07月05日 晴
来週から期末テスト。
これが終われば夏休みに入る。
サクラの居ない初めての夏休み。
私にとっては図書館と家を往復する退屈な日々になる
☆ ★ ☆
両手を合わせて深々と頭を下げた。
渡り廊下。下校する私の眼前で『お願いしますのポーズ』をとる有紀に当惑を覚える。
「ね。カエデ、アンタだけが頼りなんだ」
「馴れ馴れしく呼ばないで」
都合の良い申し出の上に、無遠慮な呼び方。実に癇にさわる。
「ちゃんとお礼はするし」
「そういうの興味ないから」
「つれない事言わずに。ね」
「私、急いでるから」
尚も食い下がってくる有紀の表情が、その言葉で凍りついた。
失望。嫌悪。怒り。様々な感情が複雑に絡み合ってるのが見て取れる。
小さな罪悪感が生まれた。それをぐっと心の隅に押し込み、
「どいて。邪魔」
冷酷な一撃を発する。
「解った」
嘆息して道を開けた。
顔を伏せたまま有紀の傍をすり抜ける。流石に視線を合わすのが躊躇われた。
どんな顔をしてるだろう。どんな思いでいるだろう。
テスト前に勉強を見て欲しい。有紀の頼みは些細な事だった。
ここまで拒絶する必要があったのだろうか。
足が止まった。
視線を後ろに投げる。
離れていく有紀の背中。心なしか脱力した雰囲気を感じる。
胸の奥が痛い。
気にする必要なんてない。私は何も悪くない。
他に言い方があったはずだ。謝っておくべきだ。
相反する感情が勝手な主張を繰り返す。
私は駆け出していた。理由は解らなかった。
ただ、その場に立っているのが怖かった。
階段を駆け下り、廊下を走り抜ける。ひたすら夢中で足を動かした。
気が付けば、校門に背をもたれ、跳ねる息を抑えている自分が居た。
下校する生徒達が訝しげな目を向けてくる。
胸に手を当てて、浅い息を何度も繰り返す。
弾けた感情。制御できない気持ち。動悸が収まらない。混沌とした不安。
心と身体がバラバラになりそう。
私、どうなってしまうの!
サクラ。助けて。
心の奥で叫ぶ。
サクラ。声が聞きたいよ。
無意識に携帯を握り締めていた。
プラスチックの無機質な感触。
鳴らない。
サクラ。どうして電話してくれないの。
暗い。こんなに強い日差しなのに。
寒い。気温は高いはずなのに。
音が遠い。さっきまで雑音が溢れていたのに。
視界がどんどん狭くなっていく。
膝から力が抜けた。身体が支えられない。
奇妙な浮遊感。ぐるぐると景色が回る。
アスファルトの地面が迫って。身体が思い通りに。全身が泥のように重く。どんよりとした痛みが頬に。
それが最後の感覚だった。瞬く間に意識は闇に呑まれいった。
コンクリートの見慣れない天井。
パイプが見える簡素なベッドで私は横になっていた。
身体にかけられた薄いシーツは神経質な程に白い。
ここはどこだろう。
首を動かす。
ベッドの周りは、シーツと同じ純白のカーテンで囲まれている。
身体を起こし、不意の頭痛に声を漏らした。じんじんと痛む。
頬に違和感。大きめの絆創膏が貼られていた。
消毒液の独特の匂い。
私が居るのは保健室のようだ。
何故、こんなところに。
「ん、起きた?」
聞き覚えのある声。わずかに顔が強張るのを感じる。
「貧血だろうって先生は言ってたよ」
カーテンが小さく揺れ、有紀が顔を覗かせる。
「なに? 変な顔しちゃって」
シャッとカーテンを開け放った。一瞬にして視界がオレンジに染まる。
「マジあせったよ。校門で倒れてるんだからさ」
「あ」
有紀が保健室まで運んでくれたのだろうか。
「ちょうど妹が一緒だったし、なんとか運べたよ」
「妹さん?」
「そそ、双子の妹が隣のクラスにいんの」
初耳だ。薄く化粧した有紀の顔を見つめつつ、妹を勝手に想像する。
「確か、カエ、えっと、秋野も妹居るんだよね」
「まあね」
一緒にされるのは不愉快だ。
「確か、モミジだっけ。ね、どんな子なの」
「別に、普通」
最低限で会話を打ち切り、窓の外に視線を向ける。
もう夕日が大きくなっていた。一時間以上、眠っていた事になる。
「うちの妹さ、早百合っていうんだけど、地味な子でさ……」
私が聞いてないのも気にならないようだ。一人で喋って、一人で笑っている。
常に身体のどこかを動かす忙しない話し方。やはり苦手だ。
しかし、くるくると変わる表情はサクラのように魅力的に思える。
サクラと有紀。
二人は仲が良かったらしい。
溢れる笑顔を交わしながら、並んで歩く姿を想像する。
暖かい光に満ちた世界。決して私と交わる事のない世界。
心の中で負の感情が、ゆっくりと頭をもたげる。
有紀に対する嫉妬だろうか。それとも自分自身への嫌悪だろうか。
「秋野ってさ、そんなに私が嫌い?」
有紀の一言が、私の思考を断ち切った。
すぐ近くに有紀の顔があった。芳香剤の甘い香りが微かに鼻をくすぐる。
正直に嫌いとは答えれない。だが否定もできない。
結果として、俯いたままになってしまう。
「ウソでも否定しろよ。傷つくじゃない」
「ごめん」
反射的に謝罪の言葉が漏れた。しまったと思う。
ここで謝るのは有紀の言葉を肯定した事になる。
「ま、好き嫌いってのは誰にもあるからさ。仕方ないか」
小さく溜息が聞こえた。
気まずさで顔を上げられない。
「さて、私はそろそろ帰るかなっと、先生ももうすぐ戻ってくると思うから」
パタパタとスリッパの音が遠のいていく。
視線を落としシーツの一部を握ったまま、音と気配で動きを想像する。
足元の鞄を持ち上げ、スリッパを片付ける。
ドアに手を伸ばし……。
「私さ」
沈んだ声で有紀が告げた。
次の言葉を待つ。
沈黙。時計の秒針が嫌に大きく感じられる。
「私もさ、ぶっちゃけ、アンタは大っ嫌いだよ」
反射的に顔を上げた。
ドアの前でこっちを見ている有紀と目があった。
「あはは、鳩が豆食ったみたいな顔してるよ。バッカみたい」
カラカラと笑う。
してやったりという表情は、意外なくらい嫌味がなく、妙に子供っぽく見えた。
「じゃ、バイバイ」
唖然とする私に小さく手を上げた。
ぽつんと残された私は、有紀が出て行ったドアをじっと見つめていた。
自分のあまりの間抜け具合に、自然と笑いが漏れる。
そうだ。まだ有紀に礼を言ってなかった。
保健室に運んでくれたのは彼女だし、目が覚めるまで側に居てくれたのも彼女だった。
好き嫌いはともかく、お礼は言わなければならないだろう。
ありがとう。
シンプルな一言で十分。
明日、朝一番に言ってやろう。その時、有紀はどんな顔をするだろうか。




