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7 拒絶

 夏の夜っていうのは、蛙の鳴き声にイライラしながら過ごすものだ。たいてい、家の中で。時々外で。蛍を見るついでに、蛙のしゃがれたワイルドチックな声を、聞いている。はずだった。

なのに、今はあのうるさい声が聞こえない。なければないで、少しだけ寂しいものだと気づいたときには、もう辺りは真っ暗だった。

 千夏の怒りを身に受けて、俺は仰向けで一人、歩道橋を占拠していた。数時間は経っているというのに、この場所には誰も来ない。おかげで俺も、ここを動く理由がない。俺のように捨てられた歩道橋。可哀想に。

 千夏はまだ怒っているだろうか。怒っているだろうな。女性らしく、理想を高く掲げて行動する演技もののくせに、今日はいつもよりも素を出しすぎていた。そんなに、俺が他の人間と関わっているのが気に入らないのか。それとも、奈緒がいけないのか。分からない。

 俺はいつ、帰ればいいのだろう。

 いや、本当に帰っていいのだろうか。

「……このまま、凍死してしまえばいいのに」

 そうすれば、こんな面倒なことを考えなくてすむ。俺の家は何処だろう、帰ってどうすればいいのだろう、千夏のご機嫌取りの生活をまだ続けるのか、なんて難しいことを延々と、それこそ地球のように回り続ける必要はなくなる。

 だけど、世界ってのは本当に無常だ。

 俺の顔を濡らす雪は、しかし夜ですら人を熱中症で倒れさせると不評の暑さに溶けて、冷たさだけを残していく。地面に積もったものはほとんど溶けないくせに不思議なものだ。

 このままここで眠っても、誰も俺を見つけてはくれないだろうな。だけど、だからと言って次の日にこの世と別れを告げることもなく、ただただ、背中だけがひんやりとしているだけだろう。雪と蒸し暑いこの空気は、むしろ相殺して心地よいくらいかもしれない。

「奈緒」

 ふと、どうしてもあの天真爛漫で人を振り回す女を思い浮かべた。あいつの唐突な訪れのせいで、俺はこんなにも面倒な状況に追い込まれているというのに、どうしてか恨もうと思えない。むしろ、奈緒は関係なくすら思える。一体、何だっていうんだ。全部、あいつのせいなのに。

 本当は、あのまま千夏の機嫌を保ったまま帰って、またいつもの日常に戻るはずだったのに。どうして、俺は歩道橋で寝そべって夏の大三角形を見つめているのだろう。どうして、これでもいいかとわずかでも思ってしまうのだろう。

 本当に、不思議だ。

 俺は、今の気持ちに見当がつかない。これに名前をつけたら、一体どんな言葉がつくのか。人間って、どこまでも面倒なんだな。

「なあ、俺はどうしたら良かったんだ?」

「分からないよ。私にだって、分からない。でも、私が現れたことで、君をこんな目に遭わせているのは分かる。……ごめんね」

 神出鬼没の彼女の声が何処からか聞こえたって、驚かない。そろそろ慣れてきた。彼女はいつだって唐突で、突拍子もない。

「そうか。いいんだ。俺は、いつもこんな目に合ってる。慣れたもんだ」

「慣れたからって、それが心に響かないわけじゃないでしょ?君は、それが原因で閉じこもっちゃっているんだ。私はそれを知っているのに、むしろ悪い展開を引き寄せてしまった。こればっかりは、参ったなあ」

 いつの間にか、星々が煌めく夜空に奈緒の顔が映り込んだ。近くに体温を感じて、俺は数時間ぶりに起き上がる。いつも笑顔を絶やさない奈緒が、眉をギュッと寄せて涙目だった。よほど俺がされたことと、千夏に脅されたことが響いているのか。

「君は、どうしてこんなことになっているんだろうね」

「さあな」

「寒空の下、一人で誰にも見つけられずに、どうして」

「全然寒くないぞ。夏だぞ」

「そこは突っ込まないでほしいな。私だってしんみりする時くらいあるんだから。そんな時くらい、茶々を入れちゃダメ」

「じゃあボケるなよ」

 俺はため息をついて、奈緒を見つめた。俯いて、ワントーン沈んだ声で、ぼそぼそと呟く様は、病気にでもなったのかと疑うくらいだ。いつもの元気な奈緒は、一体どこへ。

「私、無神経だったかも」

「今更気付いたのか」

「こうなること、ちょっとは予想できたのに。あの女の人に、どんなことをされてしまうのかとか、空っぽな君の心に傷しかつけないこと、分かっていたはずなのに」

「無視か」

「君が傷ついているのに、私は自分可愛さに逃げてしまった」

 滔々と語る彼女は懺悔をしているようだった。どうして俺の諸事情を知っている口ぶりなのか、気になっていたはずなのに、俺はどうでもよくなってしまった。

だって。

「恋人のプロの君と私では違う。そんなの、当たり前なのに。あの時、君に任せていれば良かった。だのに」

 奈緒は、泣いていた。

 そのきめ細やかな肌に、煌めく雫が流れ落ちる。いつもはあんなに煩い彼女は、静かに泣いていた。

 俺は無意識にその涙を拭ってやると、奈緒はそれを合図に涙腺を決壊させた。だくだくと滝のように涙を流し、やがて嗚咽を漏らし始めた彼女を見て、ああ、これこそ奈緒だと妙な納得を得てしまう。涙するにも騒がしい。俺よりもずっと明るい人間の涙は、面白い。

 不思議だ。普通なら、この状況に涙するのは俺のはずなのに。目の前で、誰かが俺のために泣いてくれている。

「きっと、あの人は嫉妬したんだろうな。私を見て、ただそれだけで。恋って、分かんないや。私には、難しいよ」

 俺はそう言われた瞬間、多分、人生の中で一番意味が分からない行動をした。

 奈緒の手を引き寄せて、口づけたのだ。

 普段千夏と演技でしているよりも、ずっと甘酸っぱい、触れるだけのキス。奈緒は俺の顔をまじまじと見て、涙を流すのを止めた。

「こい、ね」

 何だか、気恥ずかしくなった俺はそう呟いて、今自分がしてしまったことを拭うようにそう呟く。

 恋。これは果たして、恋なんだろうか。俺も、千夏も、利益や損得を手前にぶら下げて、今の生活を続けている気がした。そんな恋、誰にだって難しいはずだ。分かるわけがない。

「俺にだって分かってない。どうして、千夏とこんな関係を続けているのか」

「……そっか、そうだよね。何かを続けることに、意味が分かることばかりじゃない、のかも。生きることに意味がつけられないのと同じように」

 奈緒は唇をゆっくりと触り、まるでさっきのキスの感触を確かめているようだった。生きる意味。確かに、それは誰にだって分からない。意味がつけられない。こんな奈緒でも、生きることは分からないというのか。

「だから君がどうして、私にキスをしたのかは尋ねないでおくよ」

「……そうか、それは助かる。ちょっと俺にも分からないんだ」

「うん。……うん」

 奈緒は頷くと、立ち上がってそのまま何も言わずに立ち去ろうとした。俺は何処に行くんだ、と手を引っ張る。しかし、そこで初めて奈緒から拒絶された。手を振り払われたのだ。

 俺は驚いてそのまま手を潔く引いた。なぜだかそれでもやもやして、少しだけショックを受けている自分が居る。どうしてだ。いつもの俺なら、むしろスキンシップは嫌なはずなのに。

「あ……、ごめん。そう言うわけじゃないの。その、今からここに人が来るから。私、そろそろ行くね」

 俺の顔を一度も見ずにそのまま走り去った奈緒の後ろ姿は、少しだけ悲しそうだった。もしかして、キスをしたのがまずかったのか。いつもはあっちからスキンシップを取ろうとしてくるくせに、どうして。いや、それこそどうして俺は、キスをしたのか。どうして手を引っ張ったのか。

 悶々と考えているうちに、確かに歩道橋の階段を誰かが上る音がして、俺は顔を上げた。やがて目の前に現れたのは、あの執事だった。

 執事は俺に一礼すると、手袋をした手を差し出した。眉を寄せて、少しだけ俺を憐れんだ表情に、どうしようもなく苛立ちが募る。

「澪様、お迎えに上がりました」

「千夏は、なんて」

「……しばらくは、顔を見せないほうがよろしいでしょう。……その、家の状態もあまりよくなく」

 つまり久しぶりに家の物を破壊して回ったという事か。あの女、本当に面倒なことに嫌な事があると破壊衝動を起こして家を滅茶苦茶にする。半年に一回くらいだ。だいたいの原因は、俺か、執事か、または仕事か。今回は俺だったということだ。それでも執事が迎えに来たのは、家に居ると危険が及ぶことと、いざという時俺が居ないと、またあいつの沸点が急上昇するからだろう。思えばこの執事とも物心がついた時からの付き合いで、行動理由も手に取るようにわかる。

「帰ればいいんだろ」

「はい、そうして頂けるととても助かります」

 俺は執事の手を使わずに立ち上がり、彼を置いてさっさと歩道橋を下りることにした。今からここに人が来るから。奈緒の言っていたことは執事の事か。なぜそれを知っていたのか。俺は一瞬だけそんな疑問を過らせたけど、結局考えるのをやめた。もう、なんでもいいや。


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