第19話:灯火をあずかる手
源さんを看取ったあの冬の夜から、季節は巡り、再び柔らかな光が街を包む春が訪れていた。
源さんが旅立ったあとのクッションの前に、私たちは今も毎日、新鮮なお水とお花を絶やさずに置いている。
ハルと黒猫は、時折そのクッションの匂いを嗅いでは、まるでそこにまだ大好きな仲間がいるかのように、のんびりと日向ぼっこをしていた。
「命を最期まで見届ける」という経験は、私たちの活動に、より深い覚悟をもたらした。
それをきっかけに、私たちの保護活動は新しく「看取りのボランティア」という、特別な形へと動き出していた。
動物ボランティアの現場には、病気や高齢のために、もう新しい里親が見つかる可能性が極めて低い犬や猫たちがいる。
ただ施設で最期の時を待つしかない彼らを、私たちの家に迎え入れ、残された時間を家族として穏やかに過ごさせてあげること。
それが、今の私たちが担う大切な役割になっていた。
「この子、名前は『サクラ』っていうの。もう腫瘍が全身に転移していて、余命はあと数週間って言われているのだけど……」
ボランティア団体の真壁さんからそう紹介されたのは、ガリガリに痩せ細った、15歳の三毛猫だった。
サクラは、自分の運命を受け入れているかのように、静かで深い瞳をしていた。
「私たちの家へいこう。美味しいご飯と、暖かいお布団を用意してあるからね」
私はサクラを優しい布で包み、我が家へと連れ帰った。
人間の病院で看護師として働く日々の中でも、私は多くの「看取り」に携わっている。
医療の力ではどうにもできない限界が訪れたとき、私達看護師ができることは、苦痛を少しでも和らげ、その人がその人らしく、尊厳を持って旅立てるよう寄り添うことだけだ。
人間の医療現場で培ったその知識と技術は、サクラのような動物たちに対しても、そのまま活かされた。
どこが痛むのか、どうすれば息が楽になるのか。
言葉を持たないサクラの小さな身体のサインを、私は看護師としての視線で見守り、彼はサクラが少しでもリラックスできるよう、部屋の温度を整え、お気に入りの音楽を小さな音で流した。
サクラと過ごした日々は、わずか一ヶ月足らずだった。
けれど、その一ヶ月の間、サクラは私たちのベッドの真ん中で、ハルや黒猫に見守られながら、まるでずっと昔からそこにいた家族のように、喉をゴロゴロと鳴らして甘えてくれた。
そしてある日の明け方。
サクラは私の手のひらにそっと顔を預けたまま、最後にもう一度、深く息を吸い込むような仕草をして、静かにその生涯を閉じた。
「サクラ、お疲れ様。うちに来てくれてありがとう」
涙が頬を伝う。
過酷な世界で傷つき、見捨てられかけた命が、最期の瞬間だけでも「愛されていた」という記憶を持って旅立てたのだとしたら、私たちの存在には、確かな意味があったと思えるからだ。
サクラを看取った日の夜、私は一人、あの古いわたあめ機の前に立っていた。
ゴトゴト、ゴトゴト……。
静かに回り出す回転皿。
ザラメを入れていない機械から、ほんのりと熱が立ち上り、白銀の糸がふわりと部屋の空気に溶けていく。
あの日、物理準備室であの青年が遺していった、命の熱。
それは今、私の手を通じて、源さんへ、サクラへ、そしてこれから出会うであろう多くの「消えゆく命」へと手渡される、優しいバトンになっていた。
「お疲れ様」
後ろから、彼が私の肩にそっと手を置いた。
その手のひらの温かさに、私は深く息を吐き、寄り添う。
「ねえ。私、看護師になって、そしてこの活動を始めて、本当によかった」
「うん。お前がその手で救って、寄り添ってきた温もりは、みんなに届いていると思うよ。そしてあの日からずっと、あの青年にも、ちゃんと届いていると思う」
「……ありがとう」
胸の奥がじんわりと温かくなり、私は彼の手に自分の手を重ねた。
一人では抱えきれなかったかもしれない命の重みも、別れるさみしさの胸の痛みも。
隣で共に悩み、手を差し伸べ、一緒に歩んできてくれた彼がいたからこそ、ここまで来られたのだ。
この人と出会い、共に命と向き合える日々があることに、心からの感謝が込み上げてくる。
私は彼のぬくもりに背中を預けながら、窓の外の夜空を見上げた。
春の夜空の向こうで、あの青年がいつものように悪戯っぽく笑っている気がした。
命はもろい。
いつか必ず終わりが来る。
だからこそ、その灯火が消えるその瞬間まで、私たちは温もりを送り続ける。
(全19話・終わり)




