第一話
「……っ、痛い! 淑女の髪を乱暴に引くなんて、ひどいじゃない。アーロンさん」
「そんなに強く引っ張っちゃいないさ。惰眠を貪る君の顔が、いささか憎らしくてね。つい手が動いてしまった」
後頭部を走る鋭い刺激に、私はたまらず顔を上げた。
頬を押し当てていた事務机の硬さと、枕代わりにしていた古新聞の、鼻を突くインクの匂いがようやく意識に混ざり始める。
春先の麗らかな昼下がり。
窓から差し込む陽光は、霧の街と呼ばれるこの街特有の煤を含んだ薄布のような柔らかさで室内を満たしていた。
微睡みという名の幸せな時間は、この家の主であり、無礼な指先を持つ理髪師によって、容赦なく奪い去られたのだ。
「せっかく気分よく寝ていたのに。台無しだわ」
大きくため息を吐きながら、突っ伏していた体を起こす。
窓の外から響く馬車の車輪音と、遠くで鳴り響く蒸気機関車の重苦しい汽笛。
それらが、往来の賑わう午後の熱気を、この静かな二階の書斎へと運んでいた。
「真昼間から居眠りとは。良いご身分ですね、ルーシー・アシュフォード嬢?」
見上げれば、そこには形の良い唇を嫌味な形に歪めた男が立っていた。
アーロン・コミンスキー。
この界隈では珍しい、カラスの濡羽を思わせる漆黒の髪と、底の見えない瞳。
陶器のようになめらかな白い肌は、窓越しの光を跳ね返し、寝起きの視界にはいささか眩しすぎる。
今日も今日とて、男にしておくにはもったいないほどの完成された造形だ。
「そちらこそ、一階の理髪店を放り出しておサボりかしら。今日も髪を切りに来てるんだか、おしゃべりしに来てるんだかわからないご婦人がたくさん来てるんでしょう? それに、私が暇を持て余していることくらい、見たら分かると思うけど」
剣呑に言葉を返せば、アーロンさんは小馬鹿にするように鼻で笑う。
「よく分かるとも。その、右の頬にくっきりと刻まれたインクの汚れを見ればね」
ハッとして手を当て、机の上の新聞に目を落とす。
一面を飾る『霧都の歌姫、謎の急死か?』という見出しのインクが、私の顔にそのまま写ってしまったようだ。
「……それで、なんの用なの?」
アーロンさんは芝居がかった動作で肩を竦めた。
「ご挨拶だね。自分で仕事も探せないへっぽこ探偵さんのために、わざわざ『餌』を持ってきてあげたというのに」
彼は懐から一枚の紙を取り出し、見せびらかすように眼前に突きつけてくる。
「仕事!? 私に!?」
椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、紙に手を伸ばす。
だが、指が触れる直前、アーロンさんはひらりと腕を上げた。
「もう! 意地悪はやめて!」
身長差のせいでちっとも届きやしない紙に向かってぴょんぴょんと飛び跳ねる私を見下ろして、彼は楽しげにそれを翻らせる。
「おやおや? サボり魔で意地悪な私から、お仕事を譲ってもらう立場なのかな?」
ねぇ? と首を傾げて問いかける様子に、舌打ちしそうになるのをぐっと堪える。
アーロンさんの家を間借りし、自称「探偵」を始めてはや一ヶ月。
未だに飼い猫捜索の依頼すら舞い込んでこないのだから、ここは素直に平身低頭お願いするべきだろう。
「……親切で働き者の理髪師アーロンさん。そのお仕事、ぜひ私に譲ってくださいな!」
深く頭を下げる私に、アーロンさんは仰々しくため息を吐きながら、ようやく紙を机の上に置いた。
「全く。仕事を貰うためとはいえ簡単に頭を下げるんだね。君にはプライドというものが欠けているのかな」
「だっ……れの……!」
誰のせいで、と言いかけた言葉を飲み込み、一つ深呼吸。
期待に胸を膨らませて二つ折りされた紙を広げた途端、私は口を開けて硬直することになった。
そこに記されていたのは、晩餐会の招待状だ。
宛名には美しい筆記体で『アーロン・コミンスキー』と書かれている。
これは仕事の紹介などではなく、ただの同伴の誘いだと瞬時に理解した。
「こ、これ……探偵の仕事じゃないじゃない!」
バン、と勢いよく机を叩いた私を、アーロンさんは不思議そうな表情で見下ろす。
「不満かい? 居候でタダ飯食らいを続ける君に、仕事を選ぶ権利があるとは思えないけれど」
正論という名の凶器に、私は歯噛みするしかない。
平凡な少女だった私が、何故探偵になったのか。それは目の前の男が元凶なのだ。
――ある日突然、私を孤児院から引き取ったアーロンさんは、ソファに座ってすらりと伸びる長い脚を組み、ふてぶてしく言い放ったのだ。
「君には探偵になってもらうよ」
唖然とする私に、彼は意地悪な笑顔でこう続けた。
「ほら、最近流行りだろう? 『少女探偵』という響きは実に絵になりそうで面白いじゃないか。居候の少女が難事件を解く。実に見栄えがいい」
思い出すだけで胃のあたりがムカムカとしてくる。
勝手に人の人生を決めておきながら、彼は事務所代わりの部屋を与えたきり、何の手助けもしなかった。
一ヶ月前まで孤児院で慎ましく暮らしていた娘に、一体何ができるというのか――。
「晩餐会というのは多種多様な人間が集まる。特に貴族や地主は、他人に言えない問題を抱え込んでいるものだ。彼らとコネクションを作るのは、君にとっても悪い話ではないと思うけれど?」
腹立たしいことこの上ないが、彼のアドバイスには一理ある。
不本意ではあるが、仕事の依頼が来る可能性を少しでも多くするべきなのは、他ならぬ私だ。
このまま一文無しの居候として居直っていられるほど、私の心臓は図太くできていなかった。
「……分かったわ、行けばいいんでしょう」
憮然と答えてから、私は目を細める。
「それにしても、随分軟派な貴族のお友達がいるのね。アーロンさんって」
「ほう?」
彼は面白がるように、片方の眉を上げた。
「まだ何も伝えていないというのに、よく差出人のことが分かったね。当てずっぽうかな?」
「まさか。推理よ」
改めて手元の手紙に視線を落とす。
『アーロン・コミンスキー氏
二月二十日、午後八時より
晩餐会に招待する
――O.』
ブルーブラックのインクで綴られた文字を眺めながら、私は言葉を紡いだ。
「手紙の材質が厚手のコットン紙だわ。高級品を使っているのに、文面は驚くほど簡素。親しい友人関係にあるから、礼節をあえて省略しているんでしょう」
説明しながら、紙をひっくり返す。
「ほら、ご丁寧に裏面に家紋の型押しまでしてある。友人への私信に、家紋入りの公式な紙を使いながら、香水の香りをまとわせている。これは軟派でナルシストな男の特徴よ。間違いないわ」
手紙から漂う、強めのムスク系の匂いを手で払うと、アーロンさんは感心したように肩を竦めた。
「合格。寝起きで頭が惚けているなら置いて行こうかと思っていたけれど、その心配はなさそうだ」
「この程度の推理、朝飯前だわ」
「はは。もう昼なのに朝飯前とは面白いジョークだ」
内心ではほっと胸を撫で下ろす。
披露した知識は、すべて昨夜読み耽った探偵小説の受け売りだ。
幸いにもアーロンさんのお眼鏡には適ったらしく、彼は満足そうに頷く。
「やはり君を選んだ私の目に狂いはなかったようだ。何せ君は、かの有名な――」
「ん……?」
「……いや、何でもない」
意味ありげな微笑みを浮かべ、アーロンさんはゆっくり首を振った。
「さて……自称美食家の貴族の晩餐会だ。彼は少々色好みの気があるせいで、揉め事も多くてね。行ってみれば、面白い事件が一つや二つ、転がっているかもしれないよ」
「なるほど。それは楽しみだわ」
上流階級の愛憎が引き起こす事件を解決し、大層な謝礼金を勝ち取る。
そんな未来を想像すれば、自然と足取りも軽くなる。
「そうと決まれば準備が必要ね。でも、晩餐会に着ていけるような服なんて……」
「まずは、その顔のインク汚れを落とすことだね。服装については心配しなくていい。私が相応のものを用意しておいたから」
彼の用意周到さに呆れながらも、踵を返したアーロンさんの背中を追って、部屋を出た。
この時の私には預かり知らぬことだが、これが私の探偵人生の記念すべき第一歩――凄惨な殺人事件の幕開けとなるのだった。
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