07.巨乳妻、揺れ動く。
その日は朝一番で婚姻届を提出し、記念写真を撮り、お互いの家族と一緒に昼食を食べた。
夏季休暇を取って戻ってきていた蛍斗の父親は、蛍斗の花嫁姿にやはり涙した。その後の食事会で義理の息子となった悠士と飲み交わそうとし、婿として断ることができなかった悠士は蛍斗に睨まれながら一杯だけワインを飲んだ。
この国では、男性が結婚できるようになるのも、飲酒解禁も、選挙権を得るのも、十八歳からだ。
法的な権利が認められるのは大抵十八歳が基準になっている。一応成人は二十歳ということになっているが、それは単にキリがいいという感覚的な問題だ。昔からの名残でもある。昔からの名残と言えば、女性の結婚可能年齢は十六歳のままなのだが、これは男性の結婚可能年齢が社会的な見地、ぶっちゃけ家族を養えるかどうかを基準にして定められているのに対して、女性の場合は身体的な問題、具体的には出産に耐え得るかどうかという部分を重視したからだと言われている。男女平等という観点では疑義ありとして法改正しようとする動きもあるが、まだ実現には至っていない。
蛍斗は入籍した時点では十七歳だった。悠士が蛍斗に睨まれたのは、酒に酔うなということではなく、そもそも先に飲むなというお怒りゆえのことだった。後でこっそり悠士と蛍斗が生まれた年のワインをいただいたので、蛍斗が十八歳になったら一緒に飲もうと思っている。
悠士にとって、自分の誕生日は親に感謝を伝える日、そして蛍斗と過ごす日になった。
蛍斗が女になった日も、はじめて二人が身体を繋いだ日も、プロポーズした日もそれぞれ大きな節目だが、結婚記念日は何より大事にしたいと思う。
特定の日を祝う習慣のない悠士だが、さすがにその日を忘れることはないだろう。
その日は二人の日、二人だけの日だ。特別扱いする意味がある。
夜は、想定よりもずっとおとなしく過ごした。
もちろん何もしなかったわけではないが、なんだか胸がいっぱいで、激しく運動するよりはゆっくり会話を楽しんだ。
おかげで翌朝すっきり目覚めたので朝っぱらから盛ってしまったのは余談である。
蛍斗は実家で花嫁修業を続けている。
受験生の悠士を連れ回すわけにも行かず、一人で遊びに行くのもつまらず、蛍斗は新居と実家を往復する毎日だった。
水曜日と週末は休む日で、遊ぶ日だ。
悠士が受験生であることは最低限理解しているつもりだが、休日は勉強も花嫁修業もせず、夫婦の時間を満喫することにしていた。半分以上ベッドの上で過ごしてしまうのは、まぁ若い上に新婚なので仕方がない。
水曜日以外の平日は、昼食の後実家まで送ってもらい、悠士は帰って勉強し、夕方また迎えに来てもらうという生活が基本だ。今の蛍斗は一人でも外出するようになったが、悠士の気分転換と運動不足解消も兼ねている。のんびり二人で散歩するのはちょっとしたデート気分だ。悪くない。
悠士の方が家事の腕は上だった。母子家庭である分必然的に家事手伝いをよくしていた悠士に対し、両親健在で姉が二人もいる蛍斗が手を出す余地はあまりなかったので当然と言えば当然なのだが、まだぎこちない部分はあるにしろ、掃除も洗濯も料理も、悠士一人に任せきりにはしない。
意外に料理を作るのは楽しい。自分のために作ろうとは思わないが、悠士に食べてもらうという目的があると俄然やる気が出る。家事歴で大先輩の悠士にはまだまだ敵わないが、その悠士を唸らせるのが最終目標だ。
今年に入ってから、それでも数か月母親から習っている料理の成果は――努力賞はあげてもいい、という評価をもらっている。
蛍斗自身の味覚が崩壊しているとか悠士と極端に合わない舌を持っているということもないので、まずい料理を作ってしまった時は蛍斗自身がまずいと感じる。最後の味見を忘れるのが蛍斗らしいと言えば蛍斗らしい。
蛍斗はまだ新しい献立を考えるのにレシピ本が手放せない。食材を無駄にしない献立作りも不得手だ。主婦の知恵はそう簡単に身に着かない。蛍斗が三食全部作ると悠士くんの身体が心配だ、という母親からのお達しで、蛍斗は夕食のみを作っている。蛍斗が使った食材の残りで、悠士が翌日以降の朝食と昼食を作る。相変わらず悠士は蛍斗のフォロー役だ。
時間をかけて作った蛍斗の料理より、ぱぱっと作った悠士の料理の方がおいしいということも多々あるが、悠士は残さず夕食を食べてくれる。焦げていたり生焼けだったり味付けを忘れていたり、お世辞にもおいしくない料理に対してお世辞を言う悠士ではないが、次はどうしたらいいというアドバイスをくれる。
口を出されて怒る蛍斗ではない。と言いつつ一度ダメ出しに思いっきり凹んで拗ねてみたら、悠士が気を使ってリビングのソファで寝てしまったことがあった。一人ではセミダブルのベッドが広く感じられて無性に寂しくなった。
その時の蛍斗は、一人でがんばって、悠士を唸らせたいと思いながらも、なかなか上達しない自分自身に焦れていた。地道な努力なんてしたことがない。
がんばってもうまくはできなくて、それでも悠士は食べてくれるが、何が足りないのか、何がだめなのか、悠士は分かっていて、蛍斗には分からない。言われたら気づくが、言われなければ気づかない。
最終目標は変わらない。一人でできるようにもなりたい。でも、まだ助けてほしい。
一人でまずいごはんを作るより、二人でおいしいごはんを作りたい。
そんなことを言った気がする。はっきりとは覚えていないが。
蛍斗を怒らせた。
悠士もまだ若輩者だ。よかれと思ったことでもうっかり傷つけてしまうことがある。
嘘も方便だが、基本的には正直に生きたいと思っている。だがその時は恐らく正直に言いすぎた。せっかくがんばって作ったものをあれこれダメ出しされるのは楽しいことではない。出来上がったものの出来が良くないとしても、かけた時間と気持ちを労うことは大切だ。労うより先にダメ出しをはじめてしまった所為で、そしてダメ出しの量が多かった所為で蛍斗を怒らせた。
リビングのソファで寝る機会は早々に訪れた。一緒に寝ると、なし崩しで身体の方に思いが向いてしまう。それでは同じ事を繰り返しそうな気がした悠士は頭を冷やそうとソファで眠ったのだが、起きたら目の前に蛍斗がいた。悠士が眠るソファにもたれて、三角座りの体勢で。ずっとそこにいたのかと思うと、ぎゅっと胸が締め付けられた。
夏の明け方。普段の起床時間よりまだだいぶ早い時間だった。
「なんで一人にすんの」
甘ったれで、寂しがりで。
「がんばるから、怒んないで」
素直で、健気で、かわいくて。
うっすら涙を浮かべてそんなことを言うから、たまらず抱きしめた。
「怒ってねーよ」
「……ほんと?」
タオルケットに包まる蛍斗を膝の上に抱いた。
「俺、余計なことしてる?」
家事を手伝うどころか、かける迷惑を増やしているのではないかと。
――悠士がなんかしてくれるともっとしあわせ。俺がなんかできたら、悠士ももっとしあわせ?
そう言って、蛍斗は家事を習いはじめた。
確かに悠士がやった方が早くうまくできるというのは事実だ。蛍斗のように失敗を重ねることもないだろう。
無駄が多いことなのかもしれない。
だが、決して無駄なことではない。
「お前の家事能力に期待して結婚したわけじゃねーから」
むしろそんなことは度外視だった。
「俺だっていっぱい失敗した」
悠士とて最初から家事全般をこなせたわけではない。当時は小学生だったので致し方ない部分もあるとは言え、持ち前の要領の良さをもってしても、問題なくこなせるようになるまで数年かかった。
蛍斗は高校生だが、未経験のことに挑む難しさはあまり変わらない気がする。
うまくなくていい。時間がかかってもいい。
悠士のために何かしたいと思ってくれる。してくれる。それが嬉しくて、しあわせだと思う。
――ごはん作って。
悠士に甘えてねだる蛍斗の声が思い出される。
面倒だと思ったこともあるが、蛍斗のために作ることも、蛍斗が食べてくれるのも、嫌だと思ったことはなかった。そのうちねだられなくても何かしてやりたいと思うようになった。
諦めて、取り上げるのは簡単で。
自制して、見守るのはもどかしくて。
だが、どちらが蛍斗のためになるのか、二人のためになるのかと考えたら。
「俺も、お前がなんかしてくれたらしあわせ」
「え」
「お前がなんかできたら、じゃなくて」
大事なのは、完成度ではなく気持ちだ。
悠士のためにと思ってくれる蛍斗の気持ちが、悠士をしあわせにしてくれる。
「そりゃできる方がいいんだろうが、焦んなくていいだろ」
先の長い結婚生活の、まだスタート地点だ。
短距離走ならスタートダッシュが明暗を分けることもあるだろうが、長距離走ならスタートをうまく決められなくても挽回できるチャンスはある。
どちらかと言えばウサギタイプの蛍斗だが、カメのように着実に一歩ずつ進む気があるなら、果報は寝て待てばいい。
「お前はよくがんばってるよ」
その努力を、ちゃんと知っている。
「……ほんとは一緒がいい」
「ん?」
「一緒に作りたい」
蛍斗が望むなら、悠士は与える。
「今日は何作るんだ?」
「カレー」
「……それ、俺いるか?」
悠士もそれほど手の込んだ料理は作れないが、カレーは初歩の初歩だ。逆に失敗する方が難しいのではないだろうか。
「悠士のカレーの方がおいしい気がする。なんで?」
「同じルウ使えば同じじゃね? ああ、火加減とか煮込む時間で変わるのかもな」
入れる具材によっても変わるかもしれないが、大抵残り物の野菜をぶち込むから参考になるかどうか。
「それ教えて」
「俺も適当だぞ」
「適当が分かんない」
レシピに沿って作っている間は、臨機応変に、柔軟に作る癖が付きにくい。
「塩少量とか適量とかすごい困る」
「確かにな」
繊細な料理ならさじ加減一つで味が変わる。だからこそ料理は多彩で奥が深い。
こればかりは習うより慣れろ、だ。
「一緒に作ろう」
悠士の言葉に、蛍斗はほっとしたように笑った。
明るい日差しが室内の陰を追い払っていく。
そのまま一日をはじめる方が健康的だったのかもしれないが。
「とりあえず寝直すか」
「うん」
タオルケットごと蛍斗を抱き上げて、悠士は寝室へ向かった。
ベッドに蛍斗を下ろして隣に横たわると、すぐに蛍斗がくっついてきた。
やはりこうでなくては。
二人で暮らしはじめてまだ数週間だと言うのに、一人で眠ると違和感があった。落ち着かなかった。ソファで寝たから、という意味ではない。
悠士の腕は蛍斗の枕になり、蛍斗の身体は悠士の抱き枕になる。
暑い夏でも、その体温を感じていたい。
「ゆーじ」
誘われて、悠士は蛍斗にキスをした。やさしく触れて、やわらかい唇を味わう。
悠士が唇を離すと、蛍斗はちゅ、ちゅ、とかわいらしい音をさせながら悠士の顎や首筋に吸い付いた。
「こら、おとなしく寝ろ」
「……しないの?」
むう、と蛍斗が唇を尖らせる。
「寝不足だろ」
「へーき」
あんな体勢で夜を明かして、何が平気なものか。
蛍斗の自己申告は当てにならない、と悠士は思っている。
「いいから」
「やぁだ」
「やだじゃない」
「や――」
細い身体をぎゅうっ、と抱き込んでキスで黙らせた。
「今は寝ろ」
起きたら、寝かさないから。
発しなかった言葉は、だがちゃんと伝わったらしい。
蛍斗は嬉しそうに目を細め、そして瞼を閉じた。すぐに静かな寝息が聞こえてきた。
それを確認してから、悠士も目を閉じて眠りに落ちた。
昼過ぎに起き出した悠士が喉の渇きを潤すために冷蔵庫から取ってきたペットボトルを、後ろから伸びてきた手が奪い取る。
「おい」
ごくごくと勢いよく中身を飲み干していく蛍斗に呆れた視線を向けるが、蛍斗はどこ吹く風だった。ほとんど空になったボトルを返されて、悠士はそれをサイドテーブルの上に置いた。
蛍斗の腕が首に巻き付く。しなだれかかってくる身体に自然と腕を回して抱きしめた。
「飯は?」
「んー、それよりこっち」
言いつつ悠士自身にも蛍斗を離す気はさらさらなく、キャミソールの下に手を忍ばせながら素肌の感覚を楽しんだ。
明るい日差しを浴びながら蛍斗の身体をまさぐり、裸に剥いていく。無遠慮な悠士の手を拒みもせずに、蛍斗はくすくすと楽しそうに笑っていた。
「ゆーじ」
「ん」
「へへ」
ひとしきり抱き合って、さすがに空腹を感じた二人は一旦ベッドを離れた。一緒にカレーを作るという約束を果たそうと思ったが、じっくり煮込む時間が惜しく感じられたため、軽くそうめんで腹を満たした後再びベッドに戻った。湯を沸かす時間さえももったいなかった。
結局午後もひたすら仲直りの時間に充てた。休日ではなかったのだが、勉強より修業より大事なことだと思った。
夕方には約束通り並んでキッチンに立ち、カレーを作った。その日の夜も翌日も、しばらくカレーが続いた。
とりあえずその日決めた二人のルールは「ソファで眠る前に一回話そう」というものだ。
全部が全部うまくは行かない。思い込みで見当違いのことをしてしまうこともある。変に気を使うとすれ違う。
相手の顔色を窺って飲み込んだりせず、言いたいことは言い合う。
親友の頃から、恋人になってもそうしてきた。夫婦になってもそれは変わらない。変えたくない。
知っているようで、知らないことはたくさんある。きっとまだまだある。知らないことの方が多いくらいかもしれないが、それでも知っておいた方がいい大事なことは知っている。
――君の隣が、俺のしあわせ。




