10月01日 晴
空は秋晴れ。澄んだ青。今日は体育祭。
私が出るのは短距離走とクラス対抗リレー。
運動が苦手な私はグランドに立つだけで緊張してしまう。
皆に迷惑掛けないように頑張ろうと思う。
☆ ★ ☆
バトンを受け取って走り出す。
藤見野高校のグランド。それほど広く感じたことないトラックが、恐ろしく長い距離に思えた。
今の順位は十クラス中の四位。トップとの差は数メートル。
まだ逆転圏内。でも私の足では絶対に無理。
少しでも差をあけられないように、次の走者にバトンを渡す事だけを考える。
クラス対抗リレーは全生徒参加で、体育祭の目玉競技。走者順は事前にクジ引きで決められる。
私は不運にも最後から二番目。いや、アンカーにならなかっただけ幸運かもしれない。
懸命に足を動かす。ようやく七割を超えた所で。抜かれた。更にもう一人。
これで六位まで下がった事になる。
もうダメかも。足が重い。ここまでが限界。
「カエデ! 頑張れ! もうちょい!」
有紀の声。うつむき掛けていた顔を前に向けた。
ジャージの背中に石嶋の文字が見える。
もう少し。
身体中から残った力を掻き集めて、ひたすら地面を蹴る。
後ろに突き出された石嶋の手に、バトンを伸ばす。
ぐっと掴んだ。
「任せて」
駆け出す石嶋の後ろ姿。少しずつ遠のく背中を見つめながら、倒れるように座り込んだ。
胸が苦しい。心臓が大きく揺れている。あちこちが震えた。肩で息をするので精一杯。
「カエデ、お疲れ様」
駆け寄ってくる友人達に支えられて、クラスメイトの輪に入る。
うずくまって、浅い呼吸を繰り返す。少し走っただけなのに、自分のひ弱さに呆れてしまう。
不意に歓声が起こった。
視線を地面から上げる。
有紀は既にトラックの半分を越えていた。前を走っていた隣のクラスの子を一気に抜き去る。
「これで三位だ!」
誰かが叫んだ。
私を抜いたクラスは、有紀のはるか後ろだった。
普段の有紀からは信じられないくらい真剣な顔で駆けていく。
速い。同じ人間とは思えない。
残り四分の一になった所で、二位のクラスを捉えた。
「もう一人! いけるよ!」
トップが振り返る。あっという間に二人の距離が縮んでいく。
クラスメイトに混じって、夢中で応援していた自分に気がついた。
並んだ。
有紀がちらりと横を見た。更に速度を上げる。
少し辛そうな表情。
頑張れ! もう一息!
胸元で拳を作り、心の中で何度も繰り返す。
どよめいた。さっきよりも遥かに大きい。グランドの空気が揺れるような錯覚を覚えた。
じりじりと有紀の身体が前に出る。
抜いた。
数センチだった差が、一歩毎に確実に広がっていく。
ゴールはもう目の前。
有紀が両腕を広げた。倒れそうになりながら、それでも懸命に足を動かす。
最高潮に達しつつあった歓声が止まる。
全員の視線がゴールに釘付けになっていた。誰もが息を飲んでいた。
跳ねた有紀の身体が低い弧を描く。土ぼこりが舞った。
深く大きな溜息が起こった。
夕日に満たされた保健室。
赤く染め上げられたカーテンが、秋の柔らかい風に揺れている。
脱脂綿に消毒薬をつけて傷口を拭う。
「あいたたた」
「動かないで」
絆創膏を貼った。
「もうちょっと優しくしてよね」
「贅沢言わないで。私は先生じゃないんだから」
保険医の先生が席を外していたので、救急箱を使って私が手当てした。
「うわっ。だっさ。もう、最悪だぁ」
鏡を覗き込んで、有紀が情けない声を上げた。
「大した怪我じゃなくて良かったと思わないと」
救急箱を戸棚に直して、向き直る。
「こら! 笑うな!」
つい顔が緩んでしまった。
無理もない。頬と額の大きな絆創膏は、なかなかのインパクトだ。
「ごめんごめん」
「ったく。それにしても、惜しかったな。もうちょいで一番だったのに」
不満そうに溜息を溢す。
化粧を落とした有紀の顔は、随分と子供っぽいなと思った。
有紀はゴール寸前で転倒した。それも漫画のように顔から倒れたのだ。
「でも、凄かったね」
次々と相手を抜く有紀は、私が見ても格好良かった。
「私は足だけは自信あるんだ。陸上部の子にだって、勝った事あるんだよ」
自分でだけとか言うかな。他にも良い所が沢山あるよ。心の中でそう告げる。
「うん。凄かったよ。びっくりした」
「でしょでしょ」
「ホントに見事な顔面落としだったよ」
「そっちかよ」
二人で笑う。
「サクラがうちのクラスに居たら、絶対優勝だったよね」
「うん」
サクラの名前に動揺する自分を抑えながら、できるだけ平静に応える。
サクラが居れば。何度も何度も繰り返した、ありえない話。
そんな事を考えるのは私だけかと思ってた。
「サクラは足速かったから」
「運動神経良かったからね」
ぼんやりと窓を見る。
秒針が時を刻む。緩やかな沈黙がしばらく続いた。
「私さ……」
有紀がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私さ、サクラが好きだったんだ」
有紀を見る。その目は外に向けられたままだった。
「うん。サクラが好きだったんだと思う」
もう一度、確認するように呟くと、振り返って小さく笑う。
「変な意味じゃなくてね。バカ話してさ、笑ってさ、楽しかった」
「うん」
「サクラって、すっごい音痴だよね。初めて一緒にカラオケ行った時はびっくりだった」
「そうなんだ。私、行った事ないから」
有紀にとっては、カラオケの経験がない人間が居るのが意外だったようだ。
今度、みんなで行かないとね。そう残して、また視線を窓に戻す。
「サクラには、秋野 楓っていう友達が居てさ」
私の名前がいきなり飛び出した。ちょっと驚く。
「いっつもその子の話するんだよね。それがさ、ちょっと悔しかった」
サクラがいつも私の話をしてた?
「あんまり嬉しそうに話すからさ。きっと素敵な子なんだろうなって思ってた」
サクラが嬉しそうに話してた?
「だから、サクラが死んでからのカエデを見てると、ホントに腹が立った」
「え」
「自分だけが大切な物を失ったみたいな顔して、教室の隅でじっと座って沈み込んでる。こんなヤツがサクラの一番だったのかって」
自分の殻に閉じこもって塞ぎこむ私。有紀の目にはどれほど不快な存在に映っただろう。
「許せなかった。これじゃサクラが浮かばれないと思った。だから、私は声を掛けた。」
「そう、なんだ」
「カエデはサクラの一番なんだ。今までも、これからも。あんたはサクラの分も頑張る義務があるんだよ」
真剣な眼差しだった。押されて視線を外そうとする自分を、ぐっと押さえつける。
強い瞳を正面から受け止めた。
サクラの想い。有紀の想い。そして私自身の想い。
ゆっくりと噛み締めるように。首を縦に。頷く。
「よし」
いつもの笑みが口元に戻った。
「あの、私……」
「ったく手間のかかるヤツだね」
「私、お節介焼いて欲しいなんて言ってない」
もう大丈夫。ありがとう。
そんな気持ちを裏腹な言葉に乗せる。
「それにしても、今頃、サクラは何をしてるのかな」
有紀が大きく伸びをして、窓から空を仰ぐ。
「サクラはきっと相変わらずだよ」
朱の混じった高い空の向こう。人の力では絶対に届かない場所。サクラの居る世界。
「天国には試験も学校もないんだよ。なんて笑ってるんじゃないかな」
「あはは、いかにもサクラらしいや」
サクラ、見てて。
頼りないけど、精一杯に歩いていく。
何度も挫けるだろうけど、絶対に立ち上がって進んでいくから。




