06月27日 晴
休日に外に出るのは、随分と久しぶりに思える。
初夏の太陽を眺めながら、駅前のショッピングモールに向かう。
手には携帯電話。サクラの電話を待ちながら歩く。
十分。たった十分だけのサクラとのお出かけだ。
☆ ★ ☆
ゆったりとしたサマーセーターと、白いロングのフレアスカートを選んだ。
鏡を覗き込む。自分でも酷いと思う。
表情の消えた顔。どんよりと生気の抜けた瞳。
微笑んでみる。頬だけが動き、白い歯が覗く。あまりの不自然さに溜息が漏れた。
せめてもの救いは、サクラにこんな顔を見せずに済む事だ。
髪を丁寧にとかしながら、視線をデスクの上に動かす。
砂時計。サクラからのプレゼント。
ホンの少しだけ、心が軽くなった。
不意にドアを叩く音。
コンコンコンコンと忙しない叩き方。誰だか直ぐに解る。
声を上げるよりも先にドアが開いた。
モミジが顔を覗かせる。
デニムの上下。丸い大きな帽子を頭にのせていた。
「あれれ、どうしたのどうしたの?」
「出かけるから」
モミジが大きな瞳を一層大きくする。それほど驚く事だろうか。
「モミジもお出かけ?」
「うんうん。えっとえっとね、トモダチとねトモダチとね、駅前に」
先日そんな事を言ってたのを思い出す。
「そう、気をつけてね。暑くなってきたから小まめに水分補給しないとダメよ」
ハンドポーチと携帯電話を手に取り、ぼんやりと私の顔を眺めているモミジの横を抜ける。
「じゃあ、もう出るから」
「あ、いってらっしゃい」
階段を下り、スニーカーを履く。
外に出ると、キラキラと輝く太陽が迎えてくれた。
気の早い蝉の声が微かに耳に届く。
優しく駆け抜ける風は清々しい匂い。
季節はもう初夏になっていた。
「ママママ! 大変大変! うわあぁぁ!」
中からモミジの叫び。続いて階段を転げ落ちる音が聞こえた。
モミジは相変わらずモミジだなと思った。
今日のお出かけが決まったのは、昨日のサクラとの電話でだった。
「ショッピングモールのクレープ屋さん?」
「そうそう。カエデと食べに行くの、楽しみにしてたのに」
不満そうな声。サクラらしい。
サクラは甘い物、特にクレープが大好物だった。
美味しいという評判を耳に、隣の駅まで食べに行った事もある。
「ね、カエデ、明日食べに行こうよ」
いきなりの提案に面食らう。
「でも」
「そっか、あたし、死んでるんだっけ」
サクラはもう居ない。一緒に出かけるのは不可能なのだ。
絶対に変わる事のない事実。それはあまりに冷たい現実。
心にぽっかりと穴が開いたような気分になる。
「じゃあ、こうしよう」
「え、なに」
「カエデが食べて、その味をあたしに電話で中継する」
「そんな無理だよ」
「弱音を吐かない。真のジャーナリストを志すには、必要な試練の一つだよ」
「別にそんなの目指してないし」
「うぅ、あのクレープの味が解らないままじゃ、死んでも死に切れないよ。化けて出るぞ」
頭に白い三角布を付けて、クレープ屋さんの前に佇むサクラを想像する。
美味しそうにクレープを食べるお客さんを涙目で見ながら、恨めしそうに指をくわえている。
なんというか、実に底の浅い幽霊だ。
「ね、カエデ。いいでしょ? お願いお願いお願い」
「解ったよ。でも、そういうの苦手だから、上手く伝えられないよ」
「いいのいいの。じゃあ、明日、お昼に電話するね」
「うん、それまでにお店に移動しておくから」
「やった。久しぶりにカエデとお出かけだね。すっごく楽しみだよ。あ、勝手に決めちゃって、用事とかあった?」
「ううん。大丈夫だよ」
「良かった。じゃあ、明日ね」
小さな音と共に通話が切れた。
僅かな時間でも、電話で話すことしかできなくても。それは三ヶ月ぶりの約束。
その意味を噛み締めた。心の奥が暖かくなる。
と、こんな事をしている場合ではない!
クローゼットを開けた。
明日、着ていく服を選ばないと。サクラに恥ずかしい思いはさせられないから。
ショッピングモールは地下二階の地上十階で、敷地面積もかなり広い。
私の目指すクレープ屋さんは一階の奥。多くの軽食店が並ぶフードパークにある。
ゆったりと店内を眺めながら進む。休日のお昼という事もあって、お客さんも多い。
親子連れやカップル。仲の良さそうな友達グループ。それぞれが笑顔に溢れている。
ファンシーショップの前に置かれた大きな犬のヌイグルミが目に入った。一抱えもあるそれは通るお客の視線を集めている。
「うわ、見て見て。犬だよ。ほらほら」
駆け寄ってヌイグルミの頭をポコポコと殴るサクラが見えた。
「ねね、似合ってるかな? こっちのが可愛い?」
安っぽいアクセサリーを並べた店で、ネックレスやヘアアクセを次々と付け替えてサクラが微笑む。
「やっぱお菓子の王様は、うまか棒だって思うわけよ」
お菓子屋さんで、駄菓子を両手一杯に抱えてレジに走るサクラの後姿を追う。
居ないはずのサクラの姿が次々と浮かび消えていく。全ては私の妄想が作り出す幻覚。
「サクラ……」
ブックストアで雑誌を立ち読みをしていたサクラが振り返る。
「この漫画が好きなんだ。すっごく綺麗な絵なの。カエデも読んでみて」
どうしてサクラはここに居ないのだろう。どうして私は一人でここに居るのだろう。
携帯が鳴った。
発信者は【非通知】。サクラからだ。
「もしもし」
「カエデ、どうしたの」
「え」
「声が元気ないっていうか」
「なんでもない。大丈夫だから」
「でも」
「着いたよ」
話してる間にクレープ屋の前に到着した。思ったよりは空いている
白い清潔感のあるユニフォームに身を包んだ店員が三人。プレートで生地を焼いていた。
とりあえず、ショーケースに並ぶサンプルに目をやる。メニューは二十種類以上。
ストロベリーやキウイ、オレンジにチョコといったスタンダードな物から、チーズやツナ、納豆といった変わり物まである。
「どれにしようかな」
「納豆いってみよ〜」
「イヤ」
「えぇ〜納豆だよ。これは食べとかないと」
「納豆嫌いだし」
「好き嫌いじゃなくて、挑戦するのに意味があるんだよ」
「やっぱ普通にストロベリーにしようかな」
「うわ。スルーされた」
サクラと話していると、声を出して笑いそうになる。
ふとガラスに映る自分と目が合った。無表情な自分に驚く。
楽しいはずなのに。こんなに心が弾んでいるのに。表情は凍ったまま。
バラバラになった心と身体。漠然とした違和感が、どんどん大きくなって全身を飲み込んでいく。
「ね、カエデ、聞いてる?」
サクラの声で現実に引き戻された。
「あ、ゴメン。ちょっとボケっとしてて。私、納豆はイヤだから」
「それはもういいってば。それよりも子供の泣き声が聞こえるんだけど」
「え」
周囲に視線を走らせる。
少し離れた所で、女の子が泣いていた。パープルブルーのワンピースに大きなリボンをした三歳くらいの子だ。
周囲を不安そうにキョロキョロしながら、ママと呟いている。親とはぐれてしまったのだろう。
「迷子みたい。ね、サクラ、ストロベリーでいいよね」
「ちょっと、それどういう意味?」
「オレンジの方がいい?」
「そうじゃなくて!」
「どうしたの、急に」
サクラの語気が珍しく強くなる。何か気に障る事を言ってしまったのだろうか。
「迷子で泣いてる子がいるんだよ!」
「大丈夫だよ。もうすぐ親が捜しに来ると思うし、係員の人も……」
「カエデ、ホンキで言ってるの?」
「え」
「カエデ、変わったね。あたしのせいなのかな」
明らかに失望のこもった声。何が言いたいのか解らない。鼓動が早くなる。
「あの、サクラ、私」
「ごめん。今、ちょっと話すの辛い。後でまた電話するから」
「サクラ、ちょっと待って」
小さな音を残し、サクラの声が消える。
何がいけなかったのだろう。サクラに嫌われるような事はしてないハズなのに。
携帯電話をぎゅっと握る。
闇の中に一人で放り出されたような気分。
ホンの数秒前まで楽しく話していたのに。
震える肩を抱いてしゃがみそうになる。心の中で何度もサクラの名前を叫んだ。
自分の居場所が消えたような。まるで迷子になったような。
はっと顔を上げた。サクラの言いたい事がようやく解った。
急いで駆け寄る。膝をついて視線を合わせた。不安で一杯の瞳。それは私と同じ色だ。
優しく頭に触れ、頬を撫でる。暖かい。
できる限りの想いを込めて、言葉を紡いだ。
「どうしたの? ママが居なくなったの?」
振り返りながら何度も手を振る女の子を見送る。
母親はすぐに駆けつけてきた。待っている間は、私の手を強く握っていた。
私の存在が、あの子の不安を少しでも和らげる事ができて良かったと思う。
と、携帯が鳴った。
「あのさ、その、さっきはごめんね」
サクラの声。違う。謝るのは自分の方だ。
「やっぱりカエデはカエデ。いつも優しいよね。そういうトコ、大好きだよ」
「ありがとう」
ホンの少しだけ、心が戻った気がした。
「ね、あたし考えたんだけどさ」
「なに」
「やっぱ納豆にしない?」
「ダ〜メ、ブルーベリーにするの」
ふと、ショーケースに浮かぶ自分の姿が目に入った。
あの子の笑顔につられたのだろう。小さな笑みが生まれていた。




