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『おはようございます。当バスは間もなく、大阪に到着します。大阪の後は、7時25分に難波、続いて7時40分に天王寺に止まります』
押し殺したような低い声で、車内にバスのアナウンスが流れた。
少ない客の大半は目覚めていて、窓の外を見ている。
曽山と石原の二人も、寝惚けた様子で座っていた。
どれだけ楽しい時間を過ごしても、夢の中であったことを覚えているのは、俺一人だ。
もう分かっていたことだが、こんな回数券、何の役にも立たない。使えば使うほど、寂しさと虚しさが増すばかりだ。
手の中に、最後の一枚を残すのみとなった券があった。俺は、それをブルゾンのポケットに戻すと、ファスナーを上げた。
天王寺でバスを降りた曽山と石原は、気怠そうに荷物を受け取り、駅へ向かって歩き出した。
「あれ見ろよ」。曽山が指した方を見る。大から小に三枚重なったような巨大なビルがあった。
「知っとるよ。あべのハルカスやろ?」。石原は、興味が無さそうに答えた。
「来たことあるのか?」
「いいや。テレビで観ただけや。大阪らしい、デカいばっかで、色気のないビルばい」
「日本一高い高層ビルらしいぞ」
「高いから何や。高い所が好きなら、山に登るばい。そっちの方がずっと高いし、金もかからんとやからな」
あべのハルカスに何の恨みがあるんだと思うような言い方をするので、よくよく考えてみると、
そうだ、石原は確か、高所恐怖症だった。
高い所だけじゃない。暗い所もダメだし、オバケも、虫の類も苦手だ。これで、よくホームレスができたもんだと思う。
普段、大きな顔をしている石原は、口も立つから、ちょっと気が付かないが、ノミの心臓の持ち主だった。
曽山は、それを忘れていたようで、怪訝な顔をしただけで、それっきりあべのハルカスの話はやめてしまった。
俺の故郷は、天王寺駅から鈍行に乗って、2時間ばかりかかるところにある。二人は、出勤するサラリーマンや登校途中の学生の流れを逆流して人ごみを歩き、ホームに入った。間もなく入って来た電車に乗り込むと、車内はじきに空いた。
曽山と石原は、向かい合わせになって、座席に着いた。俺も、空いた所に腰を下ろす。
「カオリン、元気かなぁ…」。石原が呟いたので、俺はギョッとした。
そういえば、こいつ、佳織のことを…。
この薄汚いおっさんに佳織がなびくとは、到底思えなかったが、警戒せずにはいられない。
とはいえ、俺は亭主であったものの、既に死んでいる。となると、法的にも、再婚を反対できる立場ではない。第一、反対する手段がない。
電車が家に近づくと、俺の意思とは無関係に、無いはずの心臓がバクンバクンと激しく鼓動を打ち始めた。俺は、激しく緊張していた。
石原に、妻を奪われることを危惧したのではない。二年ぶりに家族の顔を見るのが、たまらなく恐ろしかったのだ。もしも…、もしも、不幸になっていたらどうしよう。突然死んでしまった俺を、恨んでいたらどうしよう。もう、二度と帰るまいと思って出て来たはずなのに…。
なんだか、曽山と石原の二人に出会ったのが、俺をこの地に連れ戻すためのような気がして、俺は運命を呪った。
そういえば、あまりに出来過ぎた話だ。たまたま野宿した公園に、かつての友人が住んでいたなんて。それも、俺が曽山に取り憑いてから、僅か一ヶ月で、そんな偶然に出くわすなんて。
俺は、二度と帰るつもりはなかった。曽山一人じゃ、あり得なかった。石原一人でもダメだった。この二人が出会って、そこにたまたま俺がいたから、俺はこうして故郷に向かっているのだ。
運命は、俺たちに何を期待しているんだ。
何も、律儀に、こいつらに付き合う必要はない。その気になれば、俺だけ途中下車して、また一人旅に出ることもできた。わざわざ駅で降りなくとも、壁を通り抜けて、走っている電車から飛び降りることだってできる。きっと、擦り傷一つしない。
だが、そうしなかったのは、そこに何か大きな意志が働いている気がしたからだった。
結局、俺は曽山と石原に取り憑いたまま、故郷にやって来た。
なぁに。どうせ俺は誰にも見えやしない。妻にも、子供たちにも、二人の友人にも。ただ、これから起きることを黙って眺め、嫌になったら逃げだせばいいんだ。死んだ人間に罪はない。責任もない。
そう、何度も自分に言い聞かせた。
電車のアナウンスが、聞きなれた駅名を伝えた。曽山と石原が、慌てて立ち上がった。
俺たち三人は、電車を降りた。俺は、その景色はもちろん、ホームの感触や、風の匂いまで、よく覚えていた。
帰って来た。故郷に。




