プロローグ:雨の日の求婚と、最悪すぎる初対面
その人のことを思い出す時、俺の脳裏には決まって、しとしとと降る雨の音が蘇る。
橘 遥。二十五歳。
ある雨の日、両親が彼女を家へ連れてきた。
ずぶ濡れのまま玄関に立つ彼女は、魂が抜け落ちた人形のように一点を見つめていた。最愛の夫を亡くしたばかりだという。
「あの子を一人にしちゃいけない。何をするか分からないわ」
お節介焼きで、そして直感だけは鋭い母はそう言って、なかば強引に彼女を連れ出した。
夫の記憶が染み付いた自宅から引き離し、日中を俺の家で過ごさせることにしたのだ。
だが、海外を飛び回る共働きの両親は忙しい。
結果として、放課後のリビングで彼女の相手をするのは、高校生である俺――雨宮 聖次の役目になった。
触れれば崩れ落ちてしまいそうなその儚さに、俺は最初から目を奪われていたのだと思う。
放っておけない。俺がなんとかしなきゃいけない。
その一心で、俺は不慣れな包丁を握り、消化に良いスープを作り、彼女の隣に座り続けた。
彼女が何を見ているのか。何を欲しているのか。
指先の震え、視線の揺らぎ、呼吸のリズム。
俺は彼女の全てを観察し、記録し、脳裏に刻み込み続けた。
それは恋というよりは、生存確認に近い――あるいは、もっと切実な「執着」だったのかもしれない。
「……美味しい」
「よかった。おかわり、ありますからね」
少しずつ、本当に少しずつ、彼女の瞳に光が戻ってくる。
その過程を見守り、彼女の「生」を管理することが、いつしか俺の生きがいになっていた。
だが、目の前の彼女を支えることに必死すぎて――俺はすっかり忘れていたのだ。
彼女には二人の連れ子がいるという事実を。
いや、情報は知っていた。
だが、「今の彼女を救えるのは俺しかいない」という盲目的な使命感が、その他の情報を頭の隅へと追いやっていた。
***
そんな生活が半年ほど続いた、ある日の夕食どき。
すっかり元気を取り戻した彼女は、テーブル越しに俺の手をギュッと握りしめて言った。
「私、聖次さんがいないと駄目みたい。……私と、結婚してくれませんか?」
「…………はい?」
俺の思考が停止した。
時が止まるとは、まさにこのことだ。
俺の脳内CPUが、ものすごい勢いでエラーを吐き出し始める。
(……え? 今、なんて?)
(けっこん? けっ……ケッ……ケツ?)
いや、そんなはずがない。
あの清楚で美しい遥さんが、ケツだなんてそんな言葉を使うはずがない。
せめてお尻……。
――いや落ち着け雨宮聖次、今の問題はそこじゃない。
俺はブンブンと首を横に振って、目の前の現実(美女)を凝視した。
彼女は真剣そのものだ。
その瞳は、縋るように、祈るように俺を射抜いている。
「聖次さん。私と結婚してください」
「ぶっ!!?」
ようやく意味を理解した俺は、情けない声を上げて椅子から転げ落ちそうになった。
待ってくれ。
落ち着け。
深呼吸だ。
相手は二十五歳。大人の女性。しかも未亡人。
対する俺は十七歳。しがない高校生。彼女いない歴イコール年齢。
「ちょ、ちょちょちょっと待ってください遥さん!? け、けけけ結婚って!!」
「ダメ……?」
「ダメとかいいとかじゃなくて! 俺、まだ高校生ですよ!? ていうか俺たち、付き合ってすらいないですし、法律的にも……!」
俺が顔を真っ赤にして早口でまくし立てても、遥さんは手を離さない。
むしろ、その握力は強くなる一方だ。
彼女の瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「聖次さんがいないと、もう無理なの」
「ええっ!?」
「聖次さんのご飯がないと生きていけない。聖次さんの声を聞かないと眠れない。……責任、とってくれるんでしょ?」
その涙と、上目遣いと、潤んだ声。
その破壊力は、健全な男子高校生の致死量を優に超えていた。
俺の理性の堤防は、あっけなく決壊し……。
「……わかりました。卒業したら、必ず迎えに行きます」
そんな言葉を、いつの間にか吐き出させていた。
「よかった……! あ、それなら早めに『娘たち』にも会ってくださいね。これから家族になるんですから」
娘たち。
そこでようやく、俺の頭の中に「連れ子」の存在が再浮上した。
しまった、完全に忘れてた。挨拶もなしに結婚なんて順序が違うにも程がある。
遥さんはまだ二十五歳だ。普通に考えれば、その子供はせいぜい四、五歳だろう。
俺は大慌てでトイザらスに走り、『名探偵プリキュア!』の変身セットと菓子折りを二つ購入した。
これで機嫌を取って、高い高いでもして遊んであげれば、きっと懐いてくれるはずだ。
そう信じて疑わなかった俺は、緊張で強張る頬を叩いて、橘家のチャイムを鳴らした。
ガチャリ、とドアが開く。
「はじめまして! これからお父さんになる――」
用意していた極上の営業スマイルと挨拶は宙に消えた。
ドアの隙間から顔を出したのは幼児ではない。
金髪。ピアス。着崩した制服。
そして何より、見覚えがありすぎるその顔。
「……は? 誰こいつ」
そこにいたのは、学校一の美少女にして、俺のクラスメイトである橘 瑠奈だった。
「る、瑠奈……?」
「げ。なんで雨宮がいんの? てか今、お父さんとか聞こえたんだけど」
思考がフリーズする。
世界が回る。
俺の手の中で、プリキュアのお菓子袋が場違いな音を立てて、ドサリと足元へ滑り落ちた。
――いや、待ってくれ。
俺はいま、何を見せられている?
目の前の玄関に立っているのは、見間違いでも他人の空似でもない。
学校では毎日顔を合わせる、クラスメイトの橘 瑠奈。
……俺は、遥さんの「娘」に会いに来ただけだ。
幼児だと思って、手土産まで買って。
なのに、出てきたのが同級生ってどういうバグだよ。
さらに俺の背後から、冷ややかな声が追い打ちをかける。
「瑠奈、玄関で騒がないで。近所迷惑よ。……あら、あなたは妹のクラスの」
「し、詩織先輩……?」
現れたのは、一つ上の学年の才女――生徒会長の黒澤 詩織さんだった。
混乱の極みにある俺たちをよそに、奥からエプロン姿の遥さんがパタパタと小走りでやってくる。
「あらあら、もう挨拶は済んだ? 紹介するわね聖次さん。私の自慢の娘たちよ! まだ手のかかる子たちだけど、仲良くしてあげてね〜」
遥さんは満面の笑みでそう言い放ち、凍りつく俺の腕にギュッと抱きついた。
遥さん、一つだけ確認させてくれ。
娘が同級生だなんて、一言も聞いてない。
というか、俺が聞かなかったのが悪いのか? いやでも、普通言うよね!
そして――この状況で抱きつくの、強すぎない?
「ふ、ふざけんじゃないわよぉぉぉッ! なんでこいつがパパなわけ! 同い年じゃん! 認めない、絶対認めないからぁッ!」
玄関ホールに響き渡る絶叫。
……当然だ。俺だって認めたくない。
でも、逃げるわけにもいかない。
遥さんとの約束は『卒業してから』。
つまり俺は今日から、愛しい人のために――この同級生と生徒会長の父親をやり遂げなきゃいけない。
……いや、難易度設定バグってないか?
(続く)
「菓子折りどうするの?」と思っていただけましたら、
★の評価とブックマーク登録お願いします♪
作者のテンションと作品のランキングが上がりますので是非お願いします!
最後までお読みいただきありがとうございます!




