4 合戦
明石澪の一日をドキュメンタリーとして放送することになれば、たちまち視聴者からつまらないと匙を投げられ、SNSでは批判の嵐を受け、制作会社は立ち直れないほどの傷を負ってしまうだろう。
それくらい、俺の一日はつまらない。
起床してからは雇用主であり恋人である千夏と朝食を共にし、彼女の出勤を見送る。
十三時までは外でボーっとする。
十三時から一時間、長い休憩を終えて偽りの仕事をこなし、長すぎる休憩時間に入る。この時間もボーっとするに限る。
彼女の帰宅時間である八時から、就寝まではまた理想の彼氏を演じつつ、そろそろ人生に終止符を打ちたいというのに、打てないもどかしさに絶望して一日が終わる。
どうだ、つまらないだろう?
これが俺でなければ、今日はこんな楽しいことがあった、悲しいことがあった、道端で犬を拾ったなどと一喜一憂して、それこそ視聴者の涙腺を崩壊させることだってできたかもしれない。しかし、俺だ。俺の一日なのだ。そんなこと、一生無理に決まっている。
淡々と、決められた型にはまっただけの日々を過ごす俺が、どうして面白く見えるだろう。皆、そんなドキュメンタリーは最初の数分で逃げ出すに違いない。
だからこそ、俺はいつもの如く、公園のベンチに座って、ぎらぎらと照り付ける太陽に見つからないようにただただ考え込んでいた。
無感情に、淡白に過ごす人間というのは、得てして考える時間が長いように思う。少なくとも、俺はそうだ。だって、人生に彩りがないからこそ、淡白になる。淡白っていう事は、楽しみの一つもないということで、それはつまり、否応なしにこの世から去ることを連想し、そこからあらゆる連想ゲームを始めるのだ。つまらない。世界とおさらば。どうやって。方法。実行できない。人間の臆病者め。俺が臆病者。今日も一日が終わる。エンドレス。
俺の人生の中で、今以上に彩りがないだろうと予想される状況で、唯一の彩りはこの白すぎる世界だろう。
紫外線を生産して信頼の実績を持つ太陽の光をかいくぐって、しんしんと降り続けていた雪は、今は止んでいる。しかし、夏雪なる現象が起こり始めて早一週間。雪は止んでも溶けることなく、不定期に振り続けていた。しかも、この暑さで溶けることはない。なんとも珍しいことだと町内のお偉いさんが観光客を呼び集め始めたのは三日前。順調に人はやって来るから、成功しているのだろう。何でもかんでも利用する人間の恐ろしい考えが垣間見れた瞬間だった。
「この雪も、結局は俺の人生の足しにはならなかった」
ベンチに僅かに積もっていた雪を手に取り、音を立てて食べる。やはり、味はしない。結局お前も俺に何もくれやしない。美味いも不味いもない。
「だ~か~ら~!それなら私があなたの人生に色々足してあげる!満たす!おりゃあ!」
いきなりぼすっと頭に冷たい何かが当たって、俺はそれを手に取る。直後、バサバサと上から白い塊が俺を襲う。ベンチの真上で揺らめく木々に積もった雪が落ちたのだと理解した頃には、俺の身体はすっかり白銀の世界の一コマになっていた。そうだ。俺の人生の中で、最も奇異で、例外的な事が一つだけあった。
つまり、奈緒だ。
顔をぶるぶると振るって、ひとまず頭に乗っかっていた雪だけでも振り払うと、快活な女が、それこそキスでも出来そうな距離でにんまりと笑って俺を見ていた。
俺はそれを見て、無気力選手権で優勝できそうな自分を奮い立たせ、頭突きをかました。ガンッと音が響き、奈緒が白のじゅうたんに尻餅をつくのと、俺の頭がずきずきと赤く腫れあがるのは同時だった。
「……石頭」
「そっちこそ!いきなり頭突きなんてひどい!」
「雪で人を埋める奴に言われたくないもんだ」
俺はここ一週間の中で一番の力を振り絞り、天然冷蔵庫から抜けることに成功した。一緒に埋もれてしまったベンチは助けることが出来なかった。大変無念だがベンチは向かい側にもある。俺はそこにお引越しすることにしよう。
「だってまた変な事考えて変な顔して変な事言うんだもの!」
「お前ほど変な奴に言われたくないな」
「ありがとう、とっても嬉しい!」
「褒めてない」
俺はため息をついて、約五日ぶりの奈緒の顔を見た。俺の傍にいると宣言した割には全く姿を見せず、まあ人間なんてそんなものだ、むしろ、それを易々と信じてそれもいいかもしれないと思ってしまったいつかの自分に嫌になっていたというのに。忘れた頃にやってくるものなのか、この女は。
次いで俺は、先ほど襲い掛かって来た雪の発生源を見るべく、振り向く。小さな雪玉一つでバサバサとその身を着飾った大切なものを落とすなんて何をしているんだ。おかげでこんなありさまだ。これが普通の冬場だったら激怒ものだ。今は涼しい程度で済むから良かったものの。
「……雪、また降り始めたのか」
思わず口から出てしまうのは仕方のないことかもしれない。かつて俺の頭上で太陽からの攻撃を守ってくれていた太い枝たちは、白の飾り物を落とした代わりに、上から新しいものを蓄えるべく真っ直ぐに伸びていた。ところどころに見える葉が、もうすぐ雪で覆い隠されるのかと思うと、少しだけ惨めだ。
「ホントだ。じゃあ、また澪くんを雪で埋められるね」
「残念だな。俺は雪で埋められてもお前の望む反応はしない。せいぜいつまらない行動を繰り返すんだな」
俺がそう返すと、奈緒はぽかん、と口を開けてしばし放心し、やがて何やら可笑しそうにくすくすと笑いだす。眩しく映える彼女にしては珍しく、それはおしとやかな笑い声で、それがなんだか、いつまでも耳の中で木霊する。千夏だって、似たような笑い方をするというのに。
「そうやって皮肉ばっかり。頭突きどうもありがとう!それでいいよ」
「なにがいいんだ。……全く、お前と居ると混乱する」
俺はやれやれと大袈裟に肩をすくめると、そのまま立ち去るべく、地面に新しい足跡をつけた。この足跡だって、数時間後には真っ新に消されているのだろう。落ちてくる雪はそれなりの大きさだし、もっと早いかもしれない。
空気は湿って蒸し暑く、日射しだって人を殺せる程度には厳しい。毎年それで何人もの人間が病院に運ばれることを考えれば、異常気象なれど、この町は恵まれているのかもしれない。少なくとも、熱中症で倒れる人は少なさそうだ。
「帰るの?」
だが、素直に帰してくれないのが奈緒である。俺の後ろでねえねえ、ねえねえとひょこひょこ左右を行ったり来たり。鬱陶しい。二回ほどしか会ったことがないというのに、そのしつこさは身を以って知っている。この女の粘着力は瞬間接着剤も泡を喰って逃げ出すレベルだ。
「帰るに決まってるだろ。俺は一人になれる場所がいいんだ。お前が居たら、静かに過ごせない」
「いつもそうしてるじゃん。折角私が居るんだから構ってよ、暇なの」
「俺は暇じゃない」
「一体どこが。しんどい仕事の休憩時間なんでしょ?次は二十時からなんだから、それまで構ってくれたっていいじゃん」
俺はハッとして立ち止まる。公園の出入り口で立ち止まっても、誰も通りかからないから、迷惑にはならない。ここは俺の縄張りになり果てた。だからこそ毎日通っているんだ。
いや。そうじゃない。
どうして、そのことを知っている?
振り返って、奈緒の顔をまじまじと見つめる。整った顔立ちに少しだけ見える幼さは、人の心に簡単に付け入るのだろう。そして、餌にされるというのか?
「どうして?って顔してる。ふふ、どうしてだろう」
奈緒は愉快だとでも言うようにくるくると、雪の上で器用に身体を踊らせた。ふさふさのポニーテールも一緒に踊る。
そして、俺の手を取ると、天使の笑顔で、悪魔のように言う。
「知りたかったら、遊んで。私に構って」
俺の空っぽの心が反応してしまう、千夏とのことを引き合いに出されては、流石に頷くしかなかった。結局、俺はどうしようもないこの現実に誰かが介入してくれるのを待っているし、同時に恐れている。
何をするんだと、恐らく俺とほぼ年齢が変わらないであろういい大人に聞くと、彼女は足もとに溜まった雪を目いっぱい手に取って丸め、俺に遠慮なく投げつける。先ほどよりもよほど力強くて大きいそれは、俺の腹を直撃して砕け散る。ええい、痛いじゃないか。
「雪合戦しよう。私ルールで!」
「……自己中」
「も~~だってルールないとつまんない。ルールその一、必ず両手に雪玉を持ってから投げること」
「めんどくさい」
「ルールその二、雪玉は一度に五つまでしか投げちゃダメ」
「そもそもそんなに持てるか?」
「いちいち煩い!ルールその三!…………私と遊ぶことを、心から楽しむこと」
奈緒はニカッと歯を見せると、頭に積もり始めた雪をぶるぶると首を振って落とし、そのまましゃがむ。せっせと雪玉製造マシーンに成り下がった彼女を、俺はただぼうっと見ているだけだった。だって、こんなことで体力を使いたくないんだ。彼女がどうやって知ったか分からないけど、俺には今夜、確かに仕事が残っている。気怠くて面倒な、あの女の彼氏としての仕事が。
だったらこいつに構いつつ、体力を極限まで使わずに過ごすしかない。
やがて雪玉を作った奈緒は、両手に二つずつ持ち、ニヤリと戦闘モードに。俺はため息をついて黙って見ていると彼女はうぉりゃっ、と変な気合の声を出して投げてきた。結局お前も五つも投げられないじゃないか。
バサバサッと連続して音が響き、俺の身体は再び冷たくなる。しかし、それも太陽からの絶妙なコンビネーションで中和された。俺は無感動に投げてきた奈緒を見つめると、彼女はふくれっ面をしていた。
「なんでそんなに反応してくれないの!」
「むしろ俺に反応を求めるほうが間違ってる」
「も~~~~!……あ、分かった。あんまり体力使わないようにしてるでしょ。夜のために?謙虚だなあ」
奈緒は不満そうに言うと、更に雪玉を作り始めた。それからしばらく、投げることもなく大量にストックを生産し始める。雪玉生産工場、というべきか。奈緒はよく分からない鼻歌をうたって、俺がこんな態度を取っているのに、それでも上機嫌だった。よく分からないヤツ。
「なあ、座ってもいいか」
「ダメに決まってるでしょ。雪合戦って言ったじゃん」
「しかし俺は雪合戦する気はない」
「動かない的なんてつまらないよ。それに、私がなんで君の事知ってるか、知りたいんじゃなかったの?」
「……そりゃ、どうして知っているのか、気にはなる。でも優先順位は、これから起こる夜の仕事だ。俺の好奇心なんて、猫の餌にでもすればいい」
「不味そうな餌。私ならいらない」
この揚げ足取りめ。俺は何も答えず、向かい側のベンチに座った。目の前にはこんもりと雪に襲われた同士のベンチが寂しそうに佇んでいる。
俺はふと、この小さな公園内を見渡した。
寂れたジャングルジム、シーソー、今にも鎖が落ちそうなブランコ。何度も滑った滑り台。今や誰も使うことのない、可哀想な公園。まるで俺のようだ。
「ねえ!」
そうやって感傷的になっている頃、奈緒が大声を上げる。億劫と言えど、反応を示さないと後々面倒になりそうだと振り向くと、その瞬間顔にベシャッと冷たい何かが当たる。しばし茫然とした俺は、そのまま手で振り払い、投げつけた張本人を睨む。
「や~い、お前の母ちゃんで~べ~そ~」
いつの時代の子供だ。今の子はそんなネタ通じないぞ。煽り文句が適当すぎて乗るに乗れないじゃないか。
「この雪を全て顔面に当てられたら私の勝ち!」
なんと酷い仕打ち。冬だったら凍死ものではないか。
ため息をついて肩をすくめると、奈緒の溌溂とした顔を眺める。俺よりもよほど楽しそうな彼女は、人生を謳歌しているのだろう。羨ましいという感情が出てしまえば俺も救われたはずなのに。今や俺は、ただ流れゆくものを見つめているだけだ。
変なことを考えすぎていたのだろうか。結局次々と流れてくる雪玉を、俺は顔面で全て受け止めてしまった。ナイスキャッチ。言ってる場合じゃない。
「俺が全部当てたら、今日はそれで終わりにしてもらう」
あんまり体力使いたくないから。そんな言葉を後に乗せて、俺はしゃがみ、ようやく雪玉を作ることにした。奈緒は驚きの声をあげ、犬のように俺の周りを走り回った。落ち着きのないやつめ。
雪ってのは不思議だ。柔らかいはずなのに、くるくると丸めて力を込めると、それなりの固さになって、凶器となる。雪で人は殺せるのか。ぼんやりと変なことを過らせた。俺は五個ほど作ると、奈緒に向かって何の合図もなしに投げつけた。
「うひゃあっ!?」
「ま、こんなもんか」
「……ねえ!その雪玉明らかに私のより大きい!酷い!」
「お前のルールに大きな雪玉を作ってはいけないなんてなかったな」
白々しく言う俺は更に雪を投げつける。奈緒は今度こそ、軽やかに雪玉をよけると悔しそうに地団駄を踏み、目を見張るような手さばきで雪をかき集め、わざとらしく高笑いする。
「私の爆撃を喰らうがいい!」
「さて、どうかな?」
そこからはもう、無気力人生の金メダルを取れる俺にしては珍しく、活動的で、二人だけの雪合戦は白熱した。最初のうちは顔に当てることを意識して何の見境もなく、力の限り投げつくす。避けたり、命中したり。たまに足がもつれて転んだり。途中からはもう、ルールなんてないに等しくて、滅茶苦茶で。玉を作り終わらないうちに無理やり投げて、相手の頭を真っ白にして、されて。
「雪かけばばあの登場だ~~~~!雪をかけて喰っちまうぞ~~~」
「わ~~恐ろしい~~、頭が真っ白で本当におばあさんだ~~~」
「誰のせいだ!棒読みやめて虚しい!」
きゃっきゃっ、と大の大人二人が騒いで、公園を占拠する。誰も居ない空間で、さわさわと生ぬるい風を受けてそよぐ木々たちだけが、その様子を見ていた。
やがて、どうしてこうなったのか全く分からず、二人並んで雪のじゅうたんに寝転んでいた。まだ日が沈む手前、西日の射す光は眩しくて、目を細める。
「……久しぶりに、こんなに身体を動かした」
「楽しかった?」
「……疲れた」
もう、と唇を尖らせる奈緒を横目に、俺は頭に手を乗せて、眩しすぎる光を遮った。俺にはこれを直に受け取るだけの器がない。そんな気がした。
「普通の雪はさ、寒くて凍えそうな中で遊ぶものじゃない。もちろん動けばあったかくなるし、だからこそ身体を動かすけど。でも、こんなにもいつまでも雪と一緒に居られないよね」
「……ああ」
「でも、こんな暑い中なら、人は雪を喜んで受け入れてくれる。背中が冷たくて気持ちいい。そんな、共存の仕方が出来る。いいと思わない?」
「……そうだな」
だが、物事ってのはそう都合よく出来ていない。暑いからこそ雪は降らない。寒いからこそ更に雪は降る。自然は自然の理に沿って流れ、それは決して人間の都合で変えられるものじゃない。夏雪現象が起きているこの町は、どうかしてしまったんだ。自然の理に則れず、神様に見放されてしまったのかもしれない。
俺がそう言うと、奈緒はカラカラと喉を鳴らして笑った。
「難しいこと、考えるね」
「そんなことない。これが普通だ」
「ふうん。……私は、分かんないや。単純に、目の前の事に感動して、ただ行動しているだけで、いいの」
「考えるよりも行動に出てそうだもんな」
「そりゃそうだよ。楽しいことを探して三千里しているのです」
奈緒はその眩しすぎる光を背に、俺に顔を向ける。突飛な事ばかりを言うやつだけど、顔だけは整っている彼女は、下界に遊びに来た天使のようだった。
「ルールその三。私と遊んで、心から楽しめた?」
真っ直ぐすぎるその瞳は、見つめ続けていたら吸い込まれそうだった。未だに胸でどくどくと高鳴って、身体が熱い。雪の上で寝そべって、全身を冷やしているけど、それでも追いつかない。雪が申し訳程度に降っているのは、都合がいいくらいだ。何かが疼いている。
身体ってのは、素直だ。
俺は、しばし無言を貫いたけど、それでもこらえきれなくて、小さな声で応えた。
「ああ」