修学旅行編 第4話:吊り橋効果と、答えられない問い
三日目。大阪。
某テーマパーク。
ゲートをくぐった瞬間、達也が両手を広げる。
「自由だァァァッ!!」
「昨日も自由行動だっただろ」
「違うね! 今日は遊園地だ! 遊園地の自由は格が違うんだよ!」
朝から全開の達也に引きずられ、俺たちは園内を走り回る。
アトラクション。パレード。ポップコーン。
達也と美咲が被り物をして写真を撮り、瑠奈が「ダサい」と笑う。
俺がその笑顔を撮って詩織さんに送ると、数秒で『ブレています。撮り直し』と無慈悲な返信が来る。
相変わらず、遠隔監視の精度が恐ろしい。
***
午後。
「ねえねえ聖次、あれ乗ろうよあれ!」
美咲が指差したのは、園内で最も高低差のある絶叫コースターだ。
「……マジか」
「マジマジ! 吊り橋効果って知ってる? 恐怖のドキドキを恋のドキドキと勘違いするってやつ! 隣に瑠奈座らせるから、ガッツリ効かせてきなよ!」
「うるっさい! 誰がそんなの狙って……」
瑠奈が顔を真っ赤にして美咲を小突くが、列を離れようとはしない。
乗り込む。安全バーが降りる。
隣の瑠奈が、さりげなく俺の袖を掴む。
「……べ、別に怖くないし。落ちた時に飛ばされないようにしてるだけだし」
「はいはい」
発車。
ゆっくりと上昇していく。大阪の街並みが眼下に広がる。
最高点。一瞬の静止。
──映っていた景色は消え失せた
「きゃああああああっ!!!」
「うおおおおっ!!!」
風圧と重力で視界が歪む。
その中で、瑠奈が俺の腕に強くしがみついてくる。袖どころか、腕ごと抱え込んでいる。
彼女の体温と微かなシャンプーの香りが、恐怖感に混じって俺の脳を揺さぶる。
コースターが減速し、ホームに戻る。
だが、瑠奈は俺の腕から離れようとしない。
「……おい、着いたぞ」
「……わかってる。足が、まだ震えてるだけ」
「怖くないんじゃなかったのか」
「うるさい。黙って支えてなさいよ」
後ろの座席で、達也と美咲がニヤニヤしながらスマホを構えている。
「撮れた撮れた! しがみつき瑠奈ちゃん最高!」
「消しなさいよ!」
「やだね〜」
瑠奈が美咲を追いかけ回す。
園内にいつもの笑い声が響く。
平和な、ただの高校生たちの修学旅行だ。
***
そのままアトラクションをいくつか乗り継ぎ、チュロスを齧りながらベンチで休憩していた時のことだ。
スマホを取り出そうとポケットに手を入れた瞬間、ポロリと小さな布袋が地面に落ちる。
出発前夜に遥さんから渡された、あの手作りのお守りだ。
「おっ、なんだこれ。聖次、何か落としたぞ」
隣にいた達也がヒョイと拾い上げる。
その時だ。手作りゆえの緩い結び目がほどけ、中から小さく折りたたまれたメモ用紙がポロリと滑り落ちる。
「あ、おい達也、それに触るな──」
俺が止めるより早く、達也は不可抗力で開いてしまったその紙切れに目を落としている。
「……ん? なんだこれ。『聖次さんLOVE♡』……?」
達也の動きがピタリと止まる。
隣で覗き込んでいた美咲が、ジュースを吹き出しそうになる。
「……は? ちょ、えええええッ!? 『さん』付け!? 聖次、お前年下の彼女いんの!?」
「マジかよ! この丸文字、絶対可愛い後輩とかだろ! お前いつの間にそんな子と……!」
大惨事だ。
俺の脳内データベースが、即座に最適解を弾き出す。
「……違う。年下の従姉妹だ。修学旅行前に、心配して渡してくれたんだよ。優しい子だろ?」
俺は平静を装い、肩をすくめてみせる。
達也たちは「なんだよ従姉妹かよ〜」「でもブラコンじゃん!」と囃し立てている。
なんとか誤魔化せただろうか。俺はホッと息を吐き、メモを奪い返そうと手を伸ばす。
その時だった。
「……見せて」
ずっと黙っていた瑠奈が、達也の手からスッとそのメモを抜き取る。
彼女の視線が、紙片に躍る『聖次さんLOVE♡』という文字に落ちる。
俺の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
達也たちは知らない。
だが、瑠奈には一目で分かってしまう。
その丸くて優しい、愛情たっぷりの文字が──大好きな自分の母親のものであると。
「……瑠奈」
修学旅行の非日常という魔法が、解けていく音がする。
ここはただの遊園地で、俺たちはただのクラスメイトとして笑い合っていたはずだ。
だが、この紙切れ一枚が、絶対に覆らない『既定事項』を彼女に突きつけてしまった。
──俺が、いずれ彼女の母親と結婚する男だという現実を。
「……ふーん。こどもっぽい字」
瑠奈は鼻で笑い、ひらひらとメモを俺に投げ返す。
いつものギャルの、小馬鹿にしたような笑み。
だが、俺には分かる。
宙を舞う紙片から目を逸らすように伏せられた長い睫毛が、微かに、けれどはっきりと震えているのを。
メモを突き返した彼女の右手は、行き場を失ったように空を掻き、やがてパーカーのポケットに突っ込まれて、外側から見ても分かるほどギュッと固く握り込まれる。
「……ほら、休憩終わり。次、お土産見に行くよ」
振り返りもしない。
瑠奈は誰よりも早く立ち上がり、ずかずかと歩き出す。
その細い背中が、周囲の喧騒から逃避するように少しだけ早足になっていることには、達也も美咲も気づいていない。
逃げ込んだ先は、夕焼けに染まるお土産ショップだ。
達也と美咲が「別の被り物も見ようぜ!」と別の棚へ消えていく中、瑠奈は店の隅のキーホルダー売り場でピタリと足を止める。
彼女の視線の先には、ペアの鈴のキーホルダー。
赤と青の二つが、一つの台紙にくっついて並んでいる。
「……これ」
「ん?」
「……修学旅行の記念。お小遣い余ってるし」
瑠奈は棚から無造作にそれをひったくると、レジへ向かい、すぐに戻ってくる。
そして、台紙から青い方の鈴を乱暴に外す。
「……それ、俺にか?」
「アンタ以外誰がいるのよ」
瑠奈がスッと目を逸らす。
「……」
「なんで黙るのよ。いいから持ちなさいよ!」
照れ隠しのように声を荒げ、瑠奈は青い鈴を俺の胸にドンッと押し付けると、赤い方を自分のポケットに突っ込んだ。
「アンタが持ってないと片方余るじゃん。……家の鍵にでも付けて、落とさないようにしなさいよ」
「……ああ。ありがとう」
俺は素直に受け取り、青い鈴を手のひらで転がす。
「ちょうどよかった。家の鍵、そのままポケットに入れてて落としそうだったんだよな。これなら安心だ」
俺がそう言って笑うと、瑠奈は少しだけ口角を下げた後、すぐにいつもの「ニシシ」という笑みを貼り付ける。
「……そ。なくしたら承知しないから」
俺は青い鈴を軽く振ってみる。
チリン、と高く澄んだ音が鳴る。
すると同時に、彼女のパーカーのポケットからも、くぐもったチリンという音が響いた。
「……っ」
瑠奈はビクッと肩を揺らし、パーカーのポケットを外からギュッと握りしめて、強引に音を殺す。
「……バカ。店の中で鳴らさないでよ。うるさい」
「お前がくれたんだろ」
「聖次は鈴でも付けてないと、すぐ迷子になるでしょ」
「ならねえよ」
いつもの生意気な笑みを浮かべて、彼女は俺に背を向ける。
夕日を浴びたその耳元が、隠しきれないほど真っ赤に染まっている。
俺の観察眼は、その変化を見逃さない。
だが俺はそれを、『変なお土産を押し付けた照れ隠し』か、あるいは『夕日のせい』だと、父親として自分に都合よく処理してしまう。
左ポケットには、母親からの重い愛情(お守り)。
右ポケットには、義理の娘から押し付けられた青い鈴。
俺が彼女の小さな変化を正しく掬い上げていれば。
この小さな鈴の音が、彼女の張り裂けそうな心の悲鳴の代わりであることに、気づけたのかもしれないのに。
***
三泊目の夜。ホテルに戻った後。
同室の達也は遊び疲れで即死し、布団に倒れ込んだまま着替えすらせずに寝息を立てている。
消灯後の暗闇の中で、俺のスマホが光る。瑠奈からのLINEだ。
『非常階段。十分後』
一行だけの、迷いのないメッセージ。
三度目の正直。俺は布団の中で、少しだけソワソワしている自分に気づく。
音を立てないように布団を抜け出し、そっと部屋を出た。
指定された非常階段の踊り場へ、俺は五分を目指し六分後には到着する。
「今日は早いじゃない」
「さすがに三回目ともなるとな」
瑠奈がクスリと笑う。
コンクリートの壁と、蛍光灯の白い光。
瑠奈がパーカーを羽織って、冷たい階段に座っている。
彼女が動くたび、ポケットの中で赤い鈴がチリンと鳴る。
「……今日、楽しかった」
「ああ」
「……アンタも叫んでたよね」
「……否定しない」
少しだけ笑い合う。
そして、重い沈黙が落ちる。
「……ねえ」
瑠奈が口を開く。
その声は、昼間の遊園地で見せた無邪気なものとは全く違っていた。
「……卒業したら、アタシたちどうなんの?」
心臓が嫌な音を立てる。
一番触れられたくない、俺自身も蓋をしている核心。
俺が「引率の保護者気分」で答えを先送りにしている間。
こいつはこの修学旅行中ずっと、一人でこの重い問いを抱えたまま、必死に笑っていたんだ。
(……俺にとっても、お前は大事な家族だ)
だからこそ、生半可な言葉で誤魔化すことなんてできない。
「今はギリ、クラスメイトじゃん。でも卒業して、ママと結婚して、名字も変わって。……そしたらアタシ、本当にアンタの『娘』にしかなれないんでしょ」
「……」
「それって──もう、戻れないってことじゃん。アタシがどんなに──」
途切れる。彼女は自分の言葉を飲み込んだ。
俯いたまま、膝の上で両手がきつく握り込まれている。
「……ううん。なんでもない」
嘘だ。彼女が何を言いかけたか、俺には痛いほど分かっている。
でも、俺は答えられない。
「大丈夫だ」と言えば嘘になる。
「俺も同じだ」と言えば、これまでの全てが壊れる。
「家族だろ」と言えば、彼女を深く傷つける。
どの言葉を選んでも、誰かが痛む。
俺はただの高校生で、彼女の父親で、その矛盾に押し潰されそうになっている。
──スマホが鳴る。
【着信:黒澤 詩織】
俺が画面を見た瞬間、瑠奈はふいっと顔を背け、小さく息を吐き出す。
「……出なよ。お姉ちゃんでしょ」
「……もしもし」
『──遅いです。今日の写真報告がまだ来ていません』
耳に届いたのは、事務的な声。いつもの詩織さんだ。
『明日は最終日ですから、お土産を忘れないでください。初日に伝えた抹茶系ですが、新大阪駅でも買える京都の有名店の抹茶ラングドシャを指定します。非常に割れやすいお菓子ですから、絶対に荷物の下敷きにしないよう細心の注意を払うこと』
「……了解」
『では、おやすみなさい。……瑠奈にも、早く寝るよう伝えてください』
電話が切れる。
「……なんだって?」
「写真が足りないってさ。あと、明日新大阪で抹茶のラングドシャを買ってこいと。絶対に割るなという圧力付きで」
「……相変わらず。全部お見通しか、お姉ちゃんは」
非常階段を降りる。
廊下は静まり返っている。
「……聖次」
「ん」
「……ごめんね。変なこと聞いて」
「変なことじゃない」
俺は瑠奈の目を真っ直ぐに見つめる。
ごまかしてはいけないと思った。
「……ただ、今の俺には答えが出せない。ごめん」
俺の言葉に、瑠奈は一瞬だけ泣きそうな顔を作り──。
すぐに、いつもの生意気な笑みを、無理やり貼り付けた。
「……そ。なら、今はまだ『これ』でいいじゃん」
瑠奈が立ち上がり、俺の横を通り過ぎる。
そして、すれ違いざまに、俺の耳元で残酷なほど甘く、冷たい声で囁いた。
「……おやすみ、パパ」
「……っ」
反論する隙も与えず、引き戸が閉まる。
あえて『パパ』と呼ぶことで、俺と彼女の間にある絶対に越えられない壁を、彼女自身の手で突きつけてきたのだ。
右手のポケットには青い鈴。
左手のポケットには、遥さんから渡されたお守り。
三泊目が終わる。
──明日、俺たちは「家族」の待つ家に帰る。




