03.巨乳女子、勝ち誇る。
新学期、無事三年生になることができた蛍斗は当然のように悠士と同じクラスになった。
これも"クマノミ"の特権の一つだ。
希望すれば、特定の人間と同じクラスになることができる。学校側としても"クマノミ"を持て余してしまいがちになるので、大抵すんなりと希望は通る。同じ要領で座席もやはり前後左右をキープしてある。同じクラスに"クマノミ"への差別意識が強い者がいると面倒だ。
お目付け役を卒業した悠士だったが、彼氏として防波堤になるのはやぶさかではない。むしろどんと来い。
新学期の教室には、どことなくそわそわとした空気が流れている。
一年の時に同じクラスだった者、二年連続で同じクラスになった者、そしてはじめて同じクラスになった者――その違いがそのまま蛍斗との距離感に表われていた。
二年連続で同じクラスになった者は、蛍斗と普通に会話している。
はじめて同じクラスになった者は、ただ好奇心に満ちた目で蛍斗を見ている。
一番遠巻きに見ているのは、一年の時に同じクラスだった者たちだ。記憶の中の蛍斗と目の前の蛍斗がうまく結びつかないようだった。
蛍斗も自分から近づこうとはしなかった。男子に対する警戒レベルは多少引き下げられてはいるが、それでも積極的に関わりたくはないらしい。そうでなくとも今の蛍斗は、一学期が終われば悠士と一緒に住める、ということに意識が向いていた。
新しいクラスで警戒すべきは男子ではなかった、と蛍斗が気づいたのは、新学期がはじまってからわりとすぐのことだった。
「有賀さんさぁ、気持ち悪いよ」
一年の時に「かわいい」と思っていた女子を中心としたグループだった。また同じクラスになって、すごく喜んだわけではないが普通に仲良くなれたらいいなとは思った。
まさか、あからさまな敵意をぶつけられるとは思っていなかった。
蛍斗はただ女子トイレを利用しただけなのだが。
「女ぶっても所詮男でしょ?」
「今井くんが好きで女になったんだって?」
「そういやあんまり男らしくなかったもんね」
「そんで今井くんのやさしさに付け込んでつきまとってるの?」
「最低じゃん」
真っ向から向けられた悪意、侮蔑、嘲笑――蛍斗はそれらを新鮮な気持ちで受け止めた。
なんだかんだ、負の感情をまっすぐぶつけてくる者は少ない。"クマノミ"への差別は法律違反になるからだ。
なるほど傍目にはそう見えているわけだ、と蛍斗は思った。事実も大して変わらない。
きっかけこそ違うが、所詮中身は男で、悠士のやさしさに付け込んで、つきまとっている。
間違ってはいない。
「偽物のくせに男に媚売って、どういう神経してんの?」
――偽物。
蛍斗自身、そう思ったことがある。生まれながらの女のようには、ほんとの女にはなれないと。
「俺もそう思う」
「はぁ!? ふざけてんの?」
「いや、俺も不思議なんだよね」
媚を売ったつもりはないが、悠士への甘えがそう見えたのかもしれない。
我ながら変化を柔軟に受け入れすぎだとは思っている。もっと悩んだり葛藤したりするべきだとも思う。
悠士が変わらなかったから。
蛍斗がありのままでいられる場所があったから、蛍斗は変わらないでいられた。
そのままで、と悠士が望むから、これからも蛍斗は変わるつもりがない。
「偽物でも、悠士からは離れないよ」
すごい形相で睨まれた。
笑った方がかわいいのに、と少し残念に思った。
表面上は特に大きな問題はなかった。
時々女子トイレで絡まれるぐらいだ。
教室では悠士と一緒にいるし、さもなければ去年からのクラスメイトと一緒にいる。第三者の目があるところでは、彼女たちも接触してこない。
こういうことが予想できなかったわけではない。
去年登校を再開した時は、そもそも女子更衣室と女子トイレが使わせてもらえず、結果的にずっと悠士と一緒にいられた。悠士の目が届かないところに行くことはなかった。
"クマノミ"は、異物だ。
いくら国策とは言え、性別が変わるという、普通ならばあり得ないことが起こるのだ。受け入れがたく感じる人間の方が多いと言われている。
差別されていい気はしないが、仕方のないことだとも思う。
絡まれていることを、蛍斗は悠士に言っていない。
気を使っているわけではなく、言うほどのことでもないからだ。
気持ち悪いと言われて傷つくほど、蛍斗は繊細ではない。
男のままで女子から「気持ち悪い」と言われたらそのダメージは深刻だったかもしれないが、彼女たちの言う「気持ち悪い」は「理解できない」と同義だ。生理的嫌悪感を抱かれて喜ぶほど特殊な性癖は持っていないにしろ、その心情は理解できないものではない。理解できないものを嫌がるのはわりと自然なことだと思う。
男子を相手にする時のように暴力を警戒する必要がないから楽なものだ。
蛍斗はやさしい人たちに囲まれている。絶対的に肯定してくれる人がいる。
ほんとの女なら、傷つくのだろうか。萎れるのだろうか。
だったら、蛍斗は絶対に傷つかない。傷つくはずが、ない。
ぱちん、と少し間の抜けた音が響いた。
振りかぶられた手を、蛍斗はただ見ていた。その手の平が自分の頬を打った時も、ただ叩かれた。
(女って弱い)
その非力さを蛍斗も知っている。
男らしくなかったと言われる蛍斗でさえ、女子よりははるかに強い握力を持っていた。
骨格の違い、筋肉量の違い、詳しいことは分からないが、ともかく女子の力は弱い。痛くないわけではないが、思ったよりもずっとダメージが少ない。
女の身体でもやりようによっては男をいなせることもあるから、身体的な差というよりは力の込め方が違うのかもしれない。女の子がグーで人を殴るところはあまり想像できない。
「いい加減目障りなのよ」
憎々しげに吐き捨てられた。
知ったことか、と蛍斗は思う。
「いつまでも今井くんにつきまとわないで!」
結局のところ、彼女たちが言いたいのはそういうことなのだ。
"クマノミ"だから気に入らないというのも事実だろうが、単に人のものを羨んでいるだけだ。
本物の女なのに、悠士に選ばれなかったことが。
偽物なのに、悠士に選ばれたことが。
彼女たちには許しがたいこと。
「それは悠士に言いなよ」
だいたいそれを言う権利は悠士か悠士の家族にしかないはずだ。
悠士のそばを離れないのは蛍斗の意思だが、蛍斗を離さないのもまた悠士の意思だ。悠士が「つきまとうな」と言えば、蛍斗も少しは考える。考えるだけでたぶん言うことは聞かないと思う。悠士でもない他人が言ったところで聞くわけがない。
一年の時から、その目は悠士を見ていた。「かわいい」と思った子の視線が自分を通り過ぎて悠士を見ていたことに、蛍斗は気づいていた。
「あんたなんか、お情けで面倒見てもらってるだけのくせに!」
「だからなんだよ」
想った期間の長さなら負けているのだろう。
だからって、どうして蛍斗が引いてやらなければならない。
悠士でなければならないのは、蛍斗だって同じだ。
悠士が呼び出しに応じていなかったから、悠士を好きだという女子と蛍斗が直接対峙するのはこれがはじめてだった。
(悠士、こんなのよく我慢してたな)
どうでもいい他人が、勝手に人の心を推量して勝手に代弁しようとする。ばかばかしいことこの上ない。
あながち言っていることが間違いでもないのが笑える。
"クマノミ"として差別されるのは仕方がないと思えるが、悠士とのことに口出しされて仕方がないとは思えない。
それでも蛍斗はやり返さなかった。
三年生になってから、悠士と蛍斗は別行動が増えた。
大学を受験する悠士と受験しない蛍斗では選択科目がいろいろと異なる。
昼休み、特別教室から戻ってきた悠士は蛍斗がいないことを不審に思った。
「蛍斗は?」
「さぁ」
「あ、有賀ちゃんならさっき廊下ですれ違ったよ。川上ちゃんたちと一緒だった」
「川上と?」
一年の時にも同じクラスだったが、悠士の中では特別な思い出は何もない。蛍斗が「かわいい」と言っていたような気もするが、接点はほとんどなかった。
三年で再び同じクラスになってからも、特に付き合いはなかったはずなのだが。
新しい友人ができたのなら喜ばしいことだと思った悠士の携帯が震えた。
『裏庭で昼食べるから持ってきて』
悠士は眉間に皺を寄せた。
言われた通り蛍斗の弁当を持って裏庭へ向かう途中、川上たちとすれ違った。
悠士の眉間の皺はさらに深くなった。
「蛍斗」
ぽけっと空を見上げていたら、悠士の声がした。
「お早いお着きで」
「なんでおとなしくやられたんだ」
悠士が静かに怒っている。静かだが、かなり怒っている。
「あれぇ? なんでバレたの」
「途中で川上たちに会った」
「……しゃべったの?」
「蛍斗の居場所を聞いたら、様子がおかしかった」
「それだけ?」
「それに、赤くなってる」
悠士の手が蛍斗の頬に触れた。
あまり痛くないと思ったのに、しっかり証拠は残ったようだ。
「俺からはさわってない」
「……馬鹿が。ちゃんと自衛しろ」
「煽るなって言うじゃん」
避けたら煽ることになる。だからおとなしく叩かれたのに。
「お前が傷ついたら意味がない」
蛍斗を傷つけられたから、悠士は怒っている。
蛍斗は笑った。
「だからだよ」
「なにが」
「仕返し。意趣返し、って言うの?」
「?」
悠士のきょとんとした顔が、余計に蛍斗の笑いを誘った。
悠士はモテる。だが、蛍斗のものだ。
(バカな奴ら)
蛍斗に手を出したら、悠士の怒りを買う。悠士はこうやって一層蛍斗を心配して構う。
あいつらの神経をこれでもかと逆撫でしてやろう。難しいことではない。悠士に甘えるだけでいい。蛍斗の得意とするところだ。
「俺けっこう性格悪いや」
「そうか?」
精々気持ち悪がればいい。嫉妬すればいい。
(あげないよ。離れる? 考えられない)
「悠士に守ってもらうから」
言いながら、蛍斗は悠士に抱き着いた。
手放すなんて、あり得ない。
「ああ、守るさ」
悠士の懐に抱かれて、蛍斗は花が咲くように笑った。
ただそばにいてくれるだけでいい。女なんかにわざわざ近づかなくていい。
――この男は俺のもの。
これって女の思考かな、と蛍斗はぼんやり思った。
叩かれた日から、直接的な嫌がらせがはじまった。
女子の嫌がらせは陰湿だ。どのラインを超えたらイジメと呼ぶのだろう。
鬱陶しいとは思うが、別に傷つかない。
嫌がらせがあればあるほど、悠士のリードは短くなる。いつでも手を伸ばして掴める位置にいてくれる。
ただ、悠士の手が届かない場所もある。
(やられた)
上から水が降ってきた。なんて古典的。あからさまに形跡を残すとかバカだろう。しかも蛍斗にはダメージを与えられていない。
水をかけられた蛍斗が最初に思ったことは、悠士を呼び出して授業をサボることだった。
『女子トイレ。タオル持ってきて』
『すぐ行く』
返信は素早かった。蛍斗がいないことに、とっくに気づいていたのだろう。
蛍斗は個室の中でくすくす笑った。
「蛍斗?」
悠士の声がして、蛍斗はすぐに個室から出た。女子トイレの入り口で悠士が佇んでいる。
「お前、それ……」
「やられちゃった」
ぺろっと舌を出す。
蛍斗は全身ずぶ濡れだった。
「ジャージ――」
「いいよ」
もう授業がはじまっている。今取りに行ったら目立ってしまう。
服の水気を絞り、悠士が持ってきてくれたタオルで身体を拭いてから蛍斗はトイレを出た。
教室には向かわなかった。
ぺたぺたと歩く蛍斗から、ぽたぽたと水滴が落ちる。
「おい」
「乾かすの」
授業中で人気のない廊下を歩く蛍斗の後ろを悠士が追いかける。
「やっぱジャージ――」
「でも教室戻んないよ」
ジャージに着替えて授業を受けるのは構わないが、何かあったというかされたとバレてしまう。
彼女たちを庇うつもりは毛頭ない。だが、被害者であってもこの手の話はややこしくて面倒だ。鬱陶しい。特に蛍斗は"クマノミ"だから、差別行為が立証されたら法律に引っかかる。去年の一件が頭をよぎった。事情聴取と称して時間を取られるのが嫌だ。それに、結局"クマノミ"が問題を起こしたと言われてしまうのだ。
殊勝に耐えたりはしない。泣き寝入りもしない。
巻き込まれる悠士が気の毒だが、いい加減理解してもらわなければ。何をされたって蛍斗が悠士から離れることはないと。蛍斗に何かしたら、被害は悠士に及ぶと。
「悠士は授業出てくれば?」
待ってるし、と言ったら頭を小突かれた。
「早退伝えて鞄取ってくる」
蛍斗なんかに捕まって、時々悠士はものすごく不幸なんじゃないかと思わなくもないが。
「いい子にしてろ」
甘いキスなんて残されたら、付け上がるのも無理はないと思う。
たぶん蛍斗も怒らせると怖い子。




