知らない世界
「なあ、ホントに行かねえの?」
「何度も言うけど、俺は行かない」
初夏というには強すぎるほどの日差しを浴びながら、春川晴は公園のベンチに寝転がった。目隠し替わりにタオルを顔に乗せる。
「頼むから行こうぜ、な?」
「行かない」
そう言って、相手が答える前に電話を切る。
「付き合ってられないな……」
昔からそうだ。電話の相手……夏井涼はことあるごとに山に行きたがる。春夏秋冬、クソ暑い日からクソ寒い日まで。春は芽吹き始めた緑が美しいと言って俺を連れ出し、夏は緑真っ盛りの自然が太陽を受けて燦々と輝いていると言って俺を連れ出し、秋はと言えば舞い降る落ち葉が儚げで情緒を感じさせると言って俺を連れ出し、冬に至っては山頂で雪合戦がしたいというどうしようもない理由で俺を連れ出す。
だからこそ、今年こそは山になど行くかと思っていたのに……
「なんでお前がここにいる!」
「えへへ、来ちゃった」
「来ちゃった」じゃない。せっかくクソ暑い中見つからないために家から遠めの公園に避難したというのに……
「どうしてここが分かった?」
「ん~、女の勘かな」
どうしてこいつはいつもこうなんだろうか。女じゃないだろとかツッコむ気にもなれない。
「悪いが今年は断固として行かねえぞ」
「悪いが今年も断固として連れて行くぞ」
涼が俺の前で腕を組みながら仁王立ちで見下ろしてくる。まあ、だからといってあまりガタイの良くない涼にそれをやられても怖くはないんだが。
「うっ、ぐはぁ。すまない涼、俺は『山に入ったら最後生きて帰れない病』なんだ」
「よし、それじゃあリハビリだ。山に行こう」
涼が気持ち悪いくらいの笑顔でそう言ってくる。
どうやらこの手は通じないらしい。それなら……
「悪いな涼。どうやら時が来てしまったようだ。もう長居はできない。今、月から迎えがくるんだ……」
「うん、その迎え僕ね」
くそう、通じないか。どうしてあいつはこうも頑固なんだろうか。
「そうだ涼、忘れてた。そういや俺、母さんに用事があるって呼ばれてたんだ。だから悪いな、山は今度で……」
「晴のお母さんには言ってあるから大丈夫だ」
根回し済みだったか。なかなか手ごわいな。
「知ってるか、今日、実は『山に行ってはいけない記念日』らしいんだ」
「そんな日だからこそ山に行ってみたいと思わない?」
なんてやつだ。さすがに毎年俺を連れ出すだけのことはあるな。想像以上に手ごわいぞ。
「そうだ。こういうのはどうだ?いっそ逆転の発想で海に行くとかさ」
「・・・・・・」
そう晴が海に行くことを提案すると、涼は少し黙り込んだ後大きくため息をついた。
「そっか。そこまで行きたくないのか。それならしょうがないよね。僕もできればこの手は使いたくなかったんだけど」
そう言うと涼はポケットから携帯を取り出し、どこかに電話をかけてそれを晴に投げてよこした。
嫌な予感がする。なんというか、携帯から邪悪な気配がもうもうと立ち込めている。俺には分かる。これは出てはいけない電話だ……いや、出たくないけど出なきゃいけない電話だ。
俺が躊躇していると、涼が笑顔で「どうなっても知らないよ」と言ってきた。それを見て俺は確信した。
「分かったよ涼。俺の負けだ、山に行こうじゃないか。だからこの電話は……」
「もう遅いよ」
晴はガックリとうなだれた。
非人道的すぎる。鬼だ、悪魔だ。よりによって姉貴に電話をかけるなんて。
余談になるが、俺の姉貴はヒドイ。加減とか遠慮とか容赦とかあったもんじゃない。誕生日にはプレゼントと称してケーキをパイ投げの要領で投げつけてくるわ、ちょっとぶつかっただけで人の大事な所に蹴りをいれてくるわ……。もう挙げだしたらキリがないくらいにヒドイ。
もうこうなったら仕方がない。さわらぬ神にたたりなし。奥の手でいこう。
そう決めると晴は涼に向かってすごい申し訳なさそうな顔を作った。
「涼……悪かったな」
涼がポカンとして晴を見つめる。
「ホントにごめんな」
晴はそう言うと、勢いよく携帯の電源を切った。
「え?」
そして唖然としている涼に携帯を投げ返すと……全速力で逃げた。
「ちょ、晴!ヤバいって!マジでそれはマズイって!」
知ったことか。心の中でつぶやく。
涼の悲鳴にも近い叫び声を背中に聞きながら晴は全速力で逃げた。
電話を切られたとなれば間違いなくあいつは俺を探しにやってくる。家からはそう遠くない距離だから、5分ってところか。いや、もう少し早いか?とりあえずどこか隠れる場所が欲しい。
そう思って走り回っていると、ちょうどいいところが見つかった。
「神社か……」
案外いい考えかもしれない。少し階段を上るという手間はあるが、基本的に境内は木陰だし、周囲も木々に囲まれて見通しも悪いはずだ。うまくいけば、このクソ暑さからも、涼からも、あの忌々しい姉貴からも逃げられる。
「よし」
あたりを見回して追手がいないことを確認する。遠くから不気味な叫び声が聞こえるが、まだ視認できる距離じゃない。
周りの安全を確認すると、石段を登ろうと、鳥居をくぐった。
その時だった。
目の前が暗くなっていき、立ちくらみにも似たような感覚を覚え、ほどなくして晴は気を失った。
*
刺すような寒さに春川晴は目を覚ました。
ぼんやりと夜空を見上げる。
おぼつかない思考が少しずつまとまっていき、思い出したかのように一つにつながる。
「そういや……」
そういや逃げていた。夏井涼や姉貴から逃げて
「神社だ……」
神社に隠れようと鳥居をくぐった。そこまでは覚えている。そこで記憶が途切れている。
晴はゆっくりと体を起こすと、近くにあった柱に寄りかかった。
冷たい夜風が、刺激となって意識がはっきりしてくる。
どうしてこんなことになったんだろうか。
思い当たる節がない。思い当たる節がない以上考えようがない。
晴は立ち上がって軽くノビをした。体が音を立ててほぐされていく。
「どうすっかな……」
口に出してみる。もちろん返答はない。
いったいここはどこなんだろうか。見覚えがない。俺の知る世界なのだろうか、知らない世界なのだろうか。
仮にここが俺の知らない世界、いわゆるところの異世界だとしよう。俺はどうすればいいんだろうか。
そもそも、今目の前に広がる景色は村そのものだ。畑があり、畜舎があり、木造の家が点在し、井戸まである。典型的なという表現が適切なのかは分からないが村と言って差し支えないほど村だ。
だとしたら、ここは俺の知る世界なのだろうか。
いや、そうじゃない。間違いなくここは俺の知らない世界だ。異世界だとしても、異世界じゃなかったとしても、ここは俺の知る世界じゃない。
じゃあ、と新たな疑問が晴の頭に浮かぶ。
じゃあ、俺はどうやってここに来たんだ。鳥居をくぐったんだ。姉貴から逃げるために、神社に行くために鳥居をくぐったんだ。鳥居をくぐって気を失った。正確には鳥居をくぐったかも分からない。くぐろうと足を踏み出した途端に気を失ったんだ。
そして、ここにある柱もどうやら見たところ鳥居のようだ。つまり、鳥居で気を失って鳥居で目を覚ましたわけだ。
だとしたら、そう思って鳥居をくぐってみたが、結果は期待外れに終わった。
結局途方に暮れてしまった。
どう考えても俺がここに来た理由は分からないし、どうすればいいかもわからない。ここがどこかも分からなければ、どうやって帰るかも分からない。
八方ふさがりだ。満身創痍、絶体絶命。
「まあ、五体健康なだけでやりようがあるか……」
こういう時は前向きに限る。何かの本でそう読んだことがある。
仮にここがそういう所だったとして、どうなるかは分からなかったとして、今まだ命が続いている以上この命を紡ぐことが最優先事項だろう。
ともすれば、とりあえずやることが決まった。当面の目標が決まった。
生きること。命を紡ぐこと。可能な限りこの命の灯を絶やさぬよう努力すること。
そうと決まるとあとは進むだけだ。
晴は大きく息を吸い込むと、綺麗な寒空の下、不確かな未来へと、とりあえず一歩を踏み出した――




