5 色彩
真っ白な画用紙があるとする。それはきっと、誰かの人生で、生まれた時から、今に至るまで、様々な影響を受けて彩りを得ていく。周囲の環境だとか、人間関係だとか、家族だとか。思い出、好きなもの、苦手なもの、辛い過去、楽しい未来。自分の心。たとえば、そんなものが、色に変わって、画用紙はきっと、見事な風景を描くだろう。
人によっては、メタリックなイラスト、優しい水彩画、重厚な油絵、子供の落書きなんて、面白いものを見せてくれる。
ならば、俺の画用紙には何が描かれているだろう。そんなことを自分はしょっちゅう考える。俺の人生は七年前で止まり、そこからは何も動いていない。ただただ、無常に時間だけが流れ、俺の身体は辛うじて流れに乗れたのに、心は置いてけぼりをくらっている。それまで人並みに明るい色で配色されたイラストは、ぴたりと動きを止め、やがて黒から灰へ、そしてこの数年で俺の心に呼応するように白に戻った。生まれたばかりの赤子のように、俺は空っぽになってしまった。
「澪、お出かけしましょう」
奈緒と雪合戦してから、数日後、久しぶりに千夏の休みがやって来た。つまり俺の出勤時間で、さて今日はどんな仕事が待ち受けているのかと待っていたら、彼女はそんなことを言ってきた。昼飯を食べ、満足した彼女は、少しだけ眠たげだが、あえて触れない。
「いいよ。何処に行くんだ?」
「ちょっと電車に乗ってショッピングモールまで。たまにはゆっくり服でも見たくて」
「ああ、あそこか。分かった」
俺は頷くと、リビングで上機嫌に鼻歌をうたっている千夏を横目に、また後で、と部屋を出る。向かうは、ほぼ物置と化した自分の部屋。俺の画用紙と同じ、白で染められた無機質な箱庭。
「澪様、千夏様は本日なんと?」
「……ああ、出かけるんだと。服を見たいらしい」
廊下を少しだけ早足で歩いていると、執事が待ち伏せていたのか俺の前に立ちはだかり、そんな質問を投げかける。家に居るのか、外に出るのか。それだけでこの家の今日の動きは大きく変わる。両親が共働きな上に滅多に家に帰らないものだから、この家では千夏が絶対的な存在だ。誰もかれもが、御伽話のように女王様にかしずいてご機嫌取りをする。あほか。ここは日本で現代だぞ。
「左様ですか。それでは支度のお手伝いをさせて頂きましょう」
「いや、いい。それより千夏を手伝ってやってくれ。……女の準備は、手がかかるものだろう?」
俺が口角を釣り上げて、無理やり笑うと、執事は畏まりました、と少しだけ怯えた様子ですごすごと後ろに下がり、リビングへと向かった。その様子が少しだけ寂し気だったのは気になるが、安心感が勝ってすぐに忘れてしまった。ざまあみろ、あの女王様にびくびくしながら仕事をこなせばいい。俺を手伝う方が楽だと、目に見えて分かる逃げをしようなんて、お見通しだ。お前たちはこれから千夏が帰ってくるまで、自由な時間が得られるのだから、これくらい味わってもらわなければやってられない。
例えば俺の画用紙に少しだけ色がつくとしたら、それは千夏と関わっている時だろう。恐怖の青、怒りの赤、嫌いな橙色。その三色が、ぱっと華やいで、やがて俺が一人の時間になると、消える。他の執事達だって、千夏に対してはそんな色を出すに違いない。何より、千夏と居ると橙色がぐるぐると俺たちの周りを観察している気がしてならない。あの女はミカンのように 鮮やかな橙色が良く似合う人間だった。
「着替えなきゃ、な」
俺は一言呟くと、自分の部屋だというのに物の位置が全く分かっていない現状を再確認してため息をつく。執事達がいじくり回すうえに、ベッドもテレビもない、ただの物置は久々の主を出迎えても、全く歓迎はしてくれない。綺麗に整頓されているからこそ、どうしていいか分からなかった。クローゼットを開けて、適当に服を身繕い、鏡で髪をセットしておしゃれをするというのが、あまりにも億劫だ。
「半袖着なきゃダメだよな」
普段はワイシャツの長袖、黒のパンツ、なんて、夏でも冬でもほぼ決まったラフな格好で出歩いている俺だけれど、デートとなれば話は別だ。千夏の好みの服装を着て、隣を並んで歩かなければいけない。
これが恋する少年だったら、こんな準備も心から楽しめたのだろう。俺は機械的にクローゼットをまさぐると、薄紅の開襟Tシャツとアンクルパンツを取り出す。靴下は濃紺のものを選んだけど、靴でどうせ見えないんだからそこは気にしなくてもいいだろう。
全身鏡の前で着替え、隣に千夏を思い浮かべて、並んで違和感ないかチェック。まあ、こんなものだろう。ちなみに服に全く興味がない俺に、千夏のためにあれこれ教えてくれるのはここのメイドさんたちだ。アンクルパンツなんて聞いたことないし、そもそも意味はなに?と聞くと、アンクルはくるぶし、という意味らしい。全く、ここに縛られて身動きが取れないのは一緒だろうに、詳しくていらっしゃる。
俺はそのまま、千夏から貰った自分のイニシャルが刻まれたレジン製のネックレスをつけ、前髪を今時風に横に流し、少しだけ生まれ変わる。これで外に出ても千夏が怒ることはないだろう。俺はホッとして財布をポケットに入れると、玄関で千夏を待つ。
女は準備に時間がかかる。それが、勤続歴十何年も経つ執事が傍にいても、だ。何分待っても一向に姿を現すことはなく、俺はまた、思考の海を揺蕩うことになる。一人になるとどうしても癖でこうなってしまう。
だけど、俺が考える事なんていつでも暗くて、最終的に死にたい、だなんて出来やしないことばかりだ。画用紙は、白から灰色へとたまに変化する。
俺はふと、奈緒の事を思い出す。雪合戦をしてからというものの、外に出るたびに奈緒は何かと俺の目の前に現れ、尚且つ雪が降る中で無邪気にも遊びに誘う。毎度毎度体力を消耗していたらきりがなくて、俺は付き合いきれない、と呆れていたのだけど、それでも最終的には彼女に付き合うこととなった。かまくら、雪だるま、雪ウサギの大量生産、雪の上の昼寝。およそ夏とは思えない、寒々しい遊びは、快適に、確実に俺の身体に染みわたり、今ではすっかり奈緒の思うままだ。
そうだ、今の俺には唯一奈緒という彩りがある。白のようでいて、その実複雑怪奇な色がぐちゃぐちゃと、だけど美しく俺の画用紙に壮大に描かれている。消えかけてはまた描き直し、俺は一人の時間を奈緒と遊んだ想い出にふけるという行為に費やすことになっている。
「……今は何してるんだろう」
今日は一人で外を出る時間はない。ほぼ毎日のように現れては、俺を引っ掻き回す彼女は、今日、どうするのだろう。いつも唐突に表れては、帰っていく彼女は神出鬼没の極みで、どうしているのか全く想像がつかない。
俺の事を知っているようだけど、そういえばどうしてだろう。結局、なぜ千夏とのことを知っているのか教えてもらっていない。雪合戦もあれ以来していない。もう一度くらいなら、付き合ってやってもいいなと思う自分はどうかしてしまったのだろう。
「奈緒は、俺をどうしたいんだ」
玄関の横にかけられた小さな鏡を見る。映り込んだ自分の顔は、当然だけどいつもよりもめかしこんでいて、今時の男だ。なんせ千夏の好みだからな。だけど、奈緒ならどう思うだろう。今の俺を見て、反応を示してくれるだろうか。カッコいいとか、素敵とか、そんな言葉、出てくるだろうか。
「澪、お待たせ」
鏡を見つめてぐるぐると台風のように思考を巡らせていると、やがて背後で千夏が笑顔で立っていた。袖がふわふわと広がった真っ白なシャツにジーンズの生地のような薄い青のスカート。小さな濃紺のハンドバッグをショルダーで肩にかけて、多分、俺の服装とつり合いは取れているはずだ。良かった、間違っていない。髪はアップにしてメイクもいつもより気合を入れているのに、薄くて綺麗に整えられているということは、執事は大活躍したのだろう。彼女はメイクが濃いうえに苦手だった。
「鏡なんかじっと見つめて、どうしたの?」
「……いや、千夏と並んでも似合うか、見てたんだ。……大事だろ?」
「ええ、もちろん。大丈夫よ、素敵な澪。……でも、最近よく一人でぼーっとしてるから、またそれなのかと思ったわ。……何か、あるの?」
褒めてからちらりと見せる、黒い言葉。俺はぎょっとして千夏を見つめた。しまった、彼女の前でも出てしまっていたか。あまり多発させると機嫌を損なうのは必至だ。今後気をつけなければならない。……奈緒の事は、考えないようにしよう。どうせ、すぐに消える。ただの気まぐれに俺へ近づいただけに違いないのだから。
だから、何も考えるな。白に戻れ。何も知らない、ただの機械になるんだ。奈緒の反応を予想する哀れな男ではない。千夏の彼氏として、動くんだ。
何も知らない女の事を考えても無駄だろう。そう言い聞かせた俺は、千夏の彼氏として彼女をエスコートした。
デートは、始まる。




