【映画視聴感想】耳が聞こえなくてもがんばる! という"聞こえる人"側からのバイアス【咲む】
聞こえない側の世界に触れた衝撃。これもひとつのギャップ萌えと言うのかもしれない。
ふとした縁があり、わたしは数日前に『咲む』という映画作品を視聴した。こう書いて『えむ』と呼びます。使用法は『笑む』といっしょですが、たとえば以下のような意味でも用いられるようです。
・花が咲き始める
・果実が熟して裂け開く
いちおう意味を確認しようとGoogle検索に掛けたら『ドMってどいういうことですか?』とか『Mな男の心理は?』とか出てきて草生えたわ。まあ閑話休題としてっと……。
『咲む』はろう者、いわゆる『耳が不自由な人』を題材にした作品です。そのほか、様々な障害を抱えた方が出演し、それぞれの個性が作品のなかで披露されます。仕事を探して超がつくど田舎な限界集落『久仁木村』を訪れた看護師資格をもつ主人公平子 瑞月は、村が抱える様々な問題を解決するため奮闘するという話。
瑞月はろう者(耳が聞こえない人)であり、久仁木村では叔母の家で寝泊まりすることになります。しかし、叔母の『平子 八重』は瑞月に冷たくあたり、瑞月の両親とも交流を断っています。なぜそのような関係になってしまったのか? ――ろう者ならではの問題がそこにあります。
この作品は『全日本ろうあ連盟創立70周年記念映画』と銘打っており、監督は自身もろう者であり、ろう者のオリンピックである『デフリンピック』に日本代表として出場した経験もある『早瀬 憲太郎』氏。自身の著書を映像化したものです。彼は2008年にも『ゆずり葉-君もまた次のきみへ-』でも脚本、監督をつとめました。今回はそんな『ろう者の、ろう者による、ろう者のための映像作品』について書いていこうと思います。
注:ネタバレを多分に含みます。イヤって方は見ちゃダメだよ♡
視聴を終えた後、わたしが感じたものを率直に書けば『わたしがコレ以前に見てきた"障害に関する番組"は、しょせん障害を乗り越えてガンバレ! というテーマでしかなかったんだな』ということです。感動ポルノとまでは言いませんが、そう主張する層の気持ちがわからんでもない気がしました。
もちろん、咲むの中にはそういったテーマもちらほら見かけられます。序盤にあった各種面接官との会話内容、村人たちと初対面時のやりとり、個人的に気になったのは、言葉でなく書いてコミュニケーションをとる『筆談』中の演出です。瑞月は面接官を見ているのに対し、面接官は書く人ばかり見ていました。なるほど、ろう者はそういうところを見てるのかぁなんてちょっとした感動を覚えましたね。
これらの問題、しかしそれは『ろう者ならではの"壁"』を表現している印象で、決して『障害者はこんなツラい目に遭ってるんだ!!』的な印象付けではありませんでした。
序盤において、わたしは(あぁ、やっぱり障害者からしてもそういう気持ちは感じてるんだなぁ)と完全なバイアスのもとで視聴していました。そこまで感動的に、演出深く描いてるわけでもないのに、わたしの心は勝手に『障害を乗り越えてガンバる姿』というフィルター越しに見ていたわけです。違和感というか、監督がそういう視点で作ってるわけじゃないと気づいたのは、恥ずかしながら瑞月が村に訪れたタイミングだったりします。
村では多種多様の障害(心遣いで"障がい"と書く場合もあるようですが、わたしは障害で書いていきます。害が字であって心ではないので)をもった人々が暮らしています。瑞月とおなじろう者であったり、糖尿病で視覚をほぼ失っていたり、骨形成不全症で電動車いすを用いていたり――いやぁいろんなタイプの人がいるなぁなんて思ったものですが、それは監督のコネ的なアレが広いおかげでしょう。
この作品には、瑞月の叔母八重の幼なじみ『田辺 ウメ』というキャラクターが登場します。第一印象は『よくいる"障害者に気を使うタイプの人"かな?』なんて思ったりしたのですが、あれはアレやな、本人の性分的な設定なのでしょう。彼女はたびたび『オリジナル手話』を瑞月に披露していますが、わりと通じてるのが個人的にツボにハマりました。わたしは指文字くらいしか知りませんが、ジェスチャーで通じるならまあ、やってみっかな? くらいには思いました。
で、彼女と瑞月の会話、村で瑞月が奮闘する描写などを見て、徐々にわたしの心には『もしかして、瑞月は"前"へ進もうとしているだけなのか?』という気持ちがチラリと覗き始めます。障害がテーマじゃなく、あくまで『限界集落の村おこしに奮闘する主人公とその仲間たち』的なストーリー展開だったので、ああそういうことか……わたしは勝手に『障害者ガンバレ!』的な話と勘違いしてたのかと、やっとのことで自身のバイアスを解き放つことができたわけです。おそすぎだわぁ……いっつも認知バイアスとか心理学の話書いてるクセにこのタイミングはおそすぎだわぁ。
とはいえ、やはりこの壁は障害者にのしかかります。偏見や差別的な視線ではありませんが、村人ははじめとまどいの中彼女を迎え入れ、とくに『猪口 重孝』は彼自身の性格から、なかなか瑞月に心を開こうとはしません。が、瑞月はけっこーハッスルというかしつこいというか懲りないというか(ぜんぶ褒め言葉です)、村人のため看護師としての知識を動員し健康相談に乗ったり、彼に処方された薬を飲むよう促したりと彼に寄り添っていきます。そういった心が通じていく過程がおもしろくて、どんどん瑞月に洗の――彼女の魅力に取り憑かれていく村人たちにとってもほのぼのしました。
さて、感動を押し付けるタイプの話はありませんが、きちんと『障害者に対するいろんな壁』に関する話は出てきます。以前ムリして骨折してしまった骨形成不全症の娘『加古川 リュウ子』を外に出したくない『加古川 敏江』の親子関係などが突出していますが、この作品のメインテーマというか、大きく取り上げられたのは主人公瑞月と祖母の八重、そして『平子 充・愁子』夫妻の関係性ですね。八重の息子充は生まれつきのろう者であり、八重は充をとても大事に育てていました――大事すぎが故に、今の確執へ発展してしまったと言っても良いでしょう。やがてろう者である愁子と結婚し、瑞月を妊娠します。
その子どもがろう者であるかもしれない。ろう者を育てる苦労を知ってる八重は、忍びないと思いつつも堕ろすことを勧めたわけです。
そりゃあ仲悪くなるわけだわ。八重の言葉にショックを受け、愁子は危うく流産しそうになりつつも、瑞月はこの世界に生まれ落ちることができました。
「だれも悪くない」――だれが口にしたセリフか、この言葉はけっこー胸に刺さりましたね。わたしは健常者の立場なのであまり説得力が無いかもしれませんが、ろう者だから必ず不幸になるわけじゃないじゃん。ただ耳が聞こえないだけ、それは生きる上で難しい壁ではあるけど、幸せを感じることに条件なんてあるわきゃないんですから。
「守ってくれてありがとう」
だれかが表現した"言葉"です。そして、その返事であるかのように、この作品を象徴するような言葉があります。
「生まれてきてくれてありがとう」
本当の意味で『生まれてほしくない命』なんてあるでしょうか? ――八重は確かに堕ろすことを勧めました。しかし、それはほんとうに『生まれてほしくない』を望んだのでしょうか? この作品は、障害とか関係なく『命』や『活きる』をテーマにした偉大な作品のようにも感じられます。生きるじゃなくて活きるのほうね。なんていうか、あるキャラクターが瑞月に「障害をどうやって乗り越えた?」という質問をしたんですが、瑞月はおだやかな表情でこう答えたんです。
「乗り越えてない。ただ、前に歩きつづける」
これ書くと障害者の気持ちを理解してない! とか受け止められそうだけど、障害なんて乗り越えられるわきゃないじゃねーかと思います。いや、障害者に厳しいとか健常者目線でしかないとかそういうアレじゃなくて……えっと、たとえば『メジャーリーガーになる!』的な夢(壁)を想像したらわかるでしょうか。50超えたじいさんがなれるかつったらムリでしょ? 障害を乗り越えるって言葉面はキレイですけど、どうやったら乗り越えたことになるんだってう話よ。
伝われ(必死)。
わたしは健常者ですが、映画の中で健常者をろう者の気分にさせてくれる演出がありました。音が徐々に消えていって、瑞月の心情や景色を表す映像と共に、様々な人の『口パク』が映っていたのです。
なーんにも聞き取れんがな(健常者並の感想)。
わりとこわいね、コレ。不安になるわ。ただ、村の人たちが『喜んでいる』ってのは表情でわかるの。こんな新鮮な気持ちで映画を見たのははじめてかもしれません。とはいえ、四六時中耳が聞こえないとなると、どこかタイクツになりそーだなぁとは思います。会話を楽しめないってのもあるし、手話は全国共通語じゃないからね、習得者としか話せない、つまり会話可能者が限定される。これは個人的に見つけた『壁』だと思った。ついでに、ろう者が人の表情を読み解く能力に秀でる理由がすごーくわかりました。瑞月とかそういう描写多かったからね。
最後は村おこしに成功し、なんやかんや希望のある終わり方をしますが、最後に『咲む』を視聴してた中で気づいたというか、覚えた感覚を思い出しました。
障害者と健常者のカップルって少ないんだなぁと。平子夫妻は互いにろう者で、生まれつき障害をもった人とそうでない人の夫婦関係が作品中になかったような気がする。まあわたしの記憶違いかもしれんし、今回はたまたまそういうテーマじゃないだけかもしんないけどね。
とはいえ、データ的な部分が気になるなぁ……こんど調べてみようか。
この映像作品と出会ったことで、わたしがこれまで見てきたアレコレは、すべて『健常者の立場から描いた障害者』でしかないんだと気付かされた気がします。障害者には障害者ならではの世界があり、課題があり、壁がある。わたしたちはそれらをただ『障害者ガンバレ!』的な言葉でひとまとめにしすぎたのかもしれません。それに気づいた、あるいはそう思えるようになっただけでも進歩なのでしょうか。
ろう者とのコミュニケーションを切り開く手話、わたしも身近にろう者がいたら必死こいて勉強するかもしれません。アナタの身近にろう者はいますか? なんらかの障害をもった方はいますか? ――試しに、その人と曇りなき眼で会話してみましょう。もしかしたら、アナタがしらない障害者ならではの視点がうかがえるかもしれません。アナタの視界を開くという意味でも、ぜひ『咲む』を視聴してみてはいかがでしょうか?
すべての人に幸あれ。
障害者は障害があるぶん、その領域を別の能力に使えるという強みもあります。だから、他人の気持ちに敏感だったりするんだよ?




