6 邂逅
電車で三十分のショッピングモールに着いてからは、俺の力の見せどころだ。駅から徒歩五分だというのに、真夏の蒸し暑い日射しを少しでも遮るため、日傘をさして二人で相合傘をしてカップルを演出。もちろん電車に乗っている間は比較的混まない車両を選び、恋人つなぎで座り、混んできたら千夏を守るように俺だけつり革につかまって見つめ合うというのをこなした。
本番はもちろんここから。
服を見たいと言っていたから、千夏を先導し彼女の好みの服屋へ入る。千夏が視線を寄こした服をさりげなく手に取り、見計らって試着を進め、彼女のご機嫌取り。似合う服を見繕うまで何度か繰り返し、千夏に財布を出させない。大きなショッピングモールでは歩き疲れてしまうから、三ヵ所回ったら近くのカフェで一息をつき、彼女お好みのレアチーズケーキを進んで注文。俺はブラックコーヒーを静かに飲む。
「澪はブラックをよく飲むのね。私には苦くて飲めないわ。大人ね」
「……甘いコーヒーが好きってのは、女性らしくてかわいいと思うよ」
「まあ嬉しい」
実際にブラックは飲めるかどうかと言われれば、よく分からない。仕事だからと割り切っていつも飲んでいる。つまりは、千夏のお好みの彼氏はブラックコーヒーを好んで飲むのが理想なのだ。味が分からない俺には、それは好都合なのかもしれない。
千夏はレアチーズケーキを美味しそうに頬張り、目をつむっている。果たしてこれは演技なのかそれとも本心か。俺もだけど、千夏も“今”を演じて理想を作り上げる可笑しな奴だ。好き嫌いも、もしかしたら理想だから、という理由だけで、本当のところはどうか分からない。……まあ、こいつの趣味嗜好なんて興味がないのだから、気にするだけ無駄だ。
「雪、また降って来たのね」
千夏は窓の外を見て、物憂げにため息をついた。ついこないだは素敵だなんだとうっとりした顔で俺にあらゆる負担をかけてきたくせに、今ではそれが少しだけ嫌そうだ。珍しい。
「……サマーホワイトだろ?ロマンチックでいいじゃないか」
「ええ、とっても。私個人の感性では、とても面白くて、いつまでも降っていてほしいくらい。でもね、雪が降り始めて随分と経った。この暑さの中、溶けないしぶとさを見せる雪は、未だに降り続けて、ちょっと、問題を起こし始めているのよ」
俺は人生のほとんどを千夏と過ごしていると言っていい。幼い頃から、共に過ごし、健全な頃は遊び、いつしか立場は変わり、こんな歪なものになり果てた。千夏の演技と過剰な理想への求心など、変わりすぎた環境でも、こんなに嫌いでも、俺はそれなりに千夏と共にいるからどうしても彼女の仕草などの意味は分かってしまう。いつもは病んでいるのかと思ってしまうような言動と行動をする彼女は今、珍しく真剣な声音で俺に話をしていた。つまり、彼女の仕事の話だ。どうした。雪でも降るんじゃないか。いや、降っていたか。ならば槍か。
俺の前では滅多に仕事の話をしたがらないくせに、千夏はそれに気づかずにぽつぽつと聞こえるか聞こえないかという曖昧な声の大きさで呟く。それはきっと、俺に聞かせるために声に出したわけじゃないのだろう。
「ただの雪じゃないおかげで、客足も……。いいえ、仕入れだって」
ぶつぶつぶつぶつ。一欠けらのレアチーズケーキを前に、千夏は呟き続ける。黙って俺が訳も分からずに聞いていると、そのうち外で子供がきゃっきゃっと駆けていく。店内でも聞こえるくらいの大きな声に、ようやく千夏も意識を戻し、ごめん、と呟いた。
「貴方にこんな事、話したって何の意味もないでしょうに。……何も、分かるはずがないわ」
最後の小さな言葉に俺は、彼女に気付かれないようにこっそりと上目遣いで様子を伺う。演技に戻ったのか、その顔は微笑を張り付けて残りのケーキを頬張っていた。俺はどうしようもなく、残りのコーヒーを飲み干すと、仕事に戻る。
ああ、どうせ分からないさ。もう、関係がないのだから。
カフェを出ると、雪は更に強くなり、ショッピングモールを歩く人々は傘をさすほどだった。焼けつくような日照りがあるからいいものの、いつまでもしんしんと降られては風邪をひきそうだ。俺は日傘を再び開き、なるべく千夏が濡れないように中に入れてやる。俺なんて、肩どころか身体半分しか入っていないけれど、いいんだ。これで千夏に風邪を引かれて、後から来る最悪の展開を防げるなら、軽いものだ。
しかし、そう思っていたのも束の間だった。いっそ、風邪をひかせた方がマシな展開になっていたのではと思うほどの未来が、このすぐ後に待っていた。
肌寒くなってしまうし、服も買えたし、そろそろ帰ろうかと駅に向かって歩き出した俺は、右手に買い物袋、左手に傘、と大荷物。隣で優雅に歩く千夏は何でもないように雪を掌に乗せて楽しそうにしている。全く、いいご身分だ。
何だかんだと言いながら雪を楽しんでいる様子の千夏は思った以上にあっちこっちとフラフラしているものだから、結局駅に向かわずに近くの歩道橋を登ってしばらく雪景色を楽しむことにした。重い荷物ではなくて助かった。
そんな時だ。
「澪くんって、召使だったの?」
しばらくぼーっと、無言で、尚且つ千夏の様子を伺ないながら下で音を立てて走る車を眺めていたら、後ろからそんな声がして、俺は慌てて振り返った。今月最大の素早さを披露した俺は、その後、思い当たる声の主の顔を見て青ざめる。隣で千夏も同様に振り返り、目の前に佇む女を訝し気に見ていた。
「だれ?」
千夏の声が、俺の身体を突き刺す。冷や汗が止まらない。別に、何もしていない。雪の降る日に、狙ったかのように表れる奈緒は、いつも通り、俺の前に現れただけだ。少し、知り合っただけ。だというのに、俺の冷や汗は止まらない。やましいことなんて、何もないというのに。
「……初めまして。私は、奈緒。澪くんとは、ええと。うう~ん、遊び仲間?」
小首をかしげて可愛らしく言う奈緒は、どうも、と千夏に握手を求めていた。Tシャツに短パン、サンダルというラフすぎる格好だというのに、相変わらず奈緒は、美しく見えた。いや、この状況で何を考えている。まず、俺から千夏に説明を。
「こないだ知り合ったんだ。……ちょっと変わったやつでさ」
「そう。…………そう。私の、知らない、あいだに」
「あ、ああ。いつか千夏に紹介しようと思ってたさ。ほら、同年代だし、話も合うんじゃないかって」
はは、ははは……。乾いた笑いが歩道橋に響き渡る。俺たち以外、誰も居ないこの歩道橋は酷く寒く思えた。雪は相変わらず止まない。傘を持つ手は、震えて収まらない。理屈じゃない、これは本能だ。俺の頭の中で、危険信号が鳴っている。ビーッ、ビーッと赤いランプがぐるぐるする。
「あくしゅ、してくれないの?」
「……ふふ。まさか」
千夏は一瞬だけ穏やかに笑うと、俺に身体を向けて。スッと目を細めたと思ったら。
そのまま俺を殴った。
鈍い音と共に、俺はいつかの時のように尻餅をついて、雪のじゅうたんに迎え入れられる。服を入れた袋も、傘もあらぬ方向へと飛び散るほど、勢いが強くて、俺の頬はひりひりする。
「ちょっと、なになに!?いきなり何してるの!」
奈緒の悲鳴に近い声は、千夏の神経を更に逆なでさせたらしい。顔だけを彼女に向けた千夏は、あの天真爛漫、破天荒を極めた奈緒でさえ怯えさせた。彼女は俺の襟をつかんで思うがままに歩道橋の柵にぶつける。頭を強打して、視界がくらくらする。女とは思えない力は、俺にそのまま、心までをも締め付けた。
「女と黙って会ってたわけ。私が知らない間に、こそこそと」
「ちが」
「違くない!!!」
世間の女が嫌がるようなことをしていたわけじゃない。浮気じゃない。そもそも、俺たちは偽の恋人じゃないか。奈緒は、違うんだ。本当に、本当に。
だけど、そんな言葉は生まれた瞬間、すぐに霧散する。雪に浄化されたのかと思うほど、口は動いてくれない。演技をして生きているというのに、自分の心は空っぽだというのに、奈緒が見ているだけで、何も言葉が出てこない。こんな情けない姿を見られたんじゃあ、今後恥ずかしくて会えない。いや、だな。
あれ。俺、何でこんなこと考えてるんだろう。
「あの、なんか邪魔した、みたいで……ごめんなさい」
「私の前から消えて」
「え?」
「消えて」
どすの利いた声で命令した千夏は奈緒が慌ててその場を去っていくのを目もくれずにスマホを取り出す。やがて鳴り響くコール音と底冷えする千夏の声。
「ああ、釘原?迎えに来て、今すぐ」
あの執事を呼んだのか。俺は立ち上がり、頬をさする。迎えに来るまでに、少しでも千夏の機嫌を取らないと、今後の俺はどうなるか分からない。俺は恐怖心を抑え込んで千夏に近づく。
「千夏、ごめ」
ん、と言いかけて俺は彼女に足を引っかけられ、派手に転ぶ。ロングのスカートが俺の前で揺れていた。顔をあげると、千夏はごみでも見るかのように唾を吐きだした。
「他の女に走るなんて、きもちわるい」
ただ、それだけを呟くと、俺を置いて歩道橋を下りて行った。傘も、服にすら目もくれずにカツカツと。俺はやがて夜が来るまで、ずっと這いつくばったままだった。




