第9話「お気遣いなく。もう他人ですので」
王宮広間の扉が、私たちの前で開いた瞬間、会場の全員が、息を呑んだ。
楽団の演奏が、半拍、止まった。
千を超える蝋燭の光が、磨き上げられた大理石の床に反射して、広間全体を昼のように照らしていた。その中央の通路を、私はユリウスの腕を取って、ゆっくりと歩いていた。
私は、母の形見の紺色のドレスを着ていた。襟元には、庭の白薔薇を一輪挿していた。装飾は、それだけだった。
ユリウスは、紺色の上着の襟元に、銀の紋章を一つ。
私たちは、ただ一輪の白薔薇と、一つの銀の紋章だけで、広間に入った。
そして、それで、十分だった。
会場の貴族たちが、一斉に振り返った。最初は、私の方を見た。次に、ユリウスの襟元の紋章を見た。そして、紋章の意味を理解した瞬間、彼らの視線は、玉座の方へ、確かめるように飛んだ。
玉座の上で、国王陛下が、ゆっくりと立ち上がられた。
「アーレンフェルト家のユリウス殿」
陛下のお声は、広間の隅々まで、はっきりと届いた。
「ようやく、表に出られたか」
その一言で、広間中の貴族たちが、息を吐いた。いや、息を呑み直した。
「アーレンフェルト……?」「亡き王妃陛下のご実家……?」「あの地味な学者の方が……?」
ざわめきが、波のように広がった。
私は、その波の中を、ユリウスの腕を取ったまま、まっすぐに歩いた。
そして、波の終点に、エドガーが、立っていた。
エドガーは、広間の左側、貴族たちの群れの最前列にいた。最後の伯爵としての席を、まだ与えられていた。最後の、ということは、彼自身、もう知っているはずだった。
彼の隣には、セレナがいた。
セレナは、淡い桃色のドレスを着ていた。八年前、私が誕生日に贈ったドレスだった。袖口には、彼女自身が刺したと主張してきた、家紋の刺繍が一つ。遠目にも、歪んでいた。
エドガーが、私を見た瞬間、彼の顔から血の気が引いた。
それから、彼は、駆け出した。
貴族たちの間を、半ば突き飛ばすようにして、私の足元まで駆け寄った。
そして、広間の中央の大理石の床に、両膝をついた。
会場の全員が、息を呑んだ。
「リネア!」
エドガーの声は、震えていた。
「頼む戻ってきてくれ頼む頼む俺は俺はもう領地が収穫が商人が全員去って今月の俸給も払えないんだ使用人が一人も残っていない俺は朝食さえ俺は俺は剃刀さえ自分の顔で滑らせると血が出るんだリネア頼む頼むリネア」
私は、立ち止まった。
ユリウスの腕を、そっと離した。
そして、エドガーを、見下ろした。
「あら」
私の声は、自分でも驚くほど、静かだった。
「八年間、私が"何もしていない留守番"だと、仰っていたではありませんか」
会場が、凍りついた。
「留守番がいなくなっただけで、なぜ、伯爵家が回らないのでしょう?」
エドガーが、口を開いた。何か言おうとして、何も出てこなかった。剣の達人の喉が、初めて、言葉を失っていた。
「それは……それは、リネア、俺は……」
「ああ、そうそう」
私は、彼の言葉を、待たなかった。
「私の刺繍は、"不器用で見られたものじゃない"のでしたわね」
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「では、あなたが八年間、毎晩、枕元に置いて、お休みになっていた、あのハンカチは、どなたの作品でしょうか?」
会場中の視線が、一斉に、エドガーの隣のセレナへと向かった。
セレナの顔から、桃色のドレスの色までが、引いていった。
「セレナ嬢」
広間の右側から、低く澄んだ声が響いた。バルトラム侯爵未亡人だった。
未亡人は、貴婦人たちの群れの中央から、ゆっくりと進み出た。手には、銀の盆。盆の上には、白い布が一枚と、針が一本と、銀色の糸が一巻、整然と並べられていた。
「先日、お送りした書状の通りです。家紋刺繍の実演を、求めます。今、ここで」
未亡人は、盆をセレナの足元の小さな台に置いた。
「ヴァレンス家の家紋を、一枚、お刺しなさい。八年間、毎月一枚、刺してこられたとあれば、十分でできるはずですわね」
セレナの両手が、震えた。
会場の全員が、彼女を見ていた。千を超える蝋燭の光が、彼女の白くなった頬に、容赦なく降り注いでいた。
セレナは、ゆっくりと床に膝をついた。盆の前に座った。震える指で、針を取った。
針が、糸を通らなかった。
三度目で、やっと通った。
布に針を刺した。一針目で、自分の指を刺した。血の点が、白い布に落ちた。
会場の貴婦人たちが、口元を扇で覆った。
二針目。三針目。四針目。針は、ばらばらに走った。鷲の翼の意匠は、形にすらならなかった。八年間、私の指が描き続けてきた、左から右へ五段の重なり。セレナの針は、その一段目さえ、引けなかった。
セレナの指から、血が、ぽたぽたと、白い布に落ちた。
バルトラム未亡人が、低く、告げた。
「セレナ嬢。あなた、家紋刺繍を、生涯で、一度も、習っていないのね」
セレナは、針を握りしめたまま、泣き崩れた。
「違うの……違うの、私は……」
「八年間、九十二枚」
未亡人の声は、容赦なかった。
「他人の魂を、九十二回、自分のものだと偽った。女として、もう、この広間には、立てません」
私は、エドガーの方に、視線を戻した。
エドガーは、まだ、床に膝をついたままだった。彼は、セレナの方を見ていた。彼の唇が、何度か、震えた。「セレナ……」と呼ぼうとして、呼べなかった。
「ついでに、お伝えいたしますわ、エドガー様」
私は、静かに告げた。
「昨年、私が流産した子のこと。"セレナとの子じゃなくてよかった"と、廊下で仰ったそうですわね」
エドガーの顔が、白を通り越して、紙のような色になった。
会場の女性たち全員が、息を呑んだ。
「ミラが、廊下で、聞いておりましたの」
私の背後で、ミラが進み出て、深く礼をした。それだけで、十分だった。会場の貴族たちは、誰も、ミラの言葉を疑わなかった。十二年仕えた古参侍女の沈黙の礼ほど、重い証言はなかった。
会場の一角で、一人の老婦人が、扇を握る手を震わせて、呟いた。
「なんて……なんて、男なの……」
別の貴婦人が、首を横に振った。
「あの方の流産の知らせを、私たち、社交界で聞いた時、皆で心配していたのよ。それを、廊下で、そんなふうに……」
会場の温度が、ゆっくりと、エドガーの周りから、引いていった。
エドガーが、両手で、大理石の床を叩いた。
「待ってくれリネア俺が悪かった全部俺が悪かったいや違う知ってた知ってたんだ知ってて見ないふりをしてたんだ俺の父が無能で家を傾けて俺は俺は妻が有能だと認めると自分が惨めで惨めで惨めだから留守番だ留守番だと思い込めば俺は俺はまだ伯爵で俺はまだ俺は俺は」
エドガーの言葉が、彼自身の喉の中で、ぐしゃぐしゃに崩れた。
「リネア頼む頼む頼むリネア俺は朝食も作れない髭も剃れない俺は俺は何を持ってたんだ八年間俺は何を」
私は、彼を、しばらく、見下ろしていた。
会場が、しん、と、静まり返っていた。
そして、私は、微笑んだ。
ゆっくりと、八年間、誰にも崩されたことのない微笑みで。
「ええ、存じております」
私は告げた。
「あなたが何もできないことくらい、八年前から」
その瞬間、会場の貴婦人たちが、口元を扇で覆ったまま、笑った。
くすくす、くすくす、と。上品に。けれど、確実に。
一人ではなかった。十人でも、二十人でもなかった。会場の貴婦人たちのほぼ全員が、扇の下で、同時に、笑った。
それは、八年間、社交界でエドガー・ヴァレンスが「俺の妻は留守番女だ」と笑い話にしてきた、その八年分の、女たちからの返答だった。
エドガーは、両手で、自分の耳を塞いだ。
けれど、笑い声は、止まらなかった。広間の天井の蝋燭の下で、千の蝋燭の光と一緒に、彼の周りを、いつまでも、ゆっくりと、回り続けた。
その時、悲鳴が上がった。
セレナが、裸足で、立ち上がっていた。家紋刺繍の盆を蹴飛ばして、広間の出口の方へ、よろよろと駆け出そうとした。その腕を、誰かが、強く掴んだ。
母だった。
モンフォール子爵夫人が、貴族たちの群れから飛び出してきて、娘の細い腕を、両手で掴んでいた。
「お前!」
母の声は、もう、人の声ではなかった。
「お前が、下手を打ったから! お前のせいで、全部、終わったのよ! 二十年! 二十年計画してきたのよ、私は! 十二歳の時から、あなたを、リネアの隣に置いて、ずっと、ずっと!」
母の手が、振り上がった。
そして、会場の中央で、娘の頬を、打った。
ぱぁん、と、乾いた音が、広間の天井まで響いた。
セレナが、床に崩れ落ちた。
母は、髪を掴んで、引きずった。
「家紋一つ刺せないなら、お前なんて、何の価値もないじゃない! なんで、生まれてきたのよ、お前は! なんで!」
会場の貴婦人たちは、眉をひそめた。
けれど、誰も、止めなかった。
自業自得だから。
会場の隅で、若い令嬢の一人が、顔を背けた。けれどそれだけだった。誰一人、母の腕を、止めなかった。
玉座の上で、国王陛下が、静かに、お立ちになった。
陛下が片手を上げると、広間の貴族たちは、一斉に、頭を下げた。
「ヴァレンス伯爵」
陛下のお声は、低く、けれど広間の隅々まで届いた。
「貴殿の伯爵位を、本日付けで、剥奪する。今、この場で」
エドガーの肩が、跳ねた。
「ヴァレンス領は、王家が接収する。再建の指揮は、アーレンフェルト辺境伯夫人、リネア・アーレンフェルトに、委ねる」
私は、深く、礼をした。
陛下が頷かれた。
「下がってよろしい。ユリウス殿、よき妻を、得られたな」
ユリウスが、私の隣で、礼をした。
そして、陛下の前で、初めて、私の手を取った。
私たちは、振り返らずに、広間の中央の通路を、ゆっくりと歩いて、出口へ向かった。
背後で、エドガーが、まだ、床に伏して、泣いていた。
その隣で、セレナが、母に髪を掴まれて、悲鳴を上げていた。
そして、千を超える蝋燭の下で、貴婦人たちの上品な笑い声が、いつまでも、止まずに、続いていた。
広間を出る、最後の一歩の手前で、ユリウスが、立ち止まった。
私の手を、少しだけ、強く握った。
そして、十年間、ずっと呼びたかった名前を、初めて、声に出した。
「リネア」
私は、彼を見上げた。
ユリウスの目には、涙はなかった。けれど、十年分の何かが、その奥で、静かに、光っていた。
私の踵に、初めて、自分の体重が乗った気がした。八年間、いつも誰かのために、爪先立ちで歩いていた踵に。
「はい、ユリウス」
私は答えた。
私たちは、広間の扉を、二人で、押し開けた。
外の春の夜風が、私の白薔薇の花弁を、ほんの少しだけ、揺らした。




