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第二話

 身支度を済ませた頃には、外は夕暮れ時になっていた。

 晩餐会の会場に向かうにはちょうどいい頃合だ。


 外階段から表に出ると、街は夕暮れの気配と霧に包まれていた。

 政治の中枢、中央区。

 その中でも商業的な役割を果たす中産階級が住まう地区に、私たちは住んでいる。

 どこかの家から香る夕食のコンソメの香りと蒸気機関車の煤の匂いに不思議と感傷的な気持ちになりながら、私は一台の馬車に目を止めた。


 それは黒漆塗りの立派な四輪馬車で、アーロンさんが自宅の一階に構えている理髪店の真正面に停まっている。

 中産階級の住まう地域にはあまりにも似つかわしくない豪奢な馬車だ。


「今日は随分お金持ちのお客さんが来たのね」


「あれは私たちが乗る馬車だよ」


 背後からの声に驚いて振り向くと、アーロンさんが笑みを浮かべて立っていた。


「私たちって……あれに? 乗るの? 今から?」


「だからそうだと言っているじゃないか」


 呆れたような口調で答えて、アーロンさんは私の背を押す。

 促されるまま階段を降りて馬車へと向かうと、御者が笑顔で私たちを車内へと招き入れた。

 乗車してすぐ、馬車はゆっくりと走り始める。


 ふかふかの座席に体を沈めながら、車内を観察してみた。

 真鍮の手すりに、深緑色のビロード張りの座席、絹張の天井。

 どれをとっても貴族が使うような、一級品の馬車である。

 一介の理髪師が乗る馬車としては不自然だ。


「今日の晩餐会の主催って貴族の人なのよね。そんな人と友達なんて、アーロンさんってもしかして、いいところの人?」


「……まあね」


 至極面倒くさそうにアーロンさんは呟く。


「なるほど、だから独身なのに中央区なんていい場所に家を持ってるのね」


 返事はせず、アーロンさんはただ鼻で笑った。



 視線を落とせば、今日の晩餐会のためにアーロンさんが私に用意した服が目に入る。

 ワイン色のビロードのワンピースは、手触りや縫製を見るにかなりの上物だ。

 これだって、理髪店の利益だけで賄えるわけがない。



 そんなことを考えながら視線を戻せば、アーロンさんは長い睫毛を伏せ、物憂げな表情を浮かべていた。

 良家の青年が家を飛び出した理由に興味は惹かれるが、尋ねるのも憚られて口を噤んでいると、にわかに外が騒がしくなってくる。

 窓の外に目を向ければ、道路の両側を挟むように露店が立ち並んでいた。


「アーロンさん見て、市場だわ!」


 わざとはしゃいだ様子で声をかけてみたが、アーロンさんはちらと窓の外を一瞥し、すぐに視線を落とす。


「あ、あれはスパイス屋さんね」


 たまたま視界に入った一つの屋台に目を止めて指を差すと、アーロンさんは緩く首を振った。


「あそこにあるのはスパイスじゃないよ、ただの色のついた砂だ」


 予想もしなかった言葉に目を瞬かせると、アーロンさんは唇を三日月型に吊り上げる。


「砂?」


 呆気にとられる私の顔が面白かったのか、アーロンさんはしばらく口の中で転がすように笑ってから、顔を寄せてきた。

 見惚れるほどの美貌に吐息がかかるような至近距離から見つめられ、思わず頬が熱くなる。


「いいかい? スパイスというのは高級品なんだ。最近になって安いものもよく出回るようになったけれど、そういうものはとかく質が悪い」


 分かるかい、とアーロンさんは小首を傾げる。

 素直に頷くとアーロンさんは饒舌に言葉を続けた。


「安物の中にはスパイスとは関係のない植物や塩なんかを混ぜて、かさ増しして売っているものもあるんだよ」


 アーロンさんの説明に、思わず顔を顰める。

 そんなものを混ぜたらスパイスとしての味が落ちるに決まっている。


「だから色のついた砂なのね……」


 それでも砂はあんまりな言い方だと思いながら頷くと、アーロンさんは満足気に椅子に深く腰掛け直した。


 横目でぼんやりとお菓子を選ぶ子供たちの姿を眺める。

 この市場の中にも、混ぜ物を売る露天商がいるのだろうか。


「さあ、そろそろ目的地に着くよ。スカートの皺でも伸ばして準備するといい」


 アーロンさんの言葉に我に返る。

 いつの間にか馬車は市場を抜け、白い漆喰の建物が隣接するエリアを走っていた。

 中央区の中でも貴族や富豪の住まう邸宅が建ち並ぶ高級住宅街だ。


 手櫛で髪を軽く整えながら、美しい街並みを眺める。

 青紫と橙の混じる夜空にガス灯の灯りがぼんやりと浮かんでいる。

 ほとんど隙間なく並ぶ巨大な建造物の群れは、さらながらひとつの城塞のように見えた。


「お姫様の住むところみたい」


「残念ながら王族ではないよ。ただの貴族さ」


 貴族だって充分すごいじゃない、という私の言葉は、車輪が奏でる甲高い停車音にかき消された。

 御者が扉を開くと、アーロンさんはさっさと先に降りてしまう。

 慌てて追いかけようとして手すりを掴んだ途端、ついと眼前にアーロンさんの手が差し出された。


「エスコートが必要ですか、お姫様?」


 それが先程の私の発言を絡めた冗談だと気づいて顔を顰め、目の前の手を払い除けて馬車から飛び降りた。

 あたりに響く乾いた靴音に、アーロンさんは肩を竦める。


「淑女らしい優雅な降り方だね」


 嫌味な言い方にそっぽを向くと、視線の先にこちらに向かってくる人影を捉えた。


「やあウォルター、久しぶりだな」


 こちらに向かって気さくに手をあげる、フロックコート姿の長身の男性。

 肩周りががっしりとしていて体格が良く、栗色の髪をバッチリと固めている。

 こちらに向けて挙げた手は節くれだっていて、少々無骨な印象を受けた。



 ウォルター……?

 聞きなれない名前に戸惑い、アーロンさんに視線を向ける。

 この状況で名前を呼ばれるのはアーロンさんしかありえないはずだが、呼ばれたのは全く違う名前だ。

 男性の方を向いたアーロンさんの横顔は、面白くないという感情をありありと浮かべている。



「……わざわざホスト自らお出迎えありがとう。しかし、その名前で呼ばないでくれないか。今はアーロンだ」


「ああ、そうだったな」


 おざなりに男性は返答する。

 アーロンって本名じゃなかったの? などと聞く暇もなく、アーロンさんは私の背を押し出す。


「こちらはルーシー、うちの居候だ。ルル、こちらは私の古い知人のオスカー。オスカー・ラドクリフ」


「はじめましてレディ」


 オスカーさんの挨拶に慌てて頭を下げると、オスカーさんは人の良さそうな笑みを浮かべた。

 その肌に化粧をしたような粉っぽさを感じる。


「可愛らしいお嬢さんだ。気取ったところがなくて、今までの君の女の中では一番まともじゃないか」


「居候だと言ってるだろう。この子はそういうのじゃない」


 食い気味に噛み付いて、アーロンさんは不機嫌そうに眉を寄せる。

 そんなアーロンさんの様子に苦笑しつつ、オスカーさんは屋敷を手で示した。


「分かった分かった。立ち話もなんだ、中に入ってくれよ」


 オスカーさんは踵を返して、屋敷に続く階段を上がる。

 ドアの横に立っていた燕尾服姿の老紳士が、さっと扉を開いて私たちを招き入れた。

 屋敷の中に入ると、広い玄関ホールに迎えられる。

 私たちが入るのを見計らったかのように、入口の方からよく通る男性の声が聞こえてきた。


「ダドリー家のご婦人がお越しです」


「……呼んでもいないのに、よく恥ずかしげもなく来られるものだ」


 吐き捨てるように呟いて、オスカーさんは大きく息を吐く。

 少し階段を上がっただけなのに、やたらと息切れをしているようだ。

 灰かぶり姫が舞踏会のために登るお城の長階段ならいざ知らず、ほんの数段の階段である。

 それだけで息切れなんて、具合でも悪いのかしら、と私は首を傾げる。


「悪いな、少し面倒な相手が来た。そこの使用人にサロンまで案内してもらってくれ」


 そう言い残し、オスカーさんは億劫そうに玄関を出て行った。

 外へと向かう背中を見送っていると、背後から人の近づく気配がする。


「お部屋にご案内いたします」


 振り返ると、栗色の髪をお団子にまとめ、黒いワンピースに白いエプロンを纏った女性と目が合った。

 女性は白い手袋をつけた手を重ねて恭しくお辞儀すると、先導するように屋敷の奥へと歩き出す。

 柔らかい絨毯に足を取られて転ばないよう注意を払いながら、アーロンさんと並んで女性の後を追った。


 案内された先は応接室だった。

 豪奢なシャンデリアが照らす室内には、柔らかそうなソファや丁寧な細工が施された肘掛椅子、艶やかな木目のサイドテーブルなどが並べられている。

 室内では招待客らしき着飾った人々が和気あいあいと歓談していた。

 噎せ返るような香水の匂いにくしゃみが出そうなのを堪えつつ、女性の方を振り返る。


「案内、ありがとうございます」


 扉の傍に立つ女性にお辞儀すると、女性は困ったように視線を彷徨わせた。


「……あの、お礼はいりません。これは私の仕事ですから」


 言葉の意味が理解できずに首を傾げると、そんな私の様子にアーロンさんが呆れたように目を細める。


「……ハウスメイドを見るのは初めてだったか」


「ハウスメイド……」


 アーロンさんの言葉に、私は首を傾げる。

 その存在自体は本で知っているが、実際に見るのははじめてだ。


「貴女はこのお屋敷で働いているハウスメイドなの?」


 私の質問に、メイドはホッとした様子で頷いた。


「ええ。ですから、お礼は不要です。そんなことを言われる立場ではありませんので」


 仕事だからと言って、それがお礼を言わない理由になるかしら、と私は心中で呟く。

 私も孤児院時代にはいくらかお駄賃を貰う程度の仕事をしていたけれど、お礼を言われれば嬉しかった。


「あなたは、お礼を言われても嬉しくないの?」


 重ねて尋ねると、メイドは呆気にとられたような顔をして固まった。

 何事か言おうとして口を開き、言葉が見つからないのか、目を瞬かせる。

 白い手袋を嵌めた手をぎゅっと握りこんでいたが、その手はひどく震えていた。

 尋常ではない様子に、私もどうしていいか分からず閉口する。


 しかしそれも一瞬のことで、メイドは我に返った様子で一礼すると、足早に部屋を去っていった。


「お集まりの皆様」


 入れ替わりに現れた燕尾服姿の老紳士が、恭しくお辞儀する。


「夕食の準備が整いました、どうぞこちらへ」



 老紳士は丁寧な所作で両扉を大きく開いた。

 建付けが悪いのか、扉は獣が低く唸るような軋んだ音を立てる。

 暖炉で暖められた部屋の空気と廊下の冷たい空気が混ざり合い、生温くなったそれが首筋を撫ぜた。

 妙な緊張感と胸騒ぎを感じつつ、私は扉をくぐったのだった。

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