10月31日 晴
☆ ★ ☆
妖精の鏡はとうとう割れてしまいました。
人間の町。大きな町の空気は、妖精の住む森とは違いすぎたのです。
粉々に割れた鏡の破片を掻き集め、妖精は泣きました。
どれだけに泣いても、いくら破片を元通り並べても、割れてしまった鏡を元に戻す事はできませんでした。
妖精は大きな屋敷の屋根に降りました。
こんな遠くまで来たのに。
友達に会う。それだけを目指してここまで来たのに。
長く辛い旅で、細い身体も、小さな羽根もボロボロになっていました。
これ以上、旅を続ける事はできない。森に帰る事もできない。
せめて、最後に友達に会いたかった。一目で良いから心を照らしてくれる太陽の様な笑顔を見たかった。
でも、もう。
ゆっくりと妖精は目を閉じました。
このまま眠ってしまえば、全てが夢で終わりそう。そんな気がしました。
「妖精さん、妖精さん」
誰かがしきりに呼んでいました。妖精の頬をつついていました。
ゆっくりと妖精は目を開けました。
白鳥でした。どこか見覚えのある顔。ぼんやりとした頭で記憶の糸を手繰ります。
「こんな寒いトコロで寝ちゃいけないですよ」
思い出しました。数ヶ月前に東の村で出会った白鳥。そう、乱暴な猫に襲われた雛を妖精が助けた、あの白鳥だったのです。
「お陰様で、息子は一人前に巣立っていきました」
何度も頭を下げて感謝する白鳥に、妖精は少し照れくさくなりました。
「妖精さんは友達に会えました?」
小さく首を振って、妖精は話しました。割れてしまった鏡の事、生まれ育った遠い森の話。そしてその森の奥にある不思議な泉の話。
「なるほど、でも森に帰れば、その泉までいけば、また鏡が作れるのですね」
白鳥は翼を広げて、空に向かって大きく鳴きました。
「解りました。私の群れはこれから、その森の方向に向かって旅をします。森まで行く事はできませんが、途中まで私に送らせてください」
思わぬ申し出でした。妖精は何度も礼を言いました。
森に帰れば、泉に行けば、鏡が作れれば、また友達に会える。
妖精を乗せて、白鳥は旅立ちました。
「森まで行ければ良かったのですが、私が送れるのはここまでです」
残念そうに言う白鳥に、妖精はもう一度、心から礼を述べました。
小さな町の近くの湖で白鳥は妖精を下ろしました。
森まではまだまだ遠い。今まで飛んできた距離の十分の一にも満たない距離、でも妖精にとっては大きな距離でした。
飛び立つ白鳥の群れを、大きく手を振って見送りました。
それからボロボロの羽を懸命に動かして、今日の眠る場所を探しました。
町まで飛んで、大きな宿屋の屋根に降りました。この軒下なら風も防げそうです。
明日からはまた辛い旅になる。できるだけ休もう。森まで戻れないかも知れないけど。頑張るって決めたから。
「あら、妖精さん、こんなトコロでどうしたの」
妖精が眠ろうとした時、声が聞こえました。
「こっちよ、こっち」
キョロキョロと声の方向を探す妖精に、愉快そうな声が届きました。
下の窓からでした。
大きな瞳の少女が妖精を見上げていました。どこか見覚えのある顔。
「ね、そこは寒いでしょ。入ってきなさいよ」
思い出しました。数ヶ月前に北の町で会った女の子でした。そう、無くした指輪を妖精が探してあげた、あの女の子だったのです。
「パパとママと旅行でこの町にきたのよ。ね、お友達には会えた?」
小さく首を振って、妖精は話しました。割れてしまった鏡の事、生まれ育った遠い森の話。そしてその森の奥にある不思議な泉の話。
「森まで戻ればいいのね」
大人びた仕草で口元に手を当てて、小さく首を捻りました。
「明日、隣町まで馬車で移動する予定なんだけど、一緒に乗っていくといいわ。ホンの少しだけど、森に近づけるから」
思わぬ申し出でした。妖精は何度も礼を言いました。
その日は、柔らかいベッドの片隅を借りて休みました。次の日、女の子の鞄に入って馬車に乗る事になりました。
「お友達に会えるといいね。また、私の町に遊びに来てね。私の小さな友達さん」
馬車の陰で鞄から妖精を出すと、女の子はちゅっと頬にキスをしました。
妖精はもう一度、心から礼を述べました。
ホンの少しですが、森に近づく事ができました。
遠のく馬車を見つめながら、手を振り続けました。
まだまだ森までは遠い。頑張らないと。
小さな羽根を震わせて、飛び立とうとする妖精の前に大きな影が飛び込んできました。
長いしなやかな身体と、四本の足に並ぶ鋭い爪。妖精の頭くらいある牙が口から覗いていました。
イタチでした。
あまりにびっくりして、妖精は小さく悲鳴を上げました。
「そんなに驚く事はないだろう。オレっちの顔を忘れちまったのかい?」
妖精は落ち着いてイタチの顔を見ました。どこか見覚えのある顔。
思い出しました。数ヶ月前に南の町で出会ったイタチでした。イタズラばかりでみんなを困らせていた、あのイタチ。そう、妖精になぞなぞで負けて、心を入れ替えると誓ったあのイタチでした。
「今では、マジメに暮らしてるよ。ところで、妖精さんは友達に会えたのかい?」
小さく首を振って、妖精は話しました。割れてしまった鏡の事、生まれ育った遠い森の話。そしてその森の奥にある不思議な泉の話。
「なるほど、こっからはかなりの距離だな」
長い身体を大きく震わせました。
「よし、オレっちの背中に乗るといい。森までとは言えないが、隣の町くらいまでなら運んでやれるわな」
思わぬ申し出でした。妖精は何度も礼を言いました。
イタチの背から降りると、今度は風の精霊が。続いて旅の剣士が。次は臆病だった狼が。
今までの旅で妖精が出会った全員が、妖精の路を少しずつ手伝ってくれる。
サクラを失った私を、皆が支えてくれたように。
そして、ようやく森、その奥の泉まで戻ってきた妖精を待っていたのは。
☆ ★ ☆
「どうして! 酷い! 酷いよ!」
凛とした声が体育館に響いた。
背中つけた半透明の羽は傷だらけになっていた。
「こんなのって! こんなのって! あんまりだよ!」
膝をつく妖精を照らすライトが微かに揺れる。
泣いている。誰が見てもそう感じるだろう。
「動きの小さいシーンだと、なかなか感情を表現できないからね。こういう演出にしてみたんだ」
舞台袖から特別に見学させてもらっていた私に、台本にしてくれた先輩が説明してくれる。
文化祭の間、体育館は演劇部の舞台になる。
入学式や卒業式で使われる長椅子が、客席として整然と並んでいた。
満席。開いてる席は見当たらない。
藤見野の演劇は質が高い。近隣の学校では、それなりに有名な話だそうだ。
毎年、結構なお客さんが集まるが、これほど一杯になるのは数年に一度らしい。
「昨日、一昨日の評判が良かったからね。今日は最終日。そりゃ集まるよ」
今日は文化祭の三日目。最終日になる。
初日は一年生。二日目は二年。と日毎に演じる部員が変わるのも、この演劇部の伝統らしい。
もちろん三年生の舞台が完成度は一番高い。
客席に座る全員が、食い入るように舞台を見つめていた。
舞台で演じる訳でもない私ですら、思わず緊張してしまう。
「どうして! 一体どうなってるの!」
叫びと共にライトが次々と点り、舞台上の闇を剥がしていく。
客席が息を飲んだ。
長く辛い旅から戻ってきた妖精を待っていたのは。
☆ ★ ☆
泉はすっかり枯れていました。
森は長い間、雨が降っていませんでした
泉は森に住む全ての命を支える為に、水を使い果たしてしまったのです。
妖精は泣きました。
泉の魔力は長い時間を掛けて少しずつ蓄積された物でした。
雨が降り泉に水が戻っても、泉が再びささやかな奇跡を起こすには、信じられないくらい長い時間が必要なのです。
それは妖精が再び友達に二度と会えない事を意味していました。
友達の笑顔に会う為に、辛い旅を続けてきたのに。
暗い森の奥、水の無くなった泉の前で、割れてしまった鏡を胸に抱いて妖精は泣きました。
妖精は知っていたのです。友達がどこに行ってしまったのか。
遥か遠い世界。生きている者が決して届かない世界。雲よりも高く空よりも遠い世界。
それを認めるのが怖くて。ずっと逃げていたのです。
辿り着けない旅。ゴールの無い旅。妖精が小さな羽根で飛び続ける限り、現実から逃げ続けられる。
しかし、それも鏡が心を支えてくれるからできる。
絶望で胸が一杯になって、妖精は座り込んでしまいました。
「泣かないで。笑って」
頭の中に友達の声が響きました。
「微笑んでいて」
「笑顔の君が大好きだよ」
「ずっとずっと微笑んでいて」
友達のくれた優しい言葉が次々と浮びます。妖精は硬く目を閉じました。
笑うなんてできないよ。だって、あなたの居ない世界は、こんなに残酷で冷たくて辛くて寂しくて苦しくて。
こんな世界なんて消えちゃばいいのに!
「そんな事言わないで」
はっきりとした声でした。頭の中からではなく、外から耳に届いた声でした。
妖精は慌てて顔を上げました。声の聞こえた方に急いで目を向けると。
ずっと見たかった。ずっと探していた。ずっと追い続けていた。懐かしい顔がありました。
「やっと会えたね」
びっくりして動けなくなった妖精に、友達は優しい笑顔でそう言いました。
友達の足元に、ホンの少しだけ泉の水が残っていました。
泉は少しだけ水を残してくれていたのです。いつか戻ってくる妖精のために。ささやかな奇跡のために。
☆ ★ ☆
幕が閉じられると同時に大きな拍手が起こった。
私は原作となる童話を書いただけ。舞台の手伝いなんて何もできなかったのに。
それでも、なんだか嬉しくなる。
「悪くない話だと思う。あえて言うなら、もうちょっと早く書き上げてくれると楽だったんだけどな」
「その、えっと、ごめんなさい」
結局、書き上げたのはギリギリになってしまった。
もっと時間があれば、もっと素敵な舞台になったかもしれない。
「あはは、冗談冗談。悪くない、ううん、良い作品だったよ」
笑いながら、背中を何度も叩かれた。
「私も良い作品になったと思うわ。ありがとう。約束を守ってくれて」
早瀬先生の声に慌てて振り返る。
先生の言葉がなければ、この作品は、いや私の心はまだ暗い殻の中だっただろう。
「じゃあ、最後の仕事も頑張ってね」
「え、あの」
何を言ってるのか解らない私の手を引いて、先輩が舞台に歩き出した。
舞台には部員全員が揃っていた。何かをやり遂げた満足そうな表情をしている。
興奮して涙を浮かべている子達は、私と同じ一年生だろうか。
幕が閉まって薄暗いはずなのに、全てがキラキラと輝いているように感じる。
私がここに居るのは、なんか場違いだと思う。
「さ、最後の一仕事だよ」
今日の妖精役、部長さんが声を出した。
最後の仕事ってなんだろう。疑問を口にしようとした瞬間。
さっと幕が開いた。
いきなり差し込んできた照明の光。客席からの大きな拍手。
一体、何が起こってるの?
あまりに突然の事に頭が真っ白になって、呆然としてしまう。
「カーテンコールするって言ってなかったっけ?」
私の手を引いていた先輩が、囁くように尋ねてきた。
「そんなの聞いてない。聞いてないですよ」
小さく反論する。
もし、聞いていたら私が舞台に上がるはずないのに。
「あ、そりゃごめん。ま、上がった限りは仕方ないね」
先輩の声はどこか嬉しそうだった。
「今日は藤見野高校演劇部『妖精の小さな鏡』を御覧頂き誠にありがとうございました」
部長の凛とした声に続いて、全員で頭を下げる。
「あ、一言ずつ挨拶があるから、ちゃんと考えておいて」
「え!」
不意打ちに驚く。
いきなり挨拶だなんて! そんなの聞いてない!
何をどう言えばいいのか解らないし、こんな大勢の前で話すなんてできないよ。
慌てる私を取り残して、部員が次々と紹介され、数分程度の簡単な挨拶を済ませていく。
時折、客席から拍手や笑いが起こる。きっと気の利いた事を言っているんだろう。
私は自分の事に必死で、人の言葉を聴く余裕すらないのに。
隣の先輩が回ってきたマイクを手に舞台中央まで進む。
残ってるのは。
ぐるりと周囲を見回す。
ひょっとして。
「では、最後にこの素敵な話の原作を書いて下さった。一年の秋野 楓さんから、一言ご挨拶を」
きた!
震える手でマイクを受け取る。
頼りない足取りで舞台の真ん中まで歩く。
照明の光。客席の視線。頭がくらくらする。
「あの、えっと、一年の秋野 楓です。その、原作を書かせていただきました」
待ってる間にあれほど考えていたのに。
「あの、あの」
頭の中にあった言葉は、どこかに吹っ飛んでしまった。
どうしよう。
心臓が跳ねる。
何を言えばいいの。
声が出ない。
何か言わないと。
焦っても、唇が小さく震えるだけ。
「カエデ! 頑張れ!」
客席から声が飛んできた。
視線を動かして、声の元を探す。
客席の端っこに見慣れた顔があった。薄い化粧をした、キツイ目元。ノンタイでボタンを外しただらしない格好。
校外から人の集まる日なのに。取り巻き連中に囲まれて、有紀はいつもの有紀だった。
「頑張れ! カエデ!」
声を合わせてエールをくれるクラスメイトに頷く。
少し心が軽くなる。
視線を正面に戻した。
満員の客席。全員が私を見ている。私の言葉を待っている。
「私、私は」
マイクを通してるはずなのに、全然声が小さい。痛々しいほどに震えていた。
ふと、客席の後ろの方で誰かが、大きく手を振っているのが見えた。
カチューシャで留めた髪が揺れていた。その横には細身の女性と、祈るようなポーズで固まっている少しふくよかな男性。
遠くても解る。
モミジとパパ、ママ。
私は一人じゃない。
有紀が、クラスメイトが、モミジが、パパとママが。私を支えてくれている。
だから、大丈夫。
見上げる。暗い体育館の天井。その上に広がる空。透き通った青を想像する。
サクラ、見てて。
もう、大丈夫だから。
大きく息を吸う。
「私は」
震えなかった。自分でも驚くほど、しっかりした声。
「私は春に大切な友人を亡くしました。交通事故でした」
一瞬、客席がざわめいた。
こんな暗い事を話していいのだろうか。ふと、迷いが生まれる。でも。
「彼女は親友でした。私の一番でした。彼女の笑顔はいつも温かく私を照らしてくれました。一緒にいるだけで、楽しくて嬉しくて。ずっとずっと一緒の時間が続くと思ってました。でも、彼女は消えてしまいました」
でも、今は自分の心に従おう。
「私にとって、彼女の居ない世界は辛いだけでした。辛くて冷たくて寂しくて苦しくて。それに耐えられなくて、私は自分の殻に隠れて過ごしていました」
サクラの死を受け入れられなくて、ずっと塞ぎこんでいた自分。周りから目を逸らして、耳を閉じていれば、全てが許されると思っていた自分。
「そんな私をクラスメイトや家族が優しく支えてくれました」
サクラの想いに応えて私に何度も手を伸ばしてくれた有紀。私のために小さい身体で一生懸命に頑張ってくれた妹のモミジ。優しく見守ってくれたパパやママ。
「サクラは、私の親友だったサクラは、最期の最期まで私の事を想ってくれてました。私がずっと笑顔で過ごせるようにと、そう遺してこの世を去ったそうです」
ささやかな一日十分の奇跡。
七色の光に包まれて薄れていくサクラの笑顔を思い出す。
「この物語の妖精は、友人の死を乗り越え、森の中で穏やかに笑顔で過ごすというラストを迎えました」
息をついた。ゆっくりと客席を見渡す。
「私は弱くて卑怯な人間です。妖精のように強い心で生きることはできません。これからの路で、何度も躓いて挫けて泣いてうずくまると思います。でも……」
ぎゅっと拳を握る。
「サクラは笑顔の私が好きだと、ずっと微笑んでる私が好きだと言ってくれました」
サクラが私に残した想い。サクラが私に託した願い。私は失さない。絶対に。
「だから、私は笑顔で歩き続けようと思います。そして、またサクラに会った時に」
視線を上げる。青空の向こうに居るサクラに。
「私はずっと笑顔で頑張れたよって報告したいと思います」
心の中にあった言葉を全て吐き出して、私は深々と頭を下げた。
客席は静まり返っていた。あれほど華やかだった雰囲気を台無しにしてしまった。
顔を上げるのが怖くなる。
数人が手を打つのが聞こえた。小さかった拍手が、少しずつ、水面に広がる波紋のように段々と広がっていく。
それは直ぐに体育館を揺らすような大きな音になった。
いつの間にか溢れていた涙を拭いて顔を上げる。
全員が立ち上がって、手を叩いてくれていた。暖かい空気が私を包んでくれているのが解った。
「ありがとうございました」
もう一度、深く礼をする。
そして、微笑む。
私は精一杯頑張っていこうと誓う。サクラが大好きだと言ってくれた笑顔で。
もう砂時計の砂は絶対に止まらない。




