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公爵夫人、地獄でワインを飲む  作者: 七七街


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9/9

エピローグ

 勝利には、音がない。


 少なくともヴィオレッタにとってはそうだった。


 王宮の冬季慈善晩餐会から三日。ローゼンベルク公爵家の名は、王都じゅうで最も上品に、そして最も残酷に囁かれる言葉になっていた。


 帳場の不正。

 慈善院経由の不透明な金の流れ。

 公爵家内での記録焼却未遂。

 侍女ヘレンへの脅しと隠匿。

 義弟ユリウスの借財。

 そして、公爵夫人ヴィオレッタへの冤罪。


 全部が一度に表へ出たわけではない。王宮はそんな下品なことをしない。だが、必要なものだけが必要な順で漏れた。王宮法務局の“確認中”という文言がついた報告、慈善監査の再点検、執事長ヴェルナーの拘束、トビアスの失踪先からの送還。ひとつひとつは整った事務の顔をしているくせに、全体としてははっきりと一つの方向を向いていた。


 公爵家は、もう以前の形には戻らない。


 ヴィオレッタは、西棟の自室でその報せを受け取っていた。


 朝の光は薄く、窓辺の花も今は飾りにしか見えない。三日前までなら、この部屋の調度を見れば自分が何を守ってきたのか思い出しただろう。今はただ、誰かの趣味が積み重なっただけの場所に見える。


 エルマが差し出した書状には、王宮側からの正式な通知が記されていた。


 ローゼンベルク家の会計監督権は一時停止。公爵閣下アーヴィン・ローゼンベルクは王宮への出仕を当面控えること。義弟ユリウスは別邸での謹慎。執事長ヴェルナーは身柄預かり。慈善院支援の再監査を継続。公爵夫人ヴィオレッタ・ローゼンベルクについては、現時点で加害性を裏づける合理的根拠なし。


 それを読んでも、胸の中で何かが晴れるわけではなかった。


 ただ、終わったのだとわかるだけだ。


「旦那様は」


 ヴィオレッタが紙から目を上げると、エルマは短く答えた。


「今朝、東棟へ移られました」


「西棟へは?」


「戻られません」


 当然だろうと思った。もう夫婦の寝所へ戻るような顔を、この家も、王都も許さない。


「義母上は」


「来客を断っておられます。今は家の内側の整理に」


 家の内側。


 つまり今ごろ、義母は家具や帳簿や使用人の配置だけではなく、息子をどこまで切り離せば家名だけを残せるか考えているのだろう。そういう女だ。最初から最後まで、家を第一に置く。その点だけは少しもぶれなかった。


 ヴィオレッタは書状を折りたたみ、机へ置いた。


「リディアは」


 その名を出すと、エルマはわずかに間を置いた。


「昨日、慈善院側の別施設へ移されました」


「王都の外へ?」


「いいえ。まだ王都の中です。ただ、公爵家の保護下ではありません」


 なるほど、とヴィオレッタは思う。

 義母の判断だろう。

 庇いきれない。

 かといって表向き捨てると、自分たちの薄情まで広く見える。

 ならば“しかるべき場所へ保護し直す”という形で外す。

 いかにもあの女らしい整理だった。


「会いたいですか」


 エルマが静かに訊く。


 ヴィオレッタは少しだけ考え、それから首を振った。


「いいえ」


 今さら何を聞いても、決定的に新しいものは出ないだろう。リディアは生き延びたかっただけだ。そのためにこちらを差し出した。それだけのことだ。哀れでもある。だが、だからといって手を取り合えるほど甘い話でもない。


 エルマが下がったあと、ヴィオレッタは一人で窓辺へ立った。


 勝った。

 確かに。

 けれど、勝ったという言葉はなぜこうも軽いのだろう。


 あの王宮の大広間で、自分はアーヴィンへ「戻りません」と言った。あれ以上きれいに終わる言葉はなかったはずだ。だが現実は、言葉で切れた瞬間からじわじわと重くなる。今まで“妻”として受け取っていた部屋、服、名前、立場、その全部が宙へ浮き、自分の手元に何が残るのかを改めて見せつけてくるからだ。


 この家の妻でなくなった時、自分は誰なのか。


 それを、今から決めなければならない。


 午後、義母から呼び出しがあった。


 場所は旧応接間。昔、この家へ嫁いできたばかりの頃、ヴィオレッタが最初に義母とお茶を飲んだ部屋だ。その時、義母はやさしく微笑んで「この家を一緒に守りましょう」と言った。今思えば、ずいぶん綺麗な詐欺だった。


 部屋へ入ると、義母は一人で座っていた。今日は珍しく派手な色を避け、鈍い灰青のドレスを纏っている。顔色は良くない。だが姿勢はいつも通り正しい。


「お呼びでしょうか」


 ヴィオレッタが言うと、義母はしばらくこちらを見た。見慣れたはずの嫁を、初めて別の人間として見ている目だった。


「座りなさい」


 ヴィオレッタは向かいに座った。


 しばらく、沈黙が落ちる。昔ならこの沈黙に耐えられず、自分から当たり障りのない話題を差し出していただろう。今はもう、そんな義務を感じない。


「……あなたに謝るべきなのだと思います」


 義母が先に言った。


 ヴィオレッタは目を上げる。


「思います、なのですね」


 義母の唇がわずかに固くなる。


「言葉尻を取らないでちょうだい」


「では、きちんと言ってくださいませ」


 義母は視線を逸らさなかった。その点だけは、この女の強さなのだろう。


「あなたを信じなかったこと。家を守るためと言いながら、結果的にあなたを切り捨てる形になったこと。そこは謝ります」


「結果的に?」


 ヴィオレッタが静かに返す。


「お義母様は、たいてい結果ではなく途中で選んでいらしたでしょう」


 義母は息を呑み、そして苦く笑った。


「本当に、昔より刺が増えたわね」


「やっと自分の舌を持っただけです」


「そうね……」


 義母は手元のティーカップへ目を落とした。


「あなたがいなくなって、初めてわかったことがあるの」


「何ですか」


「この家の中で、皆があなたを“当然あるもの”として使っていたこと」


 ヴィオレッタは何も言わなかった。今さら、そんな理解を差し出されても遅い。だが、それでもこの女がそこへ自分で辿りついたことには意味があった。


「アーヴィンは甘えすぎた。ユリウスは愚かだった。ヴェルナーはその隙へ入った。わたくしは……それを正しきれなかった」


「いいえ」


 ヴィオレッタは首を振る。


「正す気がなかったのです」


 義母はそこで、初めて少しだけ目を伏せた。


「認めたくないけれど、その通りかもしれない」


 その言葉には、ようやく少しだけ本当の苦味があった。


「それで」


 ヴィオレッタが言う。


「今日は謝罪のためだけに?」


 義母は顔を上げた。


「いえ。提案があるの」


 ああ、とヴィオレッタは心の中で思った。やはりそう来る。この女が、謝罪だけで呼ぶはずがない。


「離縁なさい」


 義母は言った。


「正式に。アーヴィンとは」


 ヴィオレッタは驚かなかった。ただ、その言葉が義母の口から出たという事実にだけ、小さな冷たさを覚えた。


「家のために?」


「そうよ」


 義母は言い切る。


「今のままでは、あなたも、あの子も、この家も腐るだけです。だったら綺麗に切るしかない」


 綺麗に。


 どこまでも、この女は形にこだわる。


「条件は」


 ヴィオレッタが問うと、義母の目がわずかに鋭くなった。話が通じると確信した目だ。


「あなたの持参金と、結婚後にあなた名義で整理していた資産の返還。それに西方の小領地を一つ譲る。名目は、長年公爵家へ尽くした公爵夫人への補償」


「補償」


「不服?」


「いいえ。正しい言葉ですわね」


 昔なら、ここで少しだけ感情が揺れたかもしれない。結婚というものが、最後にはこうして財と土地のやり取りに変わるのかと。だが今のヴィオレッタには、それはむしろ救いだった。曖昧な情より、はるかにましだ。


「受けます」


 すぐに答えると、義母は一瞬だけ目を見開いた。


「即答なのね」


「迷う理由がありませんもの」


「……そう」


「ただし」


 ヴィオレッタは続けた。


「離縁の文面には、わたくしの加害性が否定されたことを明記していただきます。体調不良による静養や夫婦間の不和という曖昧な形ではなく、事実関係を整理したうえで、わたくしに非がなかったことを」


 義母は細く息を吐いた。


「厳しいのね」


「当然です」


「社交界での形が悪くなるわ」


「もう十分悪くなりましたわ。今さらそれ以上を気にする気はありません」


 義母はしばし沈黙し、やがて頷いた。


「わかりました」


 話はそれでほとんど決まった。


 書類の準備は数日。正式な発表はそのあと。義母は最後まで、“情”ではなく“整理”として話を進めた。それがこの女の誠意なのだろう。薄く、冷たく、だが確かに一貫している。


 部屋を出る前、義母がふいに言った。


「ヴィオレッタ」


 振り返る。


「あなたが最初にこの家へ来た時、私は――」


 そこで彼女は言葉を止めた。珍しく迷っている顔だった。


「何ですの」


「……いいえ。今さら言っても、意味はないわね」


 ヴィオレッタは少しだけ考え、それから答えた。


「ええ。きっと」


 それ以上は何も要らなかった。


 その日の夕方、アーヴィンが訪ねてきた。


 西棟の私室。もう彼が夫として入る部屋ではないのに、彼自身はそのことをまだ完全に体へ落とし込めていないようだった。扉の前で一瞬ためらい、それから入ってくる。


「母上から聞いた」


 開口一番にそう言う。


「離縁のこと」


「ええ」


「本当に受けるのか」


 ヴィオレッタは机の前に立ったまま振り返る。


「本当に、って何?」


「……他に道はないのか」


 他に道。


 その言葉に、ヴィオレッタはしばらく返事ができなかった。怒る前に、ひどく空しいものが押し寄せたからだ。


 この男はまだ言うのか。

 この期に及んで。

 何もかも終わったあとで、なお別の道があると思っているのか。


「アーヴィン」


 彼女は静かに呼んだ。


「あなたは本当に、何も見ていなかったのね」


 彼の顔が揺れる。


「私は」


「違うわ。見ていたのよ、都合のいいところだけ」


 ヴィオレッタはゆっくりと机の縁から手を離した。


「あなたはわたくしが家を回すのを見ていた。義弟の穴を埋めるのも、義母上の無茶を丸めるのも、帳場を整えるのも、客を帰すのも。全部見ていた。でも、見ていたのは“便利さ”だけだった」


 アーヴィンは何か言いかける。だが言葉が見つからない。


「愛していた、とは言わないで」


 ヴィオレッタは先に言った。


「今のあなたがそれを言ったら、さすがに少し軽蔑するわ」


 彼は本当に黙った。


 その顔に、傷ついた男の色はある。だがその傷は、相手を失った痛みというより、ようやく自分が失ったものの大きさへ気づいた顔に近い。


「……私は、君がいて当然だと思っていた」


 やっと出てきたのがその言葉だった。


 ヴィオレッタは小さく頷いた。


「ええ。知ってる」


「だから、戻らないのか」


「戻れない、の方が近いわね」


 アーヴィンは目を閉じた。長い長い沈黙のあと、彼はようやく言った。


「すまなかった」


 それは謝罪だった。遅すぎる、あまりに遅い謝罪。


 ヴィオレッタはその言葉を聞いても、胸が動かなかった。以前なら、たった一言でまだ揺れたかもしれない。今はもう違う。


「ええ」


 彼女は答える。


「遅かったわ」


 アーヴィンはその言葉を受け止めたまま、何も返さなかった。そして少しずつ、自分の居場所ではない部屋の空気に押し出されるようにして去っていった。


 扉が閉まる。


 ヴィオレッタはそこで、ようやく長く息を吐いた。


 終わった。


 本当に。


 怒鳴ることも、泣くこともなく。

 けれど確かに、終わったのだ。


 夜になってから、カシアンが来た。


 今回は事前の知らせもなく、だが不思議と唐突には感じなかった。彼は最初から、こういう“全部が終わったあと”に来る男のような気がした。


 応接用の小部屋に通すと、彼はいつも通り無駄なく座り、いつも通り余計な挨拶をしなかった。


「離縁の書類が動きました」


 開口一番、それだけ。


「早いのね」


「義母上が決めたことですから」


「そう」


 ヴィオレッタはワインを二つのグラスへ注いだ。今夜は少し深い赤だ。昔アーヴィンが好んでいた銘柄ではない。自分で選んだものだった。


 ひとつをカシアンへ差し出す。


「飲む?」


「少しだけ」


 グラスを受け取る指は相変わらず綺麗で冷たい。


「あなたも本当に嫌なところへばかり来るわね」


「嫌なところほど、片づけが必要です」


「片づけ」


「終わったあとの整理は、たいていそこから始まる」


 ヴィオレッタは向かいに座った。


「わたくし、少し空っぽだわ」


 つい、そう口にしていた。


 カシアンはすぐには答えない。彼はたいてい、こちらが言い切るまで待つ。


「復讐したかったの。勝ちたかった。わたくしを都合よく使って捨てようとした人たちに、二度と同じ顔ができないようにしたかった」


 グラスの中の赤を見つめる。


「それはできたと思う。でも今は、嬉しいというより……静かすぎるの」


「当然です」


 カシアンが言う。


「復讐は、埋める行為ではありませんから」


 ヴィオレッタは顔を上げた。


「埋める?」


「失ったものを戻す仕事ではない。奪われた形を、これ以上歪められないよう止めるだけです」


 その言葉に、ヴィオレッタはしばらく黙った。


 たぶん、その通りなのだろう。

 復讐は薬ではない。

 痛みをなくすものではなく、それ以上腐らせないための処置だ。

 だから終わったあとも、傷は残る。


「そういうところなのよ」


 ヴィオレッタが言う。


「何が」


「たまに、綺麗な言葉ではなく、正しい言葉を置いてくるところ」


 カシアンはわずかにグラスを傾けた。


「褒め言葉として受け取るべきですか」


「好きになさい」


 彼は少しだけ笑ったようだった。たぶん、気のせいではない。


 少しの沈黙。


 そのあと、カシアンはグラスを置いて言った。


「西方の領地、受けるのですか」


「ええ」


「悪くない判断です」


「そう?」


「王都に残れば、あなたはしばらく“元公爵夫人”として消費される。西へ行けば、少なくとも最初から自分の名で始められる」


 ヴィオレッタは頷いた。まさにそれを考えていたところだった。


 王都に残れば、誰もが“あの一件”とセットで自分を見る。西へ行けば、少なくともそこにはまだ、自分の失敗も勝利も知らない土地がある。


「一人で?」


 気づけば、そんな問いが口をついていた。


 カシアンはその意味をすぐに取ったらしい。だが答えは急がない。


「あなたが望むなら、そうではない形もあります」


 ヴィオレッタは彼を見た。


 言葉は静かだった。甘くもない。だがその静けさの中に、確かなものがある。


「……それは」


 喉が少しだけ乾いた。


「今、答えを求めているの?」


「いいえ」


 カシアンはあっさりと言う。


「今それをやると、たぶんあなたは腹を立てる」


 ヴィオレッタは一瞬だけ目を見開き、それから、ほんの少しだけ笑った。


「そうかもしれないわね」


「でしょう」


「でも、少しだけ聞きたい気もしたの」


 その言葉を口にできたことに、自分で驚いた。昔の自分なら言えなかった。今の自分も、本当は言うつもりではなかった。けれど今夜だけは、少しだけ正直でもいい気がした。


 カシアンはその言葉を受け取り、しばらく黙ったあとで言った。


「あなたがあの家にいた頃から」


 声は低い。


「私はずっと、あなたが誰にも見られていないことを知っていました」


 ヴィオレッタの指が、グラスの脚で止まる。


「だから、見ていた?」


「見ていただけです」


「何もせずに?」


「ええ」


 その認め方は、あまりにも潔かった。


「あなたは人妻で、公爵夫人で、しかも完璧に見えた。そこへ手を出すほど愚かではありませんでした」


「今は?」


「今は、手を出すなとは言われていません」


 あまりにも真顔で言うものだから、ヴィオレッタは思わず息を漏らした。笑いなのか、驚きなのか、自分でも少し曖昧だった。


「そういうところなのよ、本当に」


「何が」


「時々、とんでもなく不器用な顔をして、とんでもないことを言うところ」


 カシアンは否定しなかった。


 部屋に、静かな沈黙が落ちた。


 ヴィオレッタはわかった。

 この男のことを、少なくとも嫌いではない。

 たぶん、もっとずっと前から。

 けれど同時に、自分はまだ、誰かの手を迷いなく取れるほど無傷ではない。


「……すぐには無理だわ」


 正直に言った。


 カシアンは頷く。


「知っています」


「待てるの?」


「待てるというより」


「ええ」


「急いで壊す趣味がないだけです」


 その答えに、ヴィオレッタは目を伏せた。


 優しすぎる言葉ではない。

 けれど、今の自分にはそのくらいがちょうどよかった。


 離縁の発表は五日後に行われた。


 文面は冷たく整っていた。

 会計監査と家内の不正整理の過程において、公爵夫人ヴィオレッタ・ローゼンベルクの加害性が否定されたこと。

 今後の家名と領地運営の整理のため、両者合意のもと婚姻関係を解消すること。

 持参財産および補償領地の移譲について。


 王都の人々はそれを読み、ある者は同情し、ある者は納得し、ある者は早すぎると囁いた。だがもう、誰もヴィオレッタを“嫉妬に狂った毒婦”とは呼ばなかった。


 荷造りは静かに進んだ。


 西へ持っていくものは多くない。衣類、書簡、帳面、数冊の本。それから、今夜飲んでいるワインの銘柄を書き留めた小さな紙。以前なら夫の好みに合わせて選んだだろうものを、今は自分の口で決めていく。それだけのことが、ひどく新鮮だった。


 出立の前夜、ヴィオレッタは一人で西棟の窓辺に立っていた。夜は穏やかで、王都の灯りが遠く滲んでいる。


 もうこの屋敷の妻ではない。

 明日にはここを出る。


 それでも、奇妙なほど涙は出なかった。泣き尽くしたのではない。たぶん、もっと手前で乾いてしまったのだろう。


 ノックがする。


「入って」


 カシアンだった。


 それが最後の夜にふさわしいかどうかはわからない。だが不自然でもなかった。


「見送りに?」


「半分は」


「では残り半分は」


「確認です」


「何を」


 彼は部屋へ入り、いつものように少し離れた位置で止まった。


「本当に西へ行くのかを」


 ヴィオレッタは少しだけ笑う。


「書類も馬車も整っているのに?」


「ええ。人は最後の夜に予定を変えることがある」


「しないわ」


「でしょうね」


 少しの沈黙。


 ヴィオレッタは自分の中にあるものを探した。別れの言葉、約束、何か気の利いたもの。だがそういうものは見つからなかった。代わりに出てきたのは、ずっと不器用な言葉だった。


「……あなたがいてよかったわ」


 カシアンはすぐには答えなかった。答えないまま、その言葉の重さを確かめるようにこちらを見ていた。


「それは」


 やがて言う。


「今の私には、十分です」


 ヴィオレッタは頷いた。


 そしてその夜、二人は特別なことは何もしなかった。ただ同じ部屋でワインを一杯だけ飲み、言葉を少し交わし、窓の外の王都を見た。それだけだ。だがそれだけでよかった。今の自分たちには、その程度の静けさがちょうどよかった。


 翌朝、空はよく晴れていた。


 エルマが馬車の準備を整え、残す使用人たちが並ぶ。義母は出てこなかった。アーヴィンも。どちらも、それでいいと思った。最後に見たい顔ではない。


 馬車へ乗り込む前、ヴィオレッタは一度だけ屋敷を振り返った。石造りの立派な邸宅。窓、柱、庭、門。長年、自分が守るべきだと思い込んでいた場所。


 けれど今の彼女には、もうそれは“戻る家”には見えなかった。


 ただ、長く閉じ込められていた檻の形をした建物に見えるだけだ。


 馬車の扉が閉まり、車輪が動き出す。


 その時、門の外に一頭の馬が止まっているのが見えた。黒い外套。見慣れた姿。


 カシアンだった。


 彼は何も言わず、ただ馬上からこちらへ一礼した。同行するのではない。引き止めるのでもない。ただ、自分がここにいると示すだけの礼。


 ヴィオレッタは窓越しに、わずかに笑った。


 馬車はそのまま、王都を離れて西へ向かう。


 道の先にあるものは、まだ何ひとつ決まっていない。領地がどういう土地かも、どんな人が待つのかも、自分がそこで何者になるのかも。


 けれど、それでよかった。


 決まっていないということは、まだ自分で決められるということだ。


          ◇


 西方の春は、王都より少し遅れて来る。


 ローゼンベルク家から譲られた小領地は、地図で見たより風の強い土地だった。高い木々は少なく、なだらかな丘と葡萄畑が広がり、古い石造りの屋敷は大きすぎず、小さすぎず、まるで長く無人だった家が静かに息をひそめているように見えた。


 ヴィオレッタがここへ来て、三か月が経った。


 最初の一か月は、書類と土と人の顔を見ることに終わった。

 領地の税。

 畑の手入れ。

 水路の修繕。

 古い倉庫の整理。

 葡萄酒の質。

 思っていたよりやることは多かったが、不思議と苦ではなかった。

 誰かの家を守るためではなく、自分の場所を立ち上げるための仕事は、同じようでいてまるで違う。


 今では屋敷の食堂に、ようやく自分の好きな花だけを飾るようになった。以前のように“誰にどう見えるか”より先に、自分がどうありたいかを選べるのは、まだ少しだけ落ち着かない。だが、その落ち着かなさが嫌ではない。


 午後、ヴィオレッタはテラスで一人ワインを飲んでいた。


 西の陽はまだ高い。グラスの中の赤は、以前のどの夜よりも軽やかに見える。甘すぎず、渋すぎず、自分で選んだ葡萄の年だ。


 石段の下で足音がして、エルマが上がってくる。


「お手紙です」


「どこから」


「王宮法務局」


 ヴィオレッタは受け取り、封を見た。愛想のない封蝋。相変わらずだ。


 開く前から、中身の半分はわかっていた。


 西方視察の名目で数日そちらを通る予定があります。葡萄酒の質が改善したかを確認したい。

 追伸。前回の銘柄は悪くありませんでした。

 カシアン・ルヴェール


 ヴィオレッタは手紙を読み終え、しばらく無言でいた。


「何と」


 エルマが尋ねる。


「相変わらず、感じの悪い来訪予告よ」


 そう答えながら、ヴィオレッタは微笑んだ。


 エルマはそれ以上聞かず、ただ「そうですか」とだけ言って下がる。


 一人になってから、ヴィオレッタはもう一度手紙を読んだ。

 葡萄酒の質を確認したい。

 まったく、なんて不器用な男だろう。


 けれど今の自分には、その不器用さが少しだけありがたい。


 すぐに返事は書かなかった。急ぐ必要はない。たぶん彼も、すぐの返事を期待してはいない。そういう距離だ。


 ヴィオレッタはテラスから葡萄畑を見下ろした。風が畝を渡り、まだ若い葉を揺らしていく。ここには王都の夜会も、義母の扇も、アーヴィンの美しい顔もない。あるのは風と土と、これからどうするかを自分で決められる日々だけだ。


 もう昔の自分には戻れない。


 けれど、戻れないことは必ずしも不幸ではないのかもしれない。


 グラスを持ち上げ、ワインをひとくち飲む。


 地獄の底で飲んだわけではない。

 けれど、あの夜を越えてようやく、自分のために選んだ一杯だ。


 その味は、昔より少しだけ苦く、ずっとましだった。

初めてザマァ系?を描きました

拙い文で読みづらかったりすることもあったともいますが最後まで読んでくださった全ての方に感謝します。

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