06月29日 雨
今日は朝から雨だった。もうすぐ梅雨明けだというのに。
最後の悪あがきみたいな空模様。
今、モミジは期末テストの真っ最中らしい。
ドタバタと一夜漬けに精を出している。天気と一緒だなと思う。
☆ ★ ☆
ぼんやりと窓に視線を投げた。しとしとと降り続く雨。
街灯の明かりが水滴に反射し、闇の中でキラキラと輝く。
雨は嫌いじゃない。落ち着いた柔らかい気分になる。
マグカップに入れたココアを一口含む。
甘くて温かい。
夕食の片づけを済ませて、お風呂に入るまでの時間を自分の部屋でのんびりと過ごす。
サクラの電話を待ちながら。
今日はどんな話をしようか。何を聞こうか。
たった十分を待つ、一番幸せな時間。
携帯が軽快なリズムを奏でた。
昨日、着メロを変えた。サクラが大好きだった曲。
【非通知】の文字がディスプレイに浮かぶ。
「もしもし」
「ふぉふぉふぉ。今日もいい子にしてたかな?」
「なに? それ?」
「うわ。そういうリアクションは厳しいな」
サクラの声が私の心に染み込んでいく。
胸のドキドキが激しくなる。
電話の向こうに聞こえちゃうんじゃないだろうか。
「もうすぐ夏だね」
「サクラは夏好きだからね」
「だって夏休みがあるんだよ。嫌いな人は居ないって。ね、カエデは水着買った?」
「え、だってプールとか行かないし」
「もったいないな。カエデはスタイルも良いし、肌も綺麗だしさ」
「そ、そんなことないよ」
サクラの方が、何倍も何十倍も輝いてる。
「カエデの水着姿見たかったな」
「その言い方やらしい」
思わず苦笑してしまう。
「夏休みになったら、海行こうよ。海」
「でも」
「じゃあ、プールでも可」
「そんな事言われても」
「お願いお願いお願い」
「解ったよ。考えておくから」
相変わらずサクラは強引だ。でもそういうトコが魅かれる部分でもある。
「ね、サクラはお盆に戻ってきたりするの?」
不自然な質問だが、ひょっとしたらと思う。
会いたい。それが幽霊やお化けであっても。
「どうなんだろ。そういうのって良く解らないんだ」
「そうなんだ。そう言えば、サクラって電話以外の時間は何してるの?」
「う〜ん。なかなか良い質問だね。ワトソンくん」
「え? だれ?」
「うわ。そういうリアクションはダメだって」
声が笑う。
サクラの笑顔が脳裏に浮かぶ。
大好きな大好きなサクラの笑顔。心を照らす太陽のような、暖かくて明るい表情。
一緒に笑いたい。
微笑んで、声を出して、心が跳ねるように。
でも今の私には……。
「そういうのって内緒なんだよ。一応さ、こっちにも都合があってね」
「そっか、そうだよね」
「ごめんね。でも、これだけはハッキリ言える」
「なに」
わずかな沈黙。少し緊張しつつ、次の言葉を待つ。
「あたしさ、カエデと話すこの時間が大好き。だからカエデに何を話そうか、何を聞こうかってずっと考えてる」
「え」
私と一緒だ。
胸が熱くなる。
どんなに離れても。死が私とサクラを引き裂いても。
心は、想いは繋がってるんだ。
「なんて……ちょっと柄じゃないよね」
「ううん。嬉しい。嬉しいよ」
サクラの電話が終わるのと、ほぼ同時だった。
何度もノックする音。
ドアを開き、モミジが顔を覗かせた。
「お姉ちゃんお姉ちゃん」
返事くらい待って欲しい。
目元を慌てて拭う。
「電話終わったみたいだから」
私の顔を見たモミジの表情が固まった。
「あ、ごめんなさいごめんなさい」
頭を下げて、慌てて部屋を出ようとする。
「ううん。大丈夫だから、ちょっと眠くて」
あまりに稚拙な嘘だ。口にしてから自己嫌悪しそうになる。
「そうなんだそうなんだ。泣いてるのかもって、びっくりしちゃった」
モミジは素直な子だなと思う。
「で、なに?」
「あのねあのね。時間あればでいいんだけど。その、えっとね」
モミジにしては珍しく歯切れが悪い。
ノートを手にしているのに気が付いた。
モミジがテスト期間中だった事を思い出す。
「いいよ。見てあげる」
「え?」
大きな瞳を丸くする。驚いた顔。
「勉強でしょ。見てあげる」
「ホントにいいの?」
「うん。暇だし、いいよ」
「やったやった。椅子持ってくる」
手を叩いて跳ねるように部屋を出る。
モミジはそんなに勉強好きだっただろうか?
「これは已然形で確定を表すの。で、こっちは未然形で仮定になるの」
「じゃあじゃあ、これはこう?」
「そうそう。未然、連用、終止、連体、已然、命令。それぞれの助詞の接続を覚えるの。そうすれば簡単でしょ」
「なるほどなるほど。なんか解ってきたかも」
モミジの苦手な古典だった。暗記する部分と応用になる部分を整理すれば、特に難しくはない。
「じゃあ、次はこれね」
「えっと」
モミジが一生懸命にシャーペンを走らせる。
テスト前にサクラと勉強していた頃を思い出す。
「これであってるあってる?」
「うん。正解。それを応用すると、こうなるの」
「あ、解ったかも解ったかも」
どうやらコツを掴めたようだ。
「後はちゃんと参考書の問題が解ければ大丈夫だから、もし解らなくなったら聞きにきていいから」
「ありがと、お姉ちゃん」
ノートを閉じて、嬉しそうな表情を浮かべる。
「勉強は日々の積み重ねだよ。テスト前に詰め込んでもダメだからね」
「あぁ、ママと同じ事言う」
ぶぅっとすねた顔をしてみせる。
こういうリアクションはサクラにそっくりだ。
「でも、良かった」
表情を崩した。
「なんていうのかな。ちょっと前のお姉ちゃんに戻ったみたい」
「え」
「じゃあ、もう少し頑張ってから寝るね」
椅子とノートを抱えて、モミジが自分の部屋に戻るのを見送る。
途端に世界が静かになった。
知らない間に時計の針が随分と進んでいた。
今まで一人。ずっと静かな部屋が普通だったのに。
寂しい空気に驚く。
モミジの残した言葉の意味を考える。
何か変わったのだろうか。
鏡を覗いた。相変わらず無表情な暗い顔。
ふと砂時計に目を移す。落ちた砂が少しだけ増えていた。




