛍斗の母親は、子どもの自主性を重んじるために薬を投与した。
悠士の母親は、宿ったありのままの形を尊重して薬を投与しなかった。
どちらの考え方も理解できる。
選択肢を与えるべきなのか、そもそも選択肢は必要か。
どちらが良いとも言えない。
薬の導入を決める議論の際にも意見は真っ二つで、それゆえ任意という形で導入された。
悠士は蛍斗が"クマノミ"であってくれてよかったと思っている。
「でも、何が子どものためになるのかは正直分からない」
もし子どもが"クマノミ"になった時、蛍斗みたいにしあわせだと言ってくれるかは分からない。
「悠士は、息子が娘になってさっさと嫁に行ったら泣く?」
「あー……どうだろうな。子どもが選んだ相手を認められる親ではありたいが」
蛍斗の父親は悠士を認めてくれた。それはどれほど複雑な心境だったのか。
蛍斗を信頼して、悠士を信頼して、二人で生きていくことを許してくれた。
泣くかどうかはその時になってみなければ分からない。
「うん。一生ものの相手が見つかってほしい」
親友でも、恋人でも。
頼れる相手がいれば、そう悪いことにはならないかもしれない。
蛍斗ほどイレギュラーなことはそうそうないはずで。
「俺は、投与したい、かな」
さっきは答えなかった蛍斗が、意見をはっきりさせた。
「俺自身は間が悪かったけど、でも運は良かったと思うんだよね」
親友で、恋人で。
そんな頼れる相手がいたから、そう悪いことにはならなかった、と蛍斗は言う。
「俺は考えなしでバカだから、たぶん立派な親になるって難しいと思うんだ。でも"クマノミ"については言ってあげられることがあるかもしんない」
いいことばかりではないけれども、そんなのは"クマノミ"だろうがなかろうが同じだ。
子どもの自主性を尊重してくれた両親のことを、蛍斗は誇らしく思っている。悠士も彼らを尊敬している。
「もし"クマノミ"になっちゃっても、俺を見ろって言ってやれる」
「俺の背中を見て育てって? どこの頑固親父だよ」
悠士は笑った。あまりにも似合わない。
「俺は"クマノミ"だけどしあわせだし、"クマノミ"だからしあわせ。だろ?」
「……ああ」
「なんで"クマノミ"にならせてくれなかったって言われたら困っちゃうけどさ」
勝手に選択肢を奪ったと言われてしまったら、返す言葉がない。
子どもを"クマノミ"にしたくなかったと言うことは、"クマノミ"である蛍斗は不幸だと言うようなものだ。
だが、勝手に選択肢を与えてくれるなと言われたら、返せる言葉がある。
――そりゃお前の母親が"クマノミ"で、しあわせだからだよ。
「もし"クマノミ"なんかで不幸だって言われたら、そりゃ"クマノミ"だからじゃなくてお前自身の問題って言ってやる」
「おいおい」
「"クマノミ"なんかになりたくなかったって言われたら、さっさといい男見つけろよーって言ってやる」
「娘が息子になるかもしれないぞ」
「あ、そっか」
「それに、普通は変化した時点で意識してる奴がいるってことだからな」
「そうだけど、そいつがいい奴かどうか分かんないじゃん」
「じゃあ、見る目を鍛えておいてやらないとな」
「お、それは俺の出番だね」
「なんで」
「人を見る目は悠士よりあると思うよ?」
「……」
間接的に自虐ネタになっていることに気づいているのかいないのか。
見る目がないという悠士が選んだのは蛍斗なのだ。
得意げな顔をする蛍斗に指摘してやるべきかどうか迷った悠士は、結局蛍斗の頭をぽんと撫でて「任せる」と言っておいた。
翌週、蛍斗は薬を投与した。
その時は悠士が付き添った。はじめて見たエコー写真にはまだ小さい、けれどもはっきりと形を成した"命"が写っていた。
十六週目、妊娠五ヶ月からは安定期に入る。
蛍斗の腹部は、ぽこん、と小さく膨れ出した。ちょうど着膨れする時期になってきたので、蛍斗の妊娠に気づく者はいなかった。
妊娠を公表するかどうかも悩んだ。公表した方がいろいろと援助してもらいやすいが、好意的に受け止めてくれる者ばかりではない。蛍斗が嫌がらせを受けたことはまだ記憶に新しい。三学期になればほぼ登校する必要もなくなるし、明らかに妊娠していると傍目にも分かるようになってからの公表でもいいのではないかという結論になり、判断は持ち越した。
十二月半ば頃に、悠士はしれっと推薦での大学合格を決めていた。
要領が良すぎる。
遊んでばかりだったわけではないが、ものすごく勉強していたというわけでもなかった。
なんだかんだ蛍斗を構ってくれて、家事も手伝ってくれた。蛍斗がどうやらつわりで本調子でなかった間はほぼ悠士に甘えていたぐらいなのだが。
「推薦は日頃の態度がものを言うからな」
悠士曰く「真面目に成績を維持し続けた甲斐があった」そうだ。学科試験に備えて勉強はしたが、普通に一般入試を受けるよりははるかに楽で、しかも早くに内定が決まる。
蛍斗の成績ではまず受けることができない推薦入試の仕組みを蛍斗が知らないのも仕方ない。
悠士の通知表には『4』がずらりと並んでいた。
「すごくね?」
「『5』が並んでるわけじゃないからな」
悠士がそこそこと言われる所以だ。それでも推薦に必要な成績評定の基準はしっかり満たしている。
『3』にすらなかなかお目にかかれない蛍斗とは雲泥の差だ。ちなみに蛍斗は一つの『5』――もちろん体育だ――と『2』の山だ。さすがに『1』は滅多にない。悠士のおかげである。
「なんだっけ。ウサギとカメ?」
「それを言うならアリとキリギリスじゃないか?」
「あ、そっちか」
最近の蛍斗は童話や童話に少し興味を持っている。
産婦人科の待合室には子ども向けの絵本が多いし、妊婦向けの雑誌にも載っていたりする。いずれ子どもに読み聞かせるために、という意図にまんまと乗せられていた。
「悠士がアリなら俺はキリギリスかなぁ。どうなるんだっけ、最後」
アリが働き続けた夏の間を歌って過ごしたキリギリス。冬になって蓄えがないことに気づいて、それから。
「野垂れ死ぬんだっけ」
確か、アリに食べ物を恵んでもらおうとして断られるのだ。「働かなかった君が悪い」と言われて。
蛍斗には耳が痛い話だ。
ちょうど去年、悠士との差に愕然として、それを自分でなんとかするのではなく悠士に頼ってなんとかしてもらおうとした。「一生面倒を見る」という悠士の言葉に甘える気満々だった。まさしくキリギリスだ。
「アリが食べ物を分けてやるっていう結末もあるらしいぞ」
「そうなの?」
「自業自得でも目の前で死にそうな奴を見捨てるのは残酷なんだと」
「でもアリだってそんな余裕ないよね」
アリだって自分たちの生活がかかっている。キリギリスを助ける義理はない。
助けてもらって心を入れ替えて。まともに働くようになるだろうか。なんとかなるんだと思って、もっと働かなくなるんじゃないだろうか。
甘やかされたら付け上がる。蛍斗みたいに。
「どうせなら、アリのごはんになったらいいんだ」
目の前で死んで、アリの糧になればいい。
悠士が食べてくれるなら、それで悠士が生き永らえるなら、蛍斗はきっと笑って死ねる。
悠士がふっと笑った。
「お前がキリギリスなら、助けてやるよ」
悠士は慈悲深いわけではない。だが、ただ堅実に生きるのと、好きなことをして生きるのと、その生き方に優劣を付けることはできないと思っている。生き方なんて人それぞれで、人に迷惑をかけず自分が満足できる生き方ができたらそれでいい。
悠士がアリで、蛍斗がキリギリスなら。
さぁどうぞともてなしたりはしないが、自分の食べ物を分けてやろうとは思う。
それで次の夏に蛍斗が元気に歌ってくれるなら。
蛍斗のやりたいようにやって、それで悠士の隣で笑っていてくれるなら。
無闇に誰にでもやさしくしようとは思わない。そこまで善良でもお人好しでもない。
蛍斗は、悠士の家族だ。
だから、たとえ迷惑をかけられても、たとえ自分が飢えても、きっと与えたいと思う。そうするだけの価値があるし、見返りもある。無償の愛だとは言えないのがかっこ悪い気もするが、与えるだけ与えて蛍斗からは何もいらないなんてことは言えないのだから仕方がない。
いいとか悪いとか、正解だとか間違いだとか。そんなものは主観の話で、個性の違いだ。
悠士は蛍斗を食べたりしない。見捨てたりもしない。悠士は悠士のために、蛍斗を助ける。
「悠士は物好き」
「お前な」
半眼になった悠士に、蛍斗が抱き着く。
「俺、重くない?」
「体重が?」
「ちっがーう!」
力いっぱい足を蹴られた。痛い。
妊娠中に体重が増えるのは当たり前だと思うのだが。
もちろん蛍斗のセリフが比喩的な意味だということは分かっている。
「ちゃんと悠士もしあわせ?」
考えなしのくせに時々妙にネガティブで、自分だけしあわせになっていないかと不安がる。
重荷になって捨てられたら困ると、自分のことだけでいっぱいだと言いながら、悠士のしあわせを願ってくれている。
「あほ」
「なんでっ」
「お前実家帰る?」
「え、やだ」
「な?」
「へ」
「あいにく不幸になってる暇はない」
蛍斗が隣で笑っている限り、悠士はしあわせでいられるのだ。
無償だとは言えないが、採算が取れなくてもいいとは思う。なるほど、物好きかもしれない。だが、文句あるか。
蛍斗は笑いたいのか怒りたいのか、どちらとも付かず失敗したような奇妙な顔をしていた。
「どうした?」
「嬉しいけど嬉しくない」
「はぁ?」
「悠士がしあわせだと嬉しい。でも実家帰れは嬉しくない」
「いや帰れとは言ってない」
「あんまりだ。子どもができたらポイなんてひどい」
「待て待て。なんでそうなる」
人聞きの悪いことを言わないでもらいたい。
「どっちかって言うと俺の方が捨てられかねない立場だろうが」
強く子どもを欲しがっていたのは蛍斗の方だ。子どもができたから捨てられるのではないかと心配するのは悠士の側であるべきだ。どうして悠士が責められるのか。
「捨てないよ!」
「俺だって捨てねーよ」
だいたいその発想はいったいどこから出てきた。
「……だってさびしい」
「あ?」
「悠士、しないじゃん」
「へ? 何を」
「何も」
「あー……いや、それはほら、な」
確かに妊娠が分かってからそういう意味で仲良くする時間はめっきり減った。今こうして並んでベッドに寝転がっても、その先を求めないでいる。そこへさっきの「実家帰る?」が追い打ちをかけたらしい。
「もうしたくないの」
「いや、だからなんかあったら困るっつーか」
「平気だよ。先生も大丈夫だって言ってた」
妊娠中だからと言ってできないわけではない。安定期は文字通り母体が安定する時期だ。もちろん普段よりは控えめにする方がいいそうだが、ずっと我慢し続けるのもよくないらしい。
そうは言っても、蛍斗一人に対してさえ力加減を間違えないか心配する悠士が、妊娠中の蛍斗にうまく手を出すのは至難の業だ。
「じゃあ、キスだけ」
明らかに物足りないという空気を滲ませながら蛍斗がねだる。
自分さえ我慢すればいい、と思っていた悠士は、だが蛍斗の不満げな、寂しげな顔を見て思い直した。
もう子どもはできたのに、それでも悠士を欲しがってくれるのは素直に嬉しい。
悠士はむくりと起き上がり、蛍斗の腕を引いた。
「乗りな」
「え、でも、俺重い」
「ばーか」
「わっ」
膝の上に大事な身体を抱きかかえる。
「もう一つ命背負ってんだから、重いに決まってる」
「悠士は二つ背負うの?」
「背負うさ。がんばる」
重くてけっこう。蛍斗の分も、蛍斗が抱えるもう一つの命の分も、両方背負ってみせようではないか。
悠士にとっては、キスだけで止まれるかどうかという方が問題だ。




