10月20日 晴
昨日もサクラから電話はなかった。
夜、部屋に戻ると携帯電話を握って丸くなっている。
サクラから電話があるんじゃないか。そう想ってじっと待ってる。
ありえないのに。ささやかな奇跡は終わったのに。
☆ ★ ☆
鏡を覗き込む。真っ赤になった目。少し腫れぼったい。
昨日の夜もずっと泣いていたからだ。
こんな顔を見せたら、モミジに余計な心配をさせてしまう。
目薬を点して、ゆっくりと時間を掛けて髪をとく。
純白のシャツに袖を通し、タイを結んだ。
もう一度、鏡に顔を映す。充血は収まっていた。
笑わないといけない。
苦しくても。辛くても。
サクラに嫌われちゃうから。
微笑んだ。
空っぽの笑顔だった。
「晩御飯のリクエストある?」
今日の夕食当番は私。
玄関で靴を履きながら、モミジに聞いてみる。
「何でもいい。お姉ちゃんが食べたいのでいいよ」
「遠慮しなくていいから」
いつもは食べきれないくらいのリクエストをしてくるのに。
今朝は鞄を握って、私の後ろにじっと立っている。
「あのねあのね」
「なに」
振り返る。視線が合った。
大きな瞳に空虚な笑みを浮かべた私が映っている。
「あのあの、お姉ちゃん、元気ないみたいだから」
ドキッとした。動揺を押さえ込んで、そっとモミジの頭を撫でる。
「風邪気味っぽいんだ。ちょっと身体がだるくて」
「ホントに風邪なだけ?」
「うん、モミジにうつさないようにしないとね」
「でもでも」
「じゃあ、今日はモミジの好きなシチューにしよっか。私も栄養摂らないといけないし」
「うん。シチュー食べたい」
ごめんね、モミジ。嘘をついたのを、心の中でそっと謝った。
放課後、早瀬先生に仕上げた童話を渡して職員室を出た。
体育祭とテストが終わって、どのクラブも文化祭の準備に追われている。
教室に戻るまでに、大きな荷物を抱えた生徒と何回もすれ違った。
私のクラスは適当な展示物でお茶を濁す方向に決まっていた。
でも、それは私のクラスだけじゃない。
藤見野高校はクラブ活動が盛んで、ほとんどの生徒が部活に参加している。文化祭はクラブの準備で忙しいのだ。
「おかえり、カエデ」
誰も居ないと想っていた教室。私の席の隣に、有紀が座っていた。
「石嶋、ひょっとして補習?」
「アンタ、いつもどんな目で私を見てるのさ」
呆れた顔をした。
この時期に補習があるはずないか。
「ごめんごめん。用事でもあるの?」
「いや、別に用ってほどじゃないんだけど。あのさ」
そう言って、少し視線を外した。言葉を探しているように思える。
「なに?」
「カエデ、ここ数日、元気ないみたいだから」
「そんなことないよ」
笑顔を浮かべる。
「そんな顔して言われても、全然説得力ないんだけど」
有紀の口調には、明らかに苛立ちが含まれていた。
見透かすような目が、鼓動を早くさせる。
小さく息を吸う。心の温度が下がる感覚。
胸元に手を当てて、動揺を懸命に抑えた。大丈夫。
「実はね。ちょっと風邪気味なの」
「風邪だって? アンタねぇ」
「ホントに風邪気味なだけだよ」
有紀のキツイ視線を、微笑みを絶やさず受け止める。
じんわりとした沈黙。居心地の悪い間。
「そっか」
私から顔を反らして、大きく息を吐いた。
「カエデがそう言うなら、そうなんだろうね」
微かに震える声。
「私、帰る」
鞄を持って立ち上がり、目を伏せたまま私の横をすり抜けた。
「早く風邪治しなよ」
それだけ残して、教室を出る。
ごめん。有紀の後姿に、心の中で呟いた。
夕食とお風呂を済ませて、部屋に戻った。
デスクに座り、張り付いた空虚な笑みをようやく外す。
砂の落ちた砂時計を手に取った。ひんやりとしたガラスの感触。
ひっくり返した。七色の砂が水に踊る。
数分掛けて砂が落ちるのを、ぼんやりと眺める。
全部落ちたところで、もう一度ひっくり返した。
上から下に砂が流れる。途中で止まる事はない。
何度も何度も、それだけを繰り返す。
気が付けば、日付が変わろうとしていた。
もう寝よう。
腰を上げて、電気を消した。
携帯電話を胸に抱いて、ベッドで丸くなる。
今日はきっと。今日はきっと電話がある。
サクラが電話をくれる。きっときっと。
意識が闇に解けるまで、携帯電話が鳴るのをじっと待った。




