プロローグ:雨の日の聖母と、俺の美しい誤算
その人のことを思い出す時、俺の脳裏には決まって、しとしとと降る雨の音が蘇る。
橘 遥。二十五歳。
ある雨の日、両親が彼女を家へ連れてきた。
ずぶ濡れのまま玄関に立つ彼女は、魂が抜け落ちた人形のように一点を見つめていた。最愛の夫を亡くしたばかりだという。
「あの子を一人にしちゃいけない。何をするか分からないわ」
お節介焼きで、そして直感だけは鋭い母はそう言って、なかば強引に彼女を連れ出した。夫の記憶が染み付いた自宅から引き離し、日中を俺の家で過ごさせることにしたのだ。
だが、海外を飛び回る共働きの両親は忙しい。
結果として、放課後のリビングで彼女の相手をするのは、高校生である俺――雨宮 聖次の役目になった。
触れれば崩れ落ちてしまいそうなその儚さに、俺は最初から目を奪われていたのだと思う。
放っておけない。俺がなんとかしなきゃいけない。
その一心で、俺は不慣れな包丁を握り、消化に良いスープを作り、彼女の隣に座り続けた。
彼女が何を見ているのか。何を欲しているのか。
指先の震え、視線の揺らぎ、呼吸のリズム。俺は彼女の全てを観察し続けた。それは恋というよりは、生存確認に近い必死な行為だった。
「……美味しい」
「よかった。おかわり、ありますからね」
少しずつ、本当に少しずつ、彼女の瞳に光が戻ってくる。その過程を見守ることが、いつしか俺の生きがいになっていた。
だが、目の前の彼女を支えることに必死すぎて――俺はすっかり忘れていたのだ。
彼女には二人の連れ子がいるという事実を。
いや、情報は知っていた。だが、「今の彼女を救えるのは俺しかいない」という盲目的な使命感が、その他の情報を頭の隅へと追いやってしまっていた。
そんな生活が半年ほど続いた、ある晴れた日のことだ。
すっかり元気を取り戻した彼女は、俺の手をギュッと握りしめて言った。
「私、聖次さんがいないと駄目みたい。……私と、結婚してくれませんか?」
二十五歳の美女からの、まさかの逆プロポーズ。
けれど、俺は首を横に振った。
「……気持ちは嬉しいです。でも、出来ません」
「どうして……?」
「俺はまだ高校生です。あなたを養う力もないし、責任も取れない。そんな半端な真似はしたくないんです」
それが精一杯の誠意だった。好きだからこそ、甘えてはいけないと思った。
だが、遥さんは引かなかった。潤んだ瞳で、けれど強い意志を込めて、俺に詰め寄る。
「なら、待ちます。聖次さんが卒業するまで。……大人になるまで待てば、お嫁さんにしてくれますか?」
そこまで言われて、頷かない男がいるだろうか。
俺の理性の堤防は、あっけなく決壊した。
「……わかりました。卒業したら、必ず迎えに行きます」
「よかった……! あ、それなら早めに『娘たち』にも会ってくださいね。これから家族になるんですから」
娘たち。
そこでようやく、俺の頭の中に「連れ子」の存在が再浮上した。
しまった、完全に忘れてた。挨拶もなしに結婚なんて順序が違うにも程がある。
遥さんはまだ二十五歳だ。普通に考えれば、その子供はせいぜい四、五歳だろう。
俺は大慌てでトイザらスに走り、『ひろがるスカイ!プリキュア』の変身セットと菓子折りを二つ購入した。
これで機嫌を取って、高い高いでもして遊んであげれば、きっと懐いてくれるはずだ。
そう信じて疑わなかった俺は、緊張で強張る頬を叩いて、橘家のチャイムを鳴らした。
ガチャリ、とドアが開く。
「はじめまして! これからお父さんになる――」
用意していた極上の営業スマイルと挨拶は、宙に消えた。
ドアの隙間から顔を出したのは、幼児ではない。
金髪。ピアス。着崩した制服。
そして何より、見覚えがありすぎるその顔。
「……は? 誰こいつ」
そこにいたのは、学校一の美少女にして、俺のクラスメイトである橘 瑠奈だった。
「る、瑠奈……?」
「げ。なんで雨宮がいんの? てか今、お父さんとか聞こえたんだけど」
思考がフリーズする。
世界が回る。
世界が回る。
俺の手の中で、プリキュアのお菓子袋が場違いな音を立てて滑り落ちた。
――いや、待ってくれ。
俺はいま、何を見せられている?
目の前の玄関には、見覚えのありすぎる金髪の少女。
学校では毎日顔を合わせる、クラスメイトの橘 瑠奈。
……俺は、遥さんの「娘」に会いに来ただけだ。
幼児だと思って、手土産まで買って。
なのに、出てきたのが同級生って、どういうバグだよ。
さらに俺の背後から、冷ややかな声が追い打ちをかける。
「瑠奈、玄関で騒がないで。近所迷惑よ。……あら、あなたは妹のクラスの」
「し、詩織先輩……?」
現れたのは、一つ上の学年の才女――生徒会長の黒澤 詩織さんだった。
混乱の極みにある俺たちをよそに、奥からエプロン姿の遥さんがパタパタと小走りでやってくる。
「あらあら、もう挨拶は済んだ? 紹介するわね聖次さん。私の自慢の娘たちよ! まだ手のかかる子たちだけど、仲良くしてあげてね♪」
遥さんは満面の笑みでそう言い放ち、凍りつく俺の腕にギュッと抱きついた。
遥さん、一つだけ確認させてくれ。
娘が同級生だなんて、一言も聞いてない。
というか、俺が聞かなかったのが悪いのか? いやでも、普通言うよね!
そして――この状況で抱きつくの、強すぎない?
「ふ、ふざけんじゃないわよぉぉぉッ! なんでこいつがパパなわけ! 同い年じゃん! 認めない、絶対認めないからぁッ!」
玄関ホールに響き渡る絶叫。
……当然だ。俺だって認めたくない。
でも、逃げるわけにもいかない。
結婚は“卒業してから”。
その順番は、絶対に守る。
そして俺は今日から“父親”になる――越えちゃいけない線だけは、絶対に越えない。
こうして俺の「愛と献身の物語」は、幕を開けた瞬間に「修羅場のホームコメディ」へとジャンル変更を余儀なくされたのだった。
(続く)
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