07月11日 晴
スケッチブックに丸く削った鉛筆。水彩絵の具と水を入れたペットボトル。
午前中、まだ早いうちに家を出る。
山は隣の市との境。少し距離があるが歩く事にした。
あの日も、二人で歩いたのだから。
☆ ★ ☆
サクラと話すようになったのは、小学校二年の時。偶然、席が前後になったからだ。
人見知りする私にとって、サクラは数少ない友人だった。
もちろん、明朗快活なサクラには沢山の友達が居て、いつも真ん中で笑っていた。
サクラにとっての私は、多くの中の一人に過ぎなかったんだと思う。
季節的には夏休みの直前。ちょうど今くらい。
その日、私は日直で教室に残って日誌を書いていた。
一日の出来事を時系列にまとめ、事細かに記していく。
適当に済ませてしまえばいいのに。真面目というよりは要領が悪い。
書き終えた時には、夕日が差し込んでいた。
大きく息をついて伸びをする。
いつも居場所に困る教室が、今は自分一人の為だけに存在していた。
だから。
「秋野さんってマジメだね」
背後からの声に思わず立ち上がってしまった。
随分と大袈裟な顔で振り返ったのだろう。
「あ、ごめん。ビックリさせるつもりじゃ……」
申し訳なさそうなサクラに、
「ううん。誰も居ないと思ってたから」
慌てて言葉を返す。
「途中で声をかけるのも悪いし、終わるまで待っておこうかなって」
素直に安心したのか、サクラがほっと息をついた。
なんとなく暖かい気分になる表情に見とれてしまう。
「今日、ヒマ?」
「え」
「これからUFOの写真を撮りにいこうと思ってるんだ」
ランドセルをごそごそとあさり、小さな箱を取り出す。
緑を基調としたデザイン。
見覚えがある。テレビのコマーシャルでやってる使い捨てカメラというやつだ。
「この前、旅行に行った時のなんだけど、まだ少し残ってるんだ。これで撮ろうと思って」
隣の市との境にある山で空飛ぶ円盤を見た。
最近のブームに乗って、実しやかに広がっている噂だ。
サクラにこんなミーハーな部分があったとは。意外な発見に目を丸くする。
「あ、バカ言ってると思ってるでしょ」
「え、ううん。そんなことないよ」
サクラの気分を損ねないように急いで否定する。
「ま、あたしも本気で信じてないけど、いたら楽しいって思わない?」
屈託のない笑顔。ドキッとする。
いつもあれこれと理屈をこねる私にはできない顔。
サクラの世界と私の世界は違うのかもしれない。
常に光の中で前を見て進むサクラ。いつも影の中で足元を見て立ち止まったままの私。
「ね、一緒に行こ」
優しくて暖かい感触。私は差し出された手を無意識に握り返していた。
並んで歩いた。
山を少し上った所に、小さな神社がある。そこが目的地。
始めていく場所だから、道を忘れないように注意して進む。
学校からはかなりの距離。路地をくねくね曲がり、大通りを駆け抜け。いくつも信号を超える。山の麓から伸びた石段を上がり、ようやく辿り着いた。
一時間以上かかった。小さな二人にとっては、信じられないくらいの大冒険だった。
鳥居をくぐり中に入る。
境内は山で夕日が遮られ薄暗かった。その上、人の気配がない。不気味な感じだった。
宇宙人が物陰から飛び出してきて、私達をさらうのではないか。バカな妄想に背筋がぞっとする。
「あぁ」
サクラの声が私を現実に引き戻した。
さっきまで近くに居たはずのサクラの姿が消えていた。
どこに。
周囲に視線を走らせ探す。
いない。
心臓の音が激しく、早くなる。
宇宙人。UFO。妖怪。心霊。
断片的なキーワードが頭をよぎる。
まさか。
膝が震える。自分の身体じゃなくなったみたい。
「秋野さん。こっちこっち、すごいよ」
声を追う。
境内の奥にあるお堂の向こうからだ。
ゴクリと唾を呑む。
呼んでいるのは本当にサクラだろうか。
得体の知れない何かが声色を真似ているのかも。いや、そもそも教室に残って居たのはサクラじゃなくて……。
頭を振って、バカげた考えを弾き飛ばす。
右手に視線を落とす。まだ優しい感触が残っていた。偽者のはずがない。
心を決めた。迷いから逃げるように小走りで向かう。
お堂を大きく迂回する。裏には何もなかった。分厚く高い壁があるだけ。
サクラを探す。壁の隅にある小さな扉が、開いていた。
「早く早く、こっちこっち」
導かれるままに外に出る。
強い光。目がくらんだ。小さく声を漏らしてしまう。
まぶしさに慣れるのを待つ。
開けた空間。小さな公園くらいの大きさ。周囲はフェンスで囲まれている。
山の陰から抜けた夕日が、そのスペースをオレンジに染め上げていた。
「こっちだよ」
近くにサクラの笑顔があった。優しく腕を掴んで引っ張る。
「なに?」
「いいから、いいから」
そのまま二人でフェンスに駆け寄った。
「ほら、すっごい綺麗でしょ」
そこからは町が一望できた。夕日の中で輝く町並み。
「あたしの住んでるのは、あそこら辺かな」
サクラが駅の方を指差す。
パパと一緒に何度か言った事がある。家からはかなり離れてるはずだ。
「違うよ」
駅と太陽の位置を確認する。この時間なら、夕日の方向になるはずだ。
今度は私がサクラの手を引いて、フェンスに沿って少し移動する。
「あの辺になると思う」
強い逆光に目を細めながら、指を向けた。
「うわぁ、さっきよりスゴイ綺麗」
「ホント、綺麗」
溢れる朱色の中でキラキラと反射する光の粒は、緻密に計算されたアクセサリーのような美しさがあった。
「そうだ! 写真! 写真!」
サクラがランドセルから使い捨てカメラを取り出した。
数枚のフィルムなんてあっと言う間だった。
写真を撮り終えた後も、私達はじっとその景色を見つめていた。
手を握り合ったまま、夕日が完全に沈むまで。
「あれれ、おかしいな」
サクラの声は不安で震えていた。
「ここで曲がったら大通りに出てくるはずだったのに」
「ね、あっちじゃないかな」
暗くなってから、急いで山を下り帰路についた。
夜と昼は町の雰囲気は随分と違う。その上、太陽もなくなり方向感覚も失ってしまった。
道に迷ってしまっても無理はないと思う。
「ここ、さっき通ったかも」
「おかしいな、おかしいな」
サクラの声は震えていた。
真っ青な顔。潤んだ瞳からは、今にも涙が溢れそうだ。
「ごめん。あたしが誘ったりしたから。もし、このまま帰れなかったら」
「大丈夫、大丈夫だよ」
「でも……」
消え入りそうな声。
心の隅に生まれた不安が、どんどん大きくなって、私達を押し潰そうとする。
「大丈夫、きっと大丈夫だよ」
虚しい言葉を繰り返すしか、出来ないのだろうか。
何か他に少しでも。懸命に考える。
「え?」
差し出した私の手を見つめて、サクラが目を丸くした。
「ね、手を繋ご」
ちょっと照れた風にサクラが小さく頷く。
手が触れた。ぎゅっと強く握る。暖かい感触と柔らかな体温。
「あのね」
「すっごく綺麗だったね」
「え、うん」
「あの場所は二人だけの秘密だね」
微笑んだ。小さくて非力な私の精一杯。
サクラの瞳が食い入るように私を見ていた。
少し頬が熱くなるのを感じる。心臓がドキドキする。
「そうだね。二人だけの秘密。誰にも内緒だよ」
サクラが笑顔を返す。
あれほど大きかった不安が、一気に吹き飛んだ気がした。
「さ、帰ろ。パパとママが心配してる」
「そうだね。あたしもお腹空いちゃったし」
少し軽くなった足で進んだ。
なんとか家の近くまで来た時には、すっかり遅くなっていて、私とサクラはみっちりと怒られた。
あの日から、私とサクラの距離は一気に縮まった。
一緒に遊ぶ事が、一緒に過ごす時間が増えた。
秋野さんと弥生さんという呼称が、秋野と弥生に変わり、気が付けばカエデとサクラになっていた。
喧嘩して絶交して、仲直りを繰り返した。
あの時、あの道で繋いだのは、互いの心だったのかも知れない。
筆を置いた。思ったより掛かったが、ようやく完成。
夕日に目を細めながら、町を眺める。
あの日、ここからサクラと見た景色。写真に残っている景色とは随分と変わっていた。
それに。
今、私の隣には……。
立ち上がって、大きく息を吐いた。
腕を精一杯に伸ばし、仕上がった絵を眺める。
良く描けてると思う。
夕日の中でキラキラと輝く町。それを硬く手を繋いで眺める二人の女の子。
今の私の一番。




