第一章:予期せぬ電話
2018年9月15日。
大分市内のマンションの一室で、水澤塔子は所在ない夜を過ごしていた。
35歳。独身。代わり映えのしない事務職の毎日。そんな彼女の数少ない潤いは、週末に一人で通うカラオケだった。部屋の静寂を埋めるように、テレビからは秋の気配を告げるニュースが流れている。
その時、部屋の隅に置かれた固定電話が、不意に鳴り響いた。
今時、この電話を鳴らすのは実家の母か、あるいはどこかの熱心なセールスくらいのものだ。塔子は少し迷った末、受話器を取り上げた。
「はい、もしもし。水澤です」
「……もしもし。水澤塔子さんのお宅でしょうか」
受話器から聞こえてきたのは、耳に心地よい、しかしどこか時代がかった丁寧な口調の女性の声だった。
「はい、そうですが……どちら様でしょうか」
「あの、私、佐藤昭子と申します。突然のお電話で失礼いたします。雑誌を拝見してお電話差し上げました」
雑誌、という言葉に塔子は眉をひそめた。
「雑誌? 何の雑誌でしょう」
「『フレン・ドゥ』という雑誌です。テレフォンフレンド募集のコーナーに、水澤さんのプロフィールが載っていらしたので。思い切っておかけしてみたんです。あ、趣味がカラオケで、血液型はA型……とありますけれど、お間違いありませんか?」
心当たりがあった。名前、血液型、そして趣味。すべて自分のことだ。
だが、そんな募集に応募した記憶は、記憶のどこをさらっても出てこない。
「……確かに私のことのようですけど。その雑誌、いつの号ですか?」
「ええと、表紙には2019年9月号、とあります。ミスプリントですかね、新しく珍しいデザインの雑誌ですから、まだ発売されたばかりのようですね」
塔子は一瞬、耳を疑った。
「2019年……? 佐藤さん、今は2018年ですよ。来年の雑誌がもう出ているんですか?」
「2018年?」
受話器の向こうで、佐藤昭子が小さく息を呑む気配がした。
「……水澤さん、冗談がお上手ですね。今は昭和54年。1979年ですよ。今日は9月の15日、敬老の日の土曜日ではありませんか」
1979年。
塔子は思わず、壁のカレンダーを二度見した。そこには「2018年(平成30年)」とハッキリ印刷されている。
会話の歯車が、目に見えて狂い始めていた。
塔子は、この女性が質の悪い詐欺か、あるいはひどい妄想の中にいるのではないかと疑った。
確認のために住所を尋ねると、彼女は大分市の「竹が丘二丁目」に住んでいると言った。
そこは、今まさに塔子が住んでいる場所そのものだった。
「……ここには、大きな10階建てのマンションが立っています。私はその6階にいるんです。佐藤さんは?」
「マンション? いえ、ここは2階建てのアパート『竹が丘荘』ですよ。私の部屋は2階の202号なんです」
竹が丘荘。
その名前に、塔子は覚えがあった。このマンションが建つ前、確かにそこには古い木造のアパートがあったと、近所の老人が話していたのを思い出したのだ。
いたずらにしては手が込みすぎているし、何より相手の声には、人を担ごうとするような邪気が一切感じられない。
むしろ、ひどく困惑しているのは向こうの方であるようだった。
「あの、佐藤さん。もう一度確認させてください。その『フレン・ドゥ』という雑誌、本当に2019年発行と書いてあるんですか?」
「ええ、間違いありません。実は、この雑誌……いつの間にか私の部屋の机に置いてあったんです。心当たりがなくて、でも中を見たら、とても親しみやすい水澤さんの自己紹介が載っていたから……」
塔子は震える手で、手元のスマートフォンを握りしめた。
もし彼女の言葉が真実なら、まだ自分が投稿してもいない「一年後の未来の雑誌」が、なぜか「三十九年前の過去」に届いていることになる。
「佐藤さん。失礼ですけど、おいくつですか?」
「32歳です。大分市内の、問屋で事務をしております」
「……そうですか。佐藤さん、今、その雑誌に私の『好きな歌手』はどう書いてありますか?」
昭子は誌面を追うように、少し間を置いて答えた。
「ええと……久保田早紀さん、とあります。でも、ごめんなさい。私、存じ上げない方なんです。新しくデビューされた歌手の方かしら?」
久保田早紀。
塔子の脳裏に、あの有名なメロディが流れた。彼女のデビュー曲『異邦人』が発売されるのは、1979年の10月1日だったはずだ。つまり、1979年の9月15日にいるという佐藤昭子が、彼女を知らないのは当然のことなのだ。
「佐藤さん、驚かないで聞いてください。……いいえ、驚くでしょうけど」
塔子は大きく深呼吸をした。
「今は、2018年です。昭和で言えば、93年。あなたが持っているその雑誌は、私のいる場所からさらに1年後の未来のものです」
「そんな……。でも、お電話はこうして繋がっていますわ」
昭子の声は震えていたが、電話を切ろうとはしなかった。
「佐藤さん、失礼ですけど……『スマホ』ってわかりますか?」
「すま……ほ? 何かしら、それは。新しい電化製品のお名前?」
塔子は言葉を失った。
受話器を握る手が、じわりと汗ばんでいる。
目の前に置かれた多機能なスマートフォン。
光ファイバーが通った部屋。
液晶テレビ。
一方で、電話の向こうから聞こえるのは、黒電話の受話器を置くような「カチャリ」という重い音の残響。
「また、おかけしてもよろしいかしら。なんだか、とても不思議な方とお話ししている気がして」
佐藤昭子の声は、どこまでも優しく、穏やかだった。
窓の外には、2018年の夜景が広がっている。
だが、この受話器の向こう側には、まだ「スマホ」も「平成」もない、三十九年前の大分市の夜が、確かに息づいている。
電話が切れた後、塔子はしばらく受話器を置いたまま動けなかった。
9月15日の、まだ夏の空気が残る蒸し暑い夜。
この古びた固定電話が、目に見えないほど長い、三十九年という時間のトンネルを繋いでしまったのではないか。
そんな荒唐無稽な予感が、確信めいた重さを持って塔子の胸に居座った。




