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「あるところに、些細なことで感動してしまう女がいました」
「例えば?」
「パンの熱伝導率とか」
「じゃあそう言い換えましょう」
「ええと、あるところに、パンの熱伝導率で感動してしまう女がいました・・・これだと趣旨がよく伝わらない気がするな」
頬を少し膨らませた彼女を横目に、僕は今出来た文言を頭の中から追い出した。
太陽も空の頂上に手を伸ばし始める暖かな朝の終りに、彼女が突然「自分を投影した主人公の物語を作りたい」と提案してきた。架空の世界の中だけでも良いので非日常的な世界に触れたい、とのことだった。そこでまずは彼女の「非日常感」を形にするべく、僕が思いついた文章を彼女の思う形に肉付けしてもらうことにした――つまり非日常的肉付けを求めた――のだが、彼女にとっての非日常は僕の目線で捉えるととても慎ましいもので、どうしても上手くかみ合わせることが出来ないのだった。畢竟するに彼女にとっての非日常とは魔法の無い世界のことなのである。そしてそれは僕にとっての日常の形に極めて近いものだった。
「小説を書くのって中々難しいのね」
「ねぇ、僕は思うんだけど、君は非日常なんて望む必要は無いんじゃないかな。だってこんなにも豊かな世界で生きているんだぜ。緑は健やかで水は冷ややかで、鳥は高い空の先を目指してどこまでも飛べるし、夜は朝のためにある。なんというか、嫌味が無い。誠実な世界だよ。正当な哀しみに包まれた昔話みたいだ。これ以上何を望むっていうのさ」
「でも私にとっては生まれた時からこれが普通だったんだもの」
彼女は僕の方に向き直って、また少し声を曇らせながら言った。
「あなたばかり手に入れているの、ズルいわ」
僕は彼女の言葉に驚いてティーカップを持ち上げる手を止めた。僕が手に入れてばかり?そんなことは一度も考えたことが無かった。僕はどちらかというと失ってばかりいる人間だった。それは生まれた瞬間から一貫していた僕のスタンスだし、これから年をとるにつれて更に加速していくであろう絶対性を持った方程式だった。その僕が今、手にしてばかりだと言う。たしかにここに来てからというもの、僕は僕自身が持ち得なかったあらゆるものを獲得し続けていた。それはある意味で一夜の夢のようなものにも思えた。僕はあの日現実の世界から切り離されて沼に辿り着いた瞬間から、何か重要な役割を担っているスイッチを知らず知らずの内に切り替えてしまったようである。僕は失うことをやめて、手に入れ続けていた。命という一つの国が持つ避けられない歴史がねじれてきているのを僕は感じた。
小説を書くことを諦めたのであろう。彼女が昼食の用意をするべくエプロンを身につけている。まだ不満そうな顔をしていた。
「手に入れてばかりで僕はどうなってしまうのだろう」と僕は思ったことをそのまま口に出した。
「幸せになるんじゃない?」と彼女は素っ気無く言った。
これでストックは全部掲載できました。
最新話として一話くらい追加しようかと思ったのですが、読み返していると(私目線では)思った以上に密度がある話だったので、下手に一話だけつけても蛇足だなと思い、やめることにしました。
もしかしたら、いずれツイッターの方で更新があるかもしれません。




