04.巨乳女子、振り返る。
結局、蛍斗は担任に嫌がらせについて相談することにした。
彼女たちの言葉も行動も、蛍斗を傷つけるには至らなかった。もちろん、蛍斗と悠士の仲をこじらせるようなものでもなかった。
自分が傷つけられるより、大事な人を傷つけられる方が許せない。
蛍斗が傷つけられて怒るのは、蛍斗ではなく、蛍斗の大事な人たちだ。蛍斗にしても、無闇に悠士のストレスを増やすのは避けたかった。
さすがに教師は大人である。明らかに迷惑そうな空気を滲ませながらも、"クマノミ"に直接文句を言ったりはしなかった。
その後嫌がらせは止んだ。
時折物言いたげな様子を見せる彼女たちは、だが蛍斗にも悠士にも近づいてこなかった。
たとえ心理的に受け付けないとしても、"クマノミ"相手では分が悪い。
"クマノミ"はその特異性と国策であるという両面から、ある意味差別と言っていいほど優遇されている。言ってみれば子どもの喧嘩に大人がしゃしゃり出るようなものだ。過剰防衛という気がしてならない。それでも直接的な被害を受けたことは確かで、悠士が嫌がっていたこともあり、蛍斗は正当防衛なのだと思うことにした。
蛍斗が嫌がらせを受けたのは実質二週間程度のことだった。
蛍斗は鏡を見つめた。
今ではもう見慣れた女の裸体だ。
大きな二つの膨らみも、平らな股間も、丸みを帯びた体つきも、一年前は違和感だらけだったのに。
一年前まで、蛍斗はごく普通の男だった。どこにでもいる、何の変哲もない男子高校生だった。
突然蛍斗を襲った現実。思いもしない身体の変化。それでもこの一年で蛍斗は新しい身体に慣れた。
胸元の赤い痕が目に付く。三日前に悠士が付けたものだ。
身体のどこかには、悠士に愛された形跡が残っている。それは決して絶えることがない。
悠士に愛されることを、今の蛍斗は嬉しいと思う。喜んでいる。
蛍斗の恋人は、イベントだからと盛り上がったり、やたらと大げさな愛情表現を見せたりするわけではないが、静かに、ひたむきに、絶え間なく愛してくれるから、蛍斗が寂しいと思うことはない。
まだ膨らまない腹をそっと撫でる。妊娠の兆候は見られない。毎月順調に生理が来ている。
いつかはここに悠士の子どもを身ごもりたい。その願いは変わっていないが、もう少し二人だけの時間を楽しむのもいいかもしれない。
相変わらず蛍斗は本能的で、中に出されることを好む。子どもが欲しいというよりは、悠士を感じたいから。
種を残したいという本能を、悠士と愛し合いたいという気持ちが凌駕している。
この一年の間にも、蛍斗は変わり続けている。そして、何も変わっていない。
今日はたくさん愛してもらおう。いっぱい痕を付けてもらおう。たっぷり中に出してもらおう。
蛍斗の中を、悠士で満たしてもらおう。
ああ、夜が楽しみだ。
女になったのはいつかと聞かれたら、蛍斗は高校二年の一学期末だと答える。
それははじめて悠士に抱かれた日、そして女になったことを肯定的に受け入れはじめた日だ。
だが、生物学的に女になったのは、身体の変化がはじまったのは五月初旬だった。連休明け、大好きなアイドルの水着姿に喜ぶよりもショックを受けた蛍斗は悠士相手に散々愚痴った。その夜、悶々と女体について思いを馳せ、妄想した。そういう妄想をしたのははじめてではなかった。だが、タイミングが悪かった。
翌朝、蛍斗の胸は小さく膨らんでいた。
その日は起き抜けからだるかった。それでも習慣で学校に行こうとして、パジャマを脱いだ時に違和感を覚えた。
ふと見下げた胸元が、平らだったはずのそこがささやかに膨らんでいた。
一瞬太ったのかと思った。だが、肉が垂れたにしてはずいぶんきれいな形をしており、なんだか直視しづらかった。
あまりにしんどそうにしていたのか、母親に言われて熱を測ってみたら想像以上の高熱が出ており、結局蛍斗は学校を休んだ。
次の日も熱は引かなかった。母親が身体を拭いてくれようとして異変に気がついた。胸の膨らみがさらに大きくなっていた。
病院に連れて行かれ、体調が悪いのにいろいろと調べられ、結果"クマノミ"だと言われた。
なんだそれ、と思った。
薬の作用で性転換する。説明されても意味が分からなかった。
同性を好きになったのではないかとか、男であることが嫌になったのではないかとか、そのようなことをいろいろ聞かれたけれども、蛍斗にはまったく身に覚えのないことだった。その時の蛍斗が一番好きだったのは『えりにゃん』だ。かわいい女の子だった。
「ちょっと女になってみたいかなとは思ったけど――え、それで?」
「いやまさか」
「でもまさか」
「いやいやいやいや!?」
みんなでパニックになった。それを蛍斗は少し他人事のように見ていた。
あまりにも現実味がなさすぎた。
三日目には少し熱が治まった。悠士が見舞いに来てくれたが、会わずに帰ってしまった。
悠士の反応が見てみたいような、怖いような、複雑な気持ちだった。
微熱は一週間続いた。その間蛍斗はよく眠った。
胸は日に日に育っていった。男の象徴は日に日にしぼんでいった。
誇れるほどに大きかったわけではないが、それでも男として当たり前に持っていたものが消えてしまった日、蛍斗は泣いた。
男の頃の蛍斗はそれほど泣き虫ではなかった。喜怒哀楽は豊かな方だったが、女に囲まれて育った蛍斗にとって涙は女の武器だった。
『男の子は泣かないの』
外見があまり男らしくなかった蛍斗にとって、泣かないことは男らしくいられる要素だった。
それなのに、男らしさどころか男そのものである証を失って、蛍斗はわあわあ泣いた。
思いっきり泣いて、開き直った。
深く考えるのは苦手だ。考えたところで、蛍斗の身体はもう女になってしまった。元には戻らないと言う。
二週間で、蛍斗の身体はほぼ変化を終えた。せっかく百六十後半になっていた身長も縮んで百六十前半に逆戻りだった。
もういろいろと考えるのを投げ出した蛍斗は思った。
(とりあえず、学校に行かなくちゃ)
勉強が好きなわけではない。ただ早く日常に戻りたいと思ったのだ。あまりにも自分が変わりすぎてしまったから、何か変わらないものに縋りたかった。
だが、母親が止めた。
「でも蛍斗、心配だわ」
「え」
「女の子になっちゃったのよ。今までと同じようには行かないわ」
「どういうこと?」
「今まで男女で別れていたことをする時はね、蛍斗は女の子の方へ行くのよ」
「……え、と?」
「女子に混じるの。たとえばトイレとか着替えとか……大丈夫?」
「だ、大丈夫!」
その時の蛍斗は少し期待感を持った。未知の世界に堂々と入り込めることに気づいたからだ。
母親は目ざとかった。
「……なんだか大丈夫じゃない気がするわ。他のお家の娘さんに悪戯しないでね」
「え!?」
「普通女の子になった"クマノミ"は男の子を好きになるからそういう心配はないそうだけれど、蛍斗はね」
「う」
「女の子が好きよね」
「う、うん」
「やっぱりすぐには学校に行かない方がいいと思うわ」
「どうして!」
「蛍斗自身はもちろん、周りの子もびっくりするでしょう。中身はどうあれ身体は女の子なの。立ち居振る舞いも違ってくるわ。"クマノミ"には配慮してくれることになっているけれど、蛍斗だったらどう? 今まで男の子だった友だちが突然女の子になっちゃったら戸惑わない?」
「それは……そうだけど……」
「焦ってもいいことはないわ。蛍斗が女の子に悪戯するのも困るけれど、蛍斗だって男の子から悪戯されちゃうかもしれないのよ?」
「え!?」
母親の言葉は、蛍斗が考えもしないことを示唆していた。
「ほら、自覚がない。鏡を見なさい。男の目から見て、今のあなたはどういう姿?」
「……でも」
「女の子になった蛍斗と変わらず接してくれる子はいる? そういう友だちが思い浮かぶ?」
「…………悠士。悠士、なら」
こういう状況で縋れるとしたら、親友しか思い浮かばなかった。
「悠士くん? ……ええ、彼は真面目そうだけれど」
何度か遊びに来たことがある悠士のことは、母親の中でも好印象らしかった。
「真面目だよ。めちゃくちゃお堅いし」
「そう。でも、だったら逆に蛍斗のこと受け入れづらいんじゃないかしら」
母親の言葉に、蛍斗はショックを受けた。
見舞いに来てくれて以降、時々メールをしていた。
蛍斗が"クマノミ"だということは聞いたはずだが、変化を目の当たりにしていない悠士はいつもと変わらなくて、メールの中では蛍斗も何一つ変わっていなくて。
今の蛍斗を支える、大切なやり取りだった。
「で、でも意外にノリがいいんだ。俺がバカやってもフォローしてくれるし、一緒にふざけてくれるし、だから、だから……」
「そんなに学校行きたいの?」
「……だって、俺、こんなのおかしくなりそうだよ」
家で、一人で、変わり果てた自分と向き合うなんて。
考えることに慣れていないのに、嫌でも考えなければならなくなる。
悠士とのメールが唯一の現実逃避だった。
「……分かったわ。もし悠士くんが女の子になった蛍斗とも仲良くしてくれるって言うなら、一緒に学校に行ってもいいわ」
「本当!?」
「ただし、ちゃんと悠士くんに了解を取ること。もし断られたら、登校は二学期からよ。それまでに女の子として鍛えてあげるから」
母親の言う鍛え方に空恐ろしいものを感じて、蛍斗はすぐさま悠士を呼び出した。
「ねぇ、蛍斗」
「うん?」
「悠士くんって、いい子ね?」
「? うん、いい奴だよ」
「真面目でお堅くて、でもノリがいいの?」
「うん」
「それにかっこいいわね」
「まぁ、よく告られてはいるけど」
「そうなの」
「?」
「悠士くんだったら、お母さんいいと思うわ」
「は?」
「むしろ蛍斗をもらってくれるならありがたい話よ」
「なにが!?」
女になったばかりの子どもになんてことを言うのか。
この時蛍斗は自分の母親の肉食っぷりを実感した。
(まぁでも悠士なら変なことはしなさそうだし、交渉が難しいようならちょっとぐらいは触らせてやってもいいかもしれない)
――悠士なら。
蛍斗も蛍斗の母親も、意見が一致した。
「蛍斗、女は度胸よ」
「……あれ? そうだっけ?」
何か違う気がしたが、あまり頭の良くない蛍斗には何が違うのかまでは分からなかった。
――悠士なら。
蛍斗と蛍斗の母親の信頼は、裏切られなかった。
悠士は蛍斗に手を出してしまったことをしばらく気にしていたが、悠士以外誰も気にしていなかったので気にするだけ無駄だと悟ったようだった。
蛍斗は後悔しない。過ぎたことをくよくよ考えたりしない。その時々で自分の気持ちに正直に行動するからだ。
それでも、あの時悠士の名前を出したのは我ながらファインプレイだったと思う。
母親の後押しもありがたかったと思う。
おかげで、今の蛍斗は毎日のようにしあわせだなぁと感じている。
"クマノミ"であることは必ずしもいいことばかりではないけれども。
まだ、「女になってよかった」と心から言えるわけではないけれども。
男として今日を迎えるより、もしかしたらしあわせかもしれないとは思っている。
そう言えば蛍斗が女になって丸一年経ったのか、と悠士は蛍斗の家のベルを鳴らしてから気がついた。
ちょうど一年前、珍しく学校を休んだ蛍斗のお見舞いのため同じような時間に同じようにしてベルを鳴らした。
去年は学校帰りだったが、今日は土曜日だ。
泊まりに来て、という恋人の願いを断る理由はなかった。
「いらっしゃーい」
おや、と悠士は目を瞬かせた。
いつもなら蛍斗の母親が出迎えてくれるところなのに。
「どしたの」
「いや、おばさんは?」
「ああ、父さんのところに行ってる」
もしかしたら、また悠士はこの母子にハメられたのだろうか。
にんまりと笑う蛍斗の顔が、悠士の考えを肯定している気がした。
「誰もいないよ。俺と悠士だけ」
きっとこの日のために予定を組んでくれた。
イベントには疎い悠士だが、大きな節目を無為に過ごしたいとは思わない。
蛍斗の部屋ではなく、リビングに通される。
泊まりの名目は、アルバムを見るということになっていた。
卒業アルバムのために、小さい頃の写真と一年、二年の頃の写真を持ち寄るように制作委員から依頼された。こんなに大きくなりました、というページを作りたいらしい。
蛍斗の写真は大量にあった。まめに子どもの成長記録を取っておく家庭のようだ。リビングに広げられていたのは、何冊ものアルバムを部屋に運ぶのが面倒だったからだろう。選ぶほどの量もない悠士とは大違いだ。
悠士は高校で蛍斗に出会った。それ以前の彼のことは知らない。
蛍斗が引っ張り出してきたアルバムの至るところに、やんちゃそうな男の子のはじける笑顔が散りばめられていた。
「これは家族で公園に行った時のかな。姉ちゃんが虫大っ嫌いでさぁ、カマキリ見せたら殴られた」
「親父さんともよく虫取り行ったのか?」
「行った行った。カブトムシの幼虫取ってきて育てたり。しなかった?」
「あんまり。弟とセミ捕まえたりはしたかな。捕まえてもすぐ逃がされた」
「おばさんも虫苦手な人?」
「得意ではないらしい」
ページをめくると、アルバムの中の少年が大きくなっていく。
やがて、悠士の記憶の中にいるのと同じ姿が登場しはじめた。一緒に悠士が写っている写真もある。
「昨日、母さんと一緒に見たんだ」
「そっか」
「いろいろ思い出した」
「……」
二年生になってからの蛍斗の写真は、まだ整理されていなかった。




