53.一時の心弛び
※ 残酷表現等がございますのでご注意ください。
文章の終わりにイメージイラストがあります。
パチパチと爆ぜる音に、ルイスはふと目を覚ました。そんな彼が最初に目にしたのは、触れそうなほど間近にあるリオンの顔。彼女の目は閉じられ、桜色の唇は微かに開いている。
「ちょ、ま、待てっ!」
動揺した彼の声に、ふっと瑠璃色の瞳が顔を覗かせる。数回目を瞬かせると、顔を真っ赤に染めたルイスを見て、安心した様子でホッと息をついて言った。
「よかった。目、覚ましたんだね」
「え?」
「忘却水の反動は、もう大丈夫?」
「反動……?」
彼女の言葉に戸惑った様子で首を傾げた後、彼はようやく自身の置かれた状況を把握した。
意識を失う寸前まで、彼を襲っていた激しい頭痛はすでにない。だが彼は、脂汗の代わりに冷や汗を流し始めた。
彼の背中にはゴツゴツとした岩肌が当たっているが、頭から首にかけては柔らかく、暖かなものが触れている。極めつけは、現状、彼は彼女を真下から見上げる姿勢になっていることだ。
一言で言えば、彼はリオンに膝枕をしてもらっている状態だった。その状態に無言で固まった彼の様子に、彼女は髪を押さえながらルイスの顔を覗き込んだ。
「まだ調子悪い?」
「いいいいいいや、頭痛はもう平気だから大丈夫だ!」
「ならよかった」
慌てて首を振る彼に対し、彼女はふわりと微笑む。心底ホッとした様子を見せた彼女に、彼はバツが悪そうに言った。
「わ、悪い。足疲れただろ、今起きる」
そうして起き上がった彼の胸から、かけられていたローブがずり落ちる。そこには彼自身のローブだけではなく、彼女の白いローブも混ざっていた。それを見て、彼が目を見開いた次の瞬間、小さなくしゃみが彼女の口から飛び出す。
彼女を振り返れば、そっと目を逸らすリオンの姿がそこにあった。それを見た彼は、一つ大きく息をついて言った。
「お前なぁ……。オレを心配してくれたのは感謝するが、湯冷めするとわかってて、自分のローブまでオレにかけるなよ」
「でも、汗すごかったし、風邪引いちゃうかなって……」
「お前が風邪引いたら意味ないだろう」
そう言いながら、白いローブを彼女にかけて抱きかかえると、位置を入れ替えるように彼は座り直す。自身のローブを羽織ると、その裾を持ったまま、目を白黒させている彼女の体をそっと抱きしめて言った。
「ほら、こうしてれば暖かいだろ」
真顔で告げられた言葉に、今度はリオンの頬に朱が差す。すっぽりと包まれるように密着した状態で、彼女は俯いて小さく頷く。
そんな彼女の照れが移ったのか、ルイスも頬を染めると、咳払いをして懐から懐中時計を取り出した。
「だいたいあれから数刻、か……。夜明けまであまり間はないが、お前は少し眠れ。今日も一日駆けることになるから、寝ておかないとしんどいぞ」
「……わかった」
そう言いながらも、緊張に身体を強張らせた彼女を見ると、彼は華奢な肩を抱き寄せて言った。
「何もしないから安心して寝ろ」
「そ、そうは言っても、眠れる気が……って、あれ?」
彼の胸に抱かれた彼女の目が瞬く。
「ルイスの心臓の音……」
「何も言わずにとにかく寝ろ」
ややぶっきらぼうな声が、リオンの言葉をみなまで言わすまいと遮る。彼女がそっと見上げれば、そっぽを向いた彼の真っ赤に染まった耳が映る。それを目にすれば、彼女は微笑みを浮かべ、彼の胸に大人しく寄りかかった。
彼女の行動に一瞬、彼の体が跳ねる。だが、そのあとは寝かしつけるかのように、そっと大きな手が彼女の肩を撫でる。その温もりに彼女の瞼は次第に下がり、幾ばくもしないうちに、小さな寝息を立て始めた。
その様子を見つめ、ルイスは愛おしげに微笑む。そんな中、すり寄るような仕草を見せた彼女に、彼の心臓が跳ね上がる。しかし、彼女が目を覚ます気配はない。眠る彼女の無意識の行動に、彼は頬を染めると、明後日の方向を見やり、複雑そうな面持ちで小さく息をついた。
そんなことを繰り返しながら、夜明けに出発するギリギリまで、彼はリオンの眠りを守り続けたのだった。
***
――愛し子よ、目を覚ましなさい。
「……ラーナ伯爵令嬢、起き……うあっ」
鈴の音のような声に重なるように、切羽詰まった誰かを呼ぶ声が耳朶を打つ。その声に意識を浮上させた彼女――エマの琥珀色の瞳がそっと開く。
ぼんやりとした様子で目を瞬かせる彼女が、最初に見たのは豪奢な天蓋。暗い部屋をランプの灯りと、カーテンの隙間から入り込む光が照らし出す。それをぼんやり眺める中、ドサリと何かが床に落ちる音に、彼女は起き上がり振り返る。そうして、目にした光景に、彼女は真っ青な顔で目を見開いた。
「よお、お目覚めか?」
そう問いかけたのは紺色の装束を身に着けた三白眼の男。彼の手には血に塗れた紫の刀身の脇差し。その剣の先には、白いローブを赤黒く染め、うつ伏せに倒れている小柄な神官の姿があった。
それを見て身構えた彼女は、刀を握った男を見据えながらじりじりと後ろに下がりながら問いかけた。
「あなた、この前のヴォラス兵……?」
「ほぅ。よくわかったな。いや、それとも視たのか?」
男の言葉に彼女の肩が微かに強張り、その頬を冷や汗が伝っていく。微かに口元を引き攣らせながら、彼女は冷静を装って口を開いた。
「その場に居合わせたのだから、当然見たに決まってるじゃない」
「惚けても無駄だ。太陽のように輝いてた目が今はただの土色。行動と合わせて考えれば、お前の正体なんてすぐにわかる。なぁ、『先見の巫女さま』よぉ」
見透かすかのような鋭い視線と彼の言葉に、琥珀の瞳が大きく見開かれる。全身を強張らせた彼女の反応に、男の三白眼が楽しげに弧を描く。
「よく爺に殺されずに済んだな? あの爺を心変わりさせるなんて、どんな色仕掛けをしたんだ?」
「まさか、副神官長さまに教えたのは……」
「オレだよ。狂いかけの爺を堕とすのに、お前はいい餌だったからな」
嘲りを帯びた男の言い分に、エマは眉間に皺を寄せ、男を睨む。彼の一挙一動を注意深く見つめつつ、彼女は後ろへ下がりながら問いかけた。
「そんなことをして何の意味があると言うの?」
「意味だ? お高く止まってるお前らが堕ちるのは、見てて愉快だからに決まってるだろ」
「……最低ね」
嫌悪を滲ませた瞳が対峙している男を睨みつける。ようやくベッドの端に辿り着いた彼女は、ドレスの裾に手を滑り込ませ、立ち上がった。
そんな彼女の右手に握りしめられていたのは、柄から刀身まで翡翠でできたダガーナイフだった。全てが淡い深緑できた短剣を見た男は、楽しげに口笛を一吹きして言った。
「巫女は血だの穢れだのを嫌うものではなかったかぁ?」
「私は巫女である前に、月巫女さまの侍女だもの」
「聞いた話とは違うが面白い。このまま殺すには惜しいくらいだ」
「そうやすやすと殺されるつもりは……っ!?」
全てを言い終える前に、一気に距離を詰めた男の赤く染まった刃が彼女を襲う。辛うじてその剣撃を受け止める彼女を嘲笑うかのように、男の攻撃は止まず繰り出される。
「おらおら、どうした。腰が引けてるぞ、巫女さまよ」
「くっ……きゃっ!?」
何合かギリギリ男の攻撃を受け止め、彼から距離を取ろうとした彼女の体が、くんっと足を取られて体勢を崩す。床に倒れ込む彼女の頭上を、脇差しが通過し、黒髪の一部を刈り取る。
彼女が足下を振り返れば、左足首とベッドの足を鎖で結ぶ皮の拘束具が、その存在を主張していた。足の拘束具に気を取られた次の瞬間、彼女の体がそのまま床に押さえつけられる。背中に乗りかかられるも、彼女は体を捻りながら得物を背後に向けて振るう。
しかしその一撃は、いとも容易く手首を取られ、ひねりあげられる。彼女の右手から短剣が抜け落ちれば、男は足で遠くへ弾き飛ばした。
「おっかない巫女だな。平和ボケしたオストの女とは思えねぇ」
愉しげに告げる男に、地に伏すエマが背後を振り返り、真っ直ぐ睨む。その目を見て、男は一瞬虚をつかれたように目を見開く。そして、脇差しの峰で肩を叩きながら言った。
「オレがぶっ刺せば終わりのこの状況でもまだ諦めない、か」
「私が簡単に諦めたら、友達に会わせる顔がないもの」
「へぇ」
諦めの色が見えない琥珀に対し、男の目が細められる。そうして、拘束している彼女の身体を値踏みするように見つめた。
男の視線に彼女が身構えれば、彼は残虐な笑みを浮かべて言った。
「そういえば、巫女ってのは、処女じゃないと務まらないんだよな。それなら、死ぬ前にオレが女の悦びってもんを教えてやろう」
「何を、言って……」
男の言葉の意味に戸惑いを露にする彼女を、男は乱暴に仰向けに転がし馬乗りになる。左手で彼女の両手首を抑え込めば、右手の脇差しを彼女の胸に向ける。
襲い来る痛みを想像し、彼女は両目をぎゅっと閉じた。だが、痛みが彼女を襲うことはなく、代わりに彼女が聞いたのは、布を裂く音。
彼女がそっと目を開けば、彼女のドレスの胸元が大きく切り裂かれ、その肌が露になっていた。それに彼女が唖然とする中、男は脇差しを鞘に収め、切り裂いた布を乱暴に引き裂き開く。
辛うじて隠れていた素肌さえも暴かれ、彼女の顔が羞恥で赤く染まる。それと同時に拘束を逃れようと身体を捩り、叫んだ。
「いやっ! 離して!」
「さっきまでの威勢はどうした?」
「こんな辱しめを受けるくらいなら……んぐっ」
みなまで言う前に、彼女の口にシーツの端が乱暴に詰め込まれる。そうして声の出せない彼女に顔を近付けると、男は狂気の孕んだ笑みを浮かべて言った。
「そう喚くな。その目を絶望に染めたあと、しっかり殺してやるからよぉ」
男の言葉に、エマの抵抗が増す。だが、訓練された男の腕力を前に、それはあまりにも無力だった。伸ばされる手に、彼女は言葉にならない声をあげ、必死に首を振り逃げようと試みるが、まるでびくともしない。
そして、あともう少しで男の手が触れようかというそのときだった。
「エマっ!!」
彼女の名を呼び、バンッと音を立て、ドアを蹴破って侵入してきたのは、黒髪に赤目の騎士――グレンだった。幅広なロングソードを片手に入ってきた彼の目に映ったのは、今まさに襲われつつあるエマの姿。そして、彼の姿を見た琥珀色の瞳から溢れた涙だった。
それらを見た彼の真紅の瞳が、怒りで染まる。
「これからって時に、何だよ、おっさ……おっと」
興醒めした様子で口を開いた男だったが、みなまで言う前に、その場を飛び退く。そんな男がいた場所を、一瞬で間合いを詰めたグレンの剣が一閃する。
空中で宙返りをしながら着地した男は、腰の脇差しに手を伸ばしながら、不機嫌そうな声で言った。
「あっぶねぇな。いきなり何するんだよ」
「この場所も、彼女も……お前のような者が穢していいものじゃない」
油断なく剣を男に向けたグレンの目に、普段からは想像もつかないような冷たい光が宿る。そんな中、彼は剣を右手で構えたまま、身に纏っていたローブを左手で留め具を外す。そして、拘束を解かれ体を起こしたエマを振り返ることなく、彼はそのローブを彼女の頭に被せた。
グレンの紳士然とした振る舞いに、男は笑みを消し、苛立たしげに眉根を寄せて口を開く。
「オレが穢していいものじゃないと言うなら何だってんだ?」
「当然、排除させてもらう」
そう告げるが早いか、グレンは床を蹴ると同時に剣を突き出す。直線的な剣筋を、男は横に跳ぶことで難なくかわしたかのように見えた。しかし、そんな男を追うように、グレンは剣を横に凪払う。
二段構えの攻撃に対し、ギリギリのところで脇差の刃がそれを止める。それまで余裕を浮かべていた漆黒の瞳に、焦りの色が微かに浮かぶ。
「へ、ぇ……随分と重たい剣だな?」
「貴様の鍛え方が足りないだけだろう」
「そうか、よっ」
ふっと力を抜き重心をずらすと共に、男は後ろに飛び退く。だが、それにすらグレンの剣が追従する。突き出された剣尖を弾きながら、男は苛立たしげに叫んだ。
「なんでついてこれる!?」
「生憎、お前のような戦い方を得意とするヤツが、オレの身近にいるものでな」
そう言ってグレンが斜めに斬り上げれば、男はさらに後ろへ二歩三歩と跳ぶ。今度は追ってこない彼への警戒を剥き出しに、男は懐へと手を入れる。
しかし、そこに手を入れた男の目が驚き見開かれ、その手は何かを探るように動く。そんな男に対し、グレンは冷めた目で言った。
「捜し物はこれか?」
「なっ……!?」
彼が手にしていたのは、ベルトが切れたホルスターに収められた匕首の束。
「そら、返そう。受け取れ」
彼の言葉と共に、抜かれた剥き身の紫の刀身が男を目掛けて飛んで行く。ギリギリのところでかわした男の頭巾の一部を切り裂き、それは壁に突き刺さる。ついで、頭巾を切り裂かれたことで口元が露になった男は、顔面に怒りを露にして言った。
「くそ、バカにしやがって! こうなったらお前から嬲り殺してやる!!」
そうして、男は脇差しを構え、一直線にグレンに向かい駆ける。それに応じるようにグレンが剣を横凪にすれば、男はしゃがみこみ、ニヤリと笑みを浮かべた。その姿勢を保ったまま、男はグレンの足を狙い刀を振るう。
だが、鈍い音と共に途中で剣線が途切れる。その原因は、男の刃をグレンのブーツの踵が踏みつけたことによるものだった。男は焦った様子で柄から手を離し、飛び退き立ち上がる。そんな男に、剣を肩の高さで水平に構えたグレンは、冷え冷えとした声音で言った。
「これで終いにしよう」
「ま、待てよ。少し話を……うぐっ……」
両手を挙げた男の胸をロングソードが貫き、その勢いで壁にぶつかる。そのやや少し後に、カランと軽い金属音と共に石壁に跳ね返り絨毯に落ちたのは、男の手から抜けた黒光りする棒手裏剣。
喀血により口元を赤く染め、憎悪を浮かべる男グレンは静かに言った。
「悪いが、彼女の命を脅かす敵国の人間を生かしておく選択肢はない」
「女のためかよ。高尚な騎士さまが、聞いて、あきれ、る……」
悪態をつきながら男が事切れ、その体から剣を抜くのとほぼ同時に、一つの声が増える。
「団長、カラーナ嬢はいらっ……ヴォラス兵!?」
「ハリー、そこに倒れている神官を、今すぐパチル殿のところへ。まだ息はある」
「は、はいっ!」
状況に驚きを露にしつつ、ハリーは血を流す年若い神官を抱き抱え、駆け出す。
あとに残されたのは、グレンとエマの二人だけだ。剣についた血を拭うグレンの元に、マントで体を隠したエマがおずおずと近付く。
だが、グレンは振り返らずに、剣を鞘に納める。そんな彼の背中に、彼女は躊躇いがちに問いかけた。
「グレン様、どうしてここに……? 月巫女さまたちの捜索は?」
彼女の言葉に彼はようやく体ごと振り返る。眉間に皺を寄せて見つめた彼は、懐から封筒を取り出して言った。
「パチル殿が早馬で届けてくれた、この手紙を読んだからですよ」
それが自身の書いたものだと気付いた彼女の琥珀色の瞳が見開かれる。そんな彼女の反応に、グレンは眉尻をつり上げ言った。
「何故こんな目に合うとわかっていて黙る判断などしたんだ!? あなたが犠牲になってあの二人が喜ぶとでも!?」
「そんな、つもりじゃ……」
語気の強さに俯いたエマが、消え入りそうな声で否定を返す。彼女の反応に、ハッとした様子を見せた後、彼は視線を反らし、やるせない表情を浮かべて言った。
「私はそんなにも頼りなかったですか?」
語調を和らげ、静かに問われた言葉に、彼女はガバッと顔を上げて言った。
「違います! 私のことで手を煩わせている場合ではないと、そう判断しただけで、グレン様が頼りないとかそんなんじゃ……!」
「あれはルイスでさえ手こずった者たちですが、何か勝算があったのですか?」
「護身術がありましたし、何とかなるかと……」
「どうにかなりましたか?」
食いぎみに真顔で投げかけられた問いに、エマは口を閉ざす。マントの下に隠れている胸元を引き裂かれたドレスと、赤黒く染まったグレンの軍服。それらが答えだった。
視線を落とす彼女に彼は静かに続ける。
「お教えした際に何度も伝えたはずです。護身術は相手を戦い倒すためのものではなく、隙を作り、逃げることを前提としたものだと。お忘れでしたか?」
彼の言葉に、エマは唇を噛みしめ、マントをギュッと握りしめると、泣き出しそうな顔でポツリと言った。
「申し訳、ありません……」
意気消沈した様子の彼女へ、グレンが手を伸ばせば、緊張した様子でエマの体が強張る。ギュッと目を瞑る様を痛ましげに見つめたあと、彼はそっと彼女の体を抱き寄せた。
「間に合ってよかった……。本当に……」
彼の抱擁に、彼女は目を白黒させる。強ばりが抜けた華奢な体をギュッと抱きしめ、彼は続けて言った。
「無茶はしないでくれと、そう言ったでしょう」
「ごめんなさ……っ……」
謝罪の言葉をみなまで言う前に、彼女の声が途切れ、目尻から涙が溢れる。緊張がとけ、止まらなくなった涙は、彼女が掴むグレンの軍服に吸い込まれていく。体を震わせ、小さな嗚咽を洩らす彼女に、彼は言った。
「一人でも諦めずに居てくれて、ありがとう……」
彼のその一言が呼び水になったのか、しゃくりを上げながら、エマは泣きじゃくる。それに対し、グレンは安堵の笑みを浮かべ、彼女が落ち着くまでの間、その小さな背を優しく撫でたのだった。




