修学旅行編 第5話:重すぎる両ポケット、そしてただいま
最終日。大阪。
昨夜の非常階段での出来事を、瑠奈は何事もなかったかのように振る舞っていた。
朝食のバイキングで美咲とはしゃぎ、「昨日のジェットコースターの動画、マジで消しなさいよ!」と達也に文句を言う。
いつもの瑠奈。……に見えた。
「おーい聖次ぃ、ボーッとすんなよ! 最終日だぞ! お土産買いに行くぜ!」
「……ああ、分かってる」
達也に腕を引かれ、俺も人混みの中に紛れた。
***
新大阪駅構内の巨大な土産物売り場。
帰りの新幹線を待つ修学旅行生で溢れかえる店内で、俺は真剣な顔で棚を物色していた。
「……何ずっと悩んでんの」
ふと、隣に立った瑠奈が呆れたように声をかけてきた。
「遥さんへのお土産だ」
「……ふーん」
瑠奈は俺の手元を見て、ピタリと動きを止めた。
少しの間をおいて、棚の奥から一つ、柚子の香りのハンドクリームを引き抜く。
「これにしなよ。ママ、柚子の香り好きだから。お風呂にいっつも柚子の入浴剤入れてるでしょ」
「……そうだっけ」
「そうだよ。パパのくせに知らないの? 観察眼どこ行ったのよ」
フン、と鼻を鳴らす。
痛いところを突かれた。俺は素直にそれを受け取った。
「……ありがとう。助かった」
「……別に。ママが喜ぶ顔見たいだけだし」
吐き捨てるような、ひどく掠れた声だった。
彼女は踵を返し、さっさと別の棚に移動する。
その細い背中を、俺はしばらく見つめていた。
***
帰りの新幹線。
窓の外は厚い曇り空だった。
達也は発車して十分で寝落ちし、美咲はイヤホンをして動画を見ている。
窓側の瑠奈は、最初スマホをいじっていたが、やがてその動きが止まった。
首がゆっくりと傾き──俺の肩に、コトンともたれかかった。
寝息。規則正しい、穏やかな呼吸。
金髪が俺の制服の袖に散らばる。シャンプーの甘い匂いが、ほんの少しだけ鼻腔をくすぐった。
起こす理由がない。俺は微動だにしなかった。
窓の外を、見慣れない景色が猛スピードで流れていく。
(……俺は昨夜、答えられなかった)
「卒業したらどうなるか」なんて、俺にも分からない。
けれど、ただ一つだけ。
(この手を離す気はない──それだけだ)
ポケットの中でスマホが光った。
遥さんからのLINE。
『もう着く頃? 今日はロールキャベツよ~ 瑠奈が好きなチーズ入りも作ったわ~ 早く帰ってきてね』
俺は肩の瑠奈を起こさないよう、片手で短く返した。
『もうすぐ着きます』
少し迷って、もう一行付け足す。
『遥さんへのお土産、瑠奈が一緒に選んでくれましたよ』
既読。返信はすぐに来た。
『……瑠奈が?』
文字の後に、スタンプが一つ。泣き笑いの顔だった。
遥さんが何を思ってそのスタンプを選んだのか。「嬉しい」という単純な感情だけじゃなかったことは、俺にも分かった。
***
駅に着いた。
達也と美咲に手を振って別れ、駅から少し離れたコインパーキングに向かうと、見覚えのある軽乗用車が停まっていた。
運転席の遥さんが、窓越しに小さく手を振っている。
「おかえりなさ~い!」
瑠奈が駆け出した。
「ママー! ただいまー!」
「あらあら、濡れちゃうわよ! 早く乗って乗って!」
いつの間にか、雨が降り始めていた。
俺は少し遅れて歩きながら、鞄から折りたたみ傘を出した。
だが、開こうとして──やめた。
ウィーン、と音を立てて後部の右側スライドドアが開く。俺たちの雨宿りの場所は、目の前で口を開けて待っていた。
「おかえりなさい、聖次さん」
「ただいま帰りました」
俺は助手席には乗らない。フロントガラス越しに、俺と遥さんが並んで座っている姿を、どこで誰に見られるか分からないからだ。
雨を避けるため、開いた右側のスライドドアから瑠奈が車内へ飛び込み、奥の左側のシートへと詰める。俺もそれに続いて右側──運転席の真後ろの席へと乗り込み、ドアを閉めた。
瑠奈はすでにシートベルトを締め、家で待つ詩織さんに「帰った」とLINEを送っていた。
遥さんが車を発進させる。ワイパーが雨を一定のリズムで払う。
ふと、隣に座る瑠奈に視線をやる。
彼女の目が、前方の空っぽの助手席に向けられていた。
自分の二の腕をきゅっと抱いて、すぐに窓ガラスの方へ顔を背ける。
家に着いたら、コトコト煮込まれたロールキャベツの匂いがするだろう。
食卓には、俺と瑠奈と遥さん、そして詩織さんの四人分の皿が並んでいるはずだ。
俺のスマホには、すでに家で待つ詩織さんからLINEが届いていた。
『瑠奈から連絡がありました。コインパーキングを出たなら、あと五分で到着ですね。
家に帰るまでが修学旅行ですよ。あなたの「ただいま」をこの耳で聞くまで、私の留守番任務は終わりませんから』
相変わらずの徹底ぶりと、見え透いた不器用な強がりに、思わず口元が緩む。
左のポケットには、遥さんのお守り。
右のポケットには、瑠奈の青い鈴。
俺はそっと、右手の指先でそれに触れた。
チリン、と俺にしか聞こえないような小さな音がした。
……はずだった。
運転席の遥さんが、前を向いたまま、ルームミラー越しに視線だけを後ろの俺に向けた。
鏡越しに、真っ直ぐに目が合う。
「あら、何の音?」
「……なんでもないです」
両ポケットの重さに挟まれたまま、俺はただ、雨の降る窓の外を見つめることしかできなかった。




