第18話:最期の優しい熱
ご近所とのわだかまりが解け、本当の意味でこの街に受け入れられた私たちの家。
けれど、命を預かる日々の中には、いつか必ず向き合わなければならない「その時」が存在する。
私たちが保護施設から引き取った三匹の家族のうちの一匹、耳の遠い老犬の「源さん」に、その瞬間が近づいていた。
引き取った当初からかなりの高齢だった源さんは、ここ数ヶ月で一段と足腰が弱くなり、寝ている時間が増えていた。
それでも、私たちが帰宅するとゆっくりと尻尾を振り、彼が差し出すご飯を美味しそうに食べてくれていた。
けれど、冬の始まりの、ある静かな夜のこと。
源さんは大好きなリビングのクッションの上から、起き上がることができなくなった。
浅く、早い呼吸。
トクトクと刻む心音は、あの日雨の中でハルを抱きしめた時のそれとは違い、ゆっくりと、消え入りそうなリズムに変わりつつあった。
「源さん……」
私は看護師として、人間の臨床の場で何度も「死」の瞬間を見てきた。
だからこそ、今この部屋を満たしている空気が何であるかが、痛いほど分かってしまった。
彼は源さんの傍らに静かに膝をつき、その大きな手のひらで、源さんの白い毛並みを優しく、何度も何度も撫でていた。
「よく頑張ったね、源さん。うちに来てくれて、ありがとうな」
彼の声は震えていたけれど、どこまでも温かかった。
ハルと黒猫も、異変を察したように源さんのクッションの周りにそっと寄り添い、静かに見守っている。
『もろいからこそ、人は誰かを愛し、記憶を遺そうとするんだ』
かつて物理準備室の暗闇で、青年の遺した白銀の雲を見つめていた時の記憶が蘇る。
あの時の私は、命の「もろさ」が怖くてたまらなかった。
終わってしまうことが、消えてしまうことが、ただ恐ろしくて心を閉ざそうとした。
けれど、今の私は違う。
源さんが私たちの元で過ごした時間は、彼の長い犬生のうちのほんの数年だったかもしれない。
それでも、ここで私たちが注いだ愛も、源さんが見せてくれた愛おしい仕草も、決して消えはしない。
命が形を変えても、その「記憶の熱」は、私たちの心の中に永遠に残るのだと、私はもう知っている。
私は立ち上がり、陽当たりの良い部屋の片隅に置かれていた、あの古いわたあめ機の元へと歩いた。
コンセントを差し込み、スイッチを入れる。
ゴトゴト、ゴトゴト……。
静まり返った夜の部屋に、機械の音が響き出す。
ザラメは入れない。
ただ、回転皿が回り、熱を発していく。
すると、目に見えないはずの白銀の糸が、ふわりと、夜の空気の中に湧き上がってきた。
あの日、あの青年が遺していった命の残滓。
それが、今この部屋で消えかけようとしている別の小さな命の灯火を、優しく包み込むように揺らめいた。
私はその見えない雲を、両手でそっとすくい上げるようにして、源さんの元へ運んだ。
源さんの身体に手を添える。
かすかな体温。
けれど、確かにそこにある命の熱。
「源さん、大好きだよ。安心していいからね」
私が呟いたその瞬間。
源さんは、一度だけ深く、満足したように息を吐き出した。
そして、そのまま静かに、眠るようにして息を引き取った。
部屋の中に、ゴトゴトというわたあめ機の音だけが優しく響いていた。
彼は源さんを抱きしめ、声をあげて泣いた。
私も彼と源さんを覆うように抱きしめて、涙を流した。
その涙は、一匹の尊い命を、最期まで愛し抜き、看取ることができたという、深く、温かい感謝の涙と、別れのさみしさだった。
窓の外を見上げると、夜空の向こうに、ひとひらの白い雲のような月が輝いていた。
「……ねえ」
私は彼の涙を拭いながら、静かに微笑んだ。
「源さんの熱も、ここに残ったね」
「うん……。そうだね」
彼は赤くなった目で頷き、私の手を強く握り返した。
あの青年が遺してくれた雲。
ハルが繋いでくれた命。
そして、源さんが最期に遺していった、いちばん優しい熱。
それらすべてが、私たちのこの小さな家に、新しく、そして確かな強さとなって溶けていく。
命に向き合うことは、やっぱり切なくて、もろくて、時に痛い。
けれど私たちは、これからもそのもろさを愛し、手を伸ばし続ける。
部屋の隅で回り続けるわたあめ機の音に背中を押されながら、私たちは二人と二匹で、また新しい明日への一歩を歩み出す。
(全18話・終わり)




