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第八話 三つの射座

 朝、宿の中庭で、レノルは長弓を引いた。右手を耳近くまで運ぶと、上の弦輪から指二本ぶん下で、撚り合わせた一本だけが細く外へ起きた。


 力を抜き、弦をゆっくり戻した。


 張らずに指でなぞった時には、隣の撚りへ収まっている。毛羽立ちもわずかで、今日一日なら使えそうに見えた。だが、次に撚りが浮くのは、狩りを終えたあととは限らない。


 レノルは古い弦を外した。


 背負い具の奥から、乾いた布に巻いた予備を出す。上の弦輪を掛け、弓身を脚へ預けて下も収めた。指で撚りをならし、弓の中央と弦の間を見てから、浅く二度、深く一度引く。


 新しい弦は、古いものより少し高い音を返した。


 矢をつがえず、さらに何度か同じところまで引いた。弦輪は動かない。撚りも浮かず、弓身の曲がりは左右へ逃げていなかった。


 加工街の弓職人に預けてある木は、次の弓に使えるほど乾いていた。いまの長弓が弦を替えるだけで使えるなら、急いで削り始める理由はなかった。


 門へ向かう人の声が、塀の外から細く聞こえていた。レノルが予備弦を試し終え、外した弦を布へ包み直す頃には、その声もまばらになっていた。


 二日前に持ち帰った一頭分の荷は、帰った日のうちに加工街へ渡してある。使った二本の矢と解体用の刃物も、その夜に血と脂を洗い落とした。昨日は乾いた矢の箆と矢羽を確かめ、火を起こす小粒を一つ補って、町の外へ出ずに身体を休めた。


 いま矢袋には十八本があり、腰の四つの袋にも、いつもの分が収まっている。肩に一頭分を負った張りはもうない。


 時間の遅れだけが残った。


 レノルは長弓へ新しい弦を張ったまま、辺境門を出た。


 朝待ち橋には、もう門影は掛かっていなかった。畑へ向かう者の多くは先へ散り、橋板の上を空の荷車が一台、町の側へ戻ってくる。レノルはたもとで立ち止まらず、車輪とすれ違ってそのまま渡った。


 盆地には朝の白さがまだ残っていたが、東の斜面はすでに明るい。畦の水は細い光をつなぎ、ラネムの流れは河岸段丘の陰から出るたびに青くなった。鉄舐め谷へ続く道の先では、山裾の林が風に揺れ、葉の明るい面と暗い面を遠くまで交互に返していた。


 遅れを急いで埋めようとはしなかった。


 新しい弦は三度の試し引きに耐えた。それでも石の増える道へ入るまでは、ときおり親指で弦輪の座りを確かめた。弦を替えた日に足場を見ず走り、弓ごと転べば、古い弦を外した意味がない。


 畑道を行くうち、門の塔は少しずつ低くなった。水路の堰を上げる二人が膝まで水へ入り、流れ込んだ枝葉を籠へ拾っている。別の畦では、先に刈った草が細い束にされ、道を来る荷車が踏まない間隔で並べられていた。レノルが朝待ち橋で見送った人々は、広い盆地の中でそれぞれの場所へ着き、もうその日の仕事を始めていた。


 刈草から立つ青い匂いが、道の上まで満ちていた。みずみずしい茎の束には、まだ花のついたものも混じっていた。


 道が山裾へ近づくと、畑の土の匂いに湿った葉と石の匂いが混じった。昨日までの晴天で路面は乾いている。小さな沢を渡るところだけ苔が濃く、レノルは長弓を外側へ傾け、濡れた石を一つ避けた。


 立ち止まるたび、弦だけでなく空も見た。薄い雲は高く、午後まで雨になる形ではない。帰りに大きな荷を持つとしても、足場が急に濡れる心配は少なかった。


 鉄舐め谷の入口へ着いた時には、谷底の流れから朝の影がほとんど退いていた。


 鉱泉の匂いを含む風が、上から下りてきた。


 その風の中に、大盾の男がいた。


 谷の奥から戻ってくるところだった。靴の甲に、下の採集段では付かない白い石粉が新しく積もっている。大盾の下縁にも同じ粉が付き、前に巻かれた灰褐色の皮だけでなく、板の中央近くまで細く擦れていた。


 男の後ろには、一人分の足跡が上から続いていた。道へ張り出していた枯れ枝は折られず、根元から脇へ寄せられている。どれも長弓を立てて引ける幅を空ける寄せ方だった。


 足跡は、谷口へまっすぐ戻ってはいなかった。途中で低い棚へ一度下り、次の曲がりでは上側の石を踏んでいる。大盾を通すだけなら選ばない線だった。レノルが弓を引ける空間と、獲物が来た時に男自身が立つ場所を、行きと帰りで確かめた跡に見えた。


 その脇には、岩剥ぎ(ケルヴァル)の新しい蹄跡があった。四つの蹄のうち、右前だけ、内側に弧を描く擦り跡を添えている。石粉の白さは風にも朝露にも崩れていない。


 男はレノルの長弓を見てから、その足跡の先へ顎を向けた。


「上で〈片月〉の跡を見た」


 レノルは上の棚を見た。


 〈片月〉は別の種類の獣ではない。鉄舐め谷に来る岩剥ぎ(ケルヴァル)の一頭を、ここへ通う狩人がそう呼んでいた。


 二度前の雪解けには若い雄だった。右の前脚だけに大きな鉤爪があり、岩を剥いだ跡の片側へ、深い半月の形を残した。次の年にも同じ跡が見つかり、前の秋には、通常の成熟雄より大きくなった姿を上の棚で遠くから見られている。


 人の道や畑へ下りる個体ではなかった。肉や皮が身体の大きさ以上に高く売れるわけでもない。足場の悪い場所へ、一人で追う理由がない獲物だった。


「近いか」


「まだ岩肩の向こうだ。新しい剥ぎ跡がある」


 男は上から来た足跡へ目をやった。


「一人では追わずに戻ってきた。枝を退けて、弓を引ける場所を三つ作ってある。見てから決めるか」


 決めたことを告げる言い方ではなかった。


 レノルは男の盾を見た。下縁の皮巻きは保たれ、板当ても浮いていない。槍はいつものように片手で扱え、男の歩きにも前の傷をかばう遅れはなかった。


 自分の弦は替えたばかりだ。十八本の矢もある。


「見よう」


 二人は谷を上った。


 男が退けた枝は、むやみに踏み折られていなかった。先だけを切って樹液の匂いを立てる枝もあれば、二股の間へ別の枝を差し込み、道の上から持ち上げたものもある。通り終えたあとに戻せる仕事だった。


 上る途中にも、〈片月〉の痕跡があった。


 鉱泉の染みが岩の裏へ回る場所で、薄い表層が大きく持ち上げられている。普通の岩剥ぎ(ケルヴァル)なら、角や蹄を掛けた縁が横へ浅く続く。目の前の跡は片側だけが深い。硬い石肌へ半月を差し込み、その隣へ置いた脚を支えにして、表層ごと捻った形だった。


 剥がれたばかりの内側には水がにじみ、細かな石屑がまだ下の窪みへ落ちきっていない。男が谷口で言った通り、近くにいる。


 レノルは獲物の力を、まだ見えない身体より先に、その石から知った。


 最初の場所は、泉上の棚へ出る岩肩の手前にあった。胸ほどの高さの石が風上からレノルの身体を隠し、その脇だけ、長弓の上端を枝へ触れさせず立てられる。足元の砂は靴で薄く払われ、左右の足を置く固い石が出ていた。


 レノルは弓を上げ、矢をつがえずに引いた。


 新しい弦が耳の近くで鳴る。上端にも下端にも枝は触れない。岩肩の向こうから出る獲物なら、左の前脚の後ろが見える。


 二つ目は、棚を横へ進んだ先にあった。低い灌木の枝が道の外へ寄せられ、岩肩からこちらへ向いた獲物の側面を狙える。そこまでの間には、足を置ける窪みが三つ続いていた。


 三つ目はさらに低かった。泉へ落ちる側ではなく、乾いた窪みを半回りした先に、片膝を落としても弓の下端を石へ当てずに済む空きがある。最初の二つから下がる道ともつながっていた。


 盆地から吹き上げる風が、棚の枯れ草を一方向へ伏せている。


 レノルは風向きと三つの空きを重ねた。第一の場所から射たあと、獲物と盾が重なれば二つ目へ移れる。そこを向かれても、三つ目へ下がれば男の盾と交差せずに弓を立て直せる。


 逃げるだけなら、最初の場所から谷底へ下りる道もあった。


 男は中央の平たい石へ盾下縁を置いた。次いで、少し低い側の石へ移り、同じように腰を落とす。足元を確かめると、中央の石へ戻った。


「最初はここで受ける。鉤が深く入ったら、下へ移った方がいい」


 レノルは二つの石を見比べた。


「先に蜂を使う。取りつかせるまでは矢を射られない」


「その間は俺が受ける。弓の方へは向かわせない」


 レノルはうなずいた。


 腰の種莢袋へ一度、指が触れた。


 この棚には茨を根づかせる土がほとんどない。種莢を割って男へ茨の守りをまとわせることはできる。だが棘が爪先を傷つけても、大きな身体が盾を持ち上げる重さまでは消えない。どちらも発動には同じだけ右手と時間を使う。


 火なら一撃を加えられるが、乾いた草と退けた枝が近すぎた。しかも一度届けば短く終わる。


 蜂は取りついたあとも、獲物が頭を振り、皮を震わせるたびに働き続ける。その動きが一度でも横腹を開けば、見送った一射を返せる。


 レノルは、乾かした蜂房の薄い欠片が入った袋を開いた。


 岩肩の向こうで、石が割れる音がした。


 男が盾を上げる。


 灰褐色の頭が現れた。


 続いて、二本の角と肩が岩肩を越えた。通常の成熟雄より、胸の厚みがひと回り大きい。背には古い擦り傷が白く走り、右の前脚を踏み出すたび、その内側で半月形の鉤爪が石を引っ掻いた。左の前脚はまっすぐ地を押し、右が掛ける前に重い身体を支えている。


 〈片月〉はすぐには走らなかった。


 鼻先を上げ、棚へ残る二人の匂いを拾う。蜂房の欠片を取り出す前なら、まだ岩肩の向こうへ戻る可能性があった。男も平たい石の前に立っただけで、槍穂を届かせようとはしない。


 風が一度、盆地側から谷の奥へ返った。


 〈片月〉の耳がレノルの方へ向いた。次いで大盾へ目を移し、右前脚で石を掻く。半月の鉤が岩へ掛かり、白い粉を弾いた。


 逃げるための向きではなかった。


 〈片月〉が男を見つけた。


 首を低くした。


 レノルは右手を弦から離した。蜂房の欠片を掌へ取り、中央の小部屋を親指でまとめて押し割る。乾いた壁が崩れ、古い蜜と煙に似た匂いが立った。


 短い呪句を唱え始める。


 〈片月〉が走った。


 男は平たい石へ盾を据えた。右足を半歩後ろへ置き、槍穂を盾の外へ出す。


 レノルは獲物の肩から目を離さず、割れた蜂房を包む右掌を向けた。呪句の音を重ねるあいだ、矢袋には触れられない。


 角が盾へ当たった。


 木と角の音が棚を打った。男の身体が一度沈み、盾の下縁が平たい石の上を指の幅ほど滑る。それでも立つ場所は割れず、盾面はレノルの方へ開かなかった。


 呪句の最後を放した。


 掌の蜂房から色と匂いが抜けた。


 抜けたものが細い筋になって〈片月〉へ走り、乾いた空気の中に金色を帯びた黒い点をいくつも結んだ。点は羽音を持ち、増えながら一つの群れになった。岩肩を回り、獲物の目の周り、耳の付け根、矢傷のない脇へ取りついていく。


 蜂はただ周囲を飛んだのではない。短い毛の間へ潜り、柔らかいところへ尾を曲げる。そのたびに皮が細かく震え、耳が倒れた。群れそのものが脚を縛ることも、走る速さを奪うこともなかったが、〈片月〉は取りついたものを無視できなかった。


 〈片月〉が皮を大きく震わせた。


 頭を振り、角を盾から離す。前脚で顔の横を払おうとした時、左の脇が開いた。


 レノルは色を失った欠片を落とし、幅広の矢を抜いた。


 つがえ、弓を上げながら引く。


 第一射は、左の前脚の後ろへ入った。


 矢柄を半ば残して、血が灰褐色の毛へ広がった。


 〈片月〉は倒れなかった。


 蜂へ向けていた頭を盾へ戻し、右の前脚を外から内へ振った。半月の鉤が、盾下縁の灰褐色の皮へ入る。左の前脚が石を押し、右の鉤が持ち上がった。


 盾の片側が浮いた。


 男は正面から力を返さなかった。盾を少し外へ回し、鉤の奥まで下縁を入れないまま、最初の石から足を外した。それでも獲物が身体を捻ると、盾ごと腕を持っていかれた。下縁の皮が裂ける音がし、男の左肩が上がる。


 板の裏で、革帯が低く軋んだ。


 男の右足が砂を削り、平たい石から半歩外れた。盾面は倒れなかったが、上端が獲物の角に押されて斜めになる。レノルのいた岩陰からは、灰褐色の身体も男の胴も、同じ木の面の向こうへ隠れた。


 獲物と盾が重なり、最初の横腹が消えた。


 レノルは二本目を抜かず、岩陰から離れた。


 退けられた枝の間を二つ目の場所へ移る。足輪の働きを呼ぶ距離ではない。三歩を揃えて走り続ける道もなく、ここでは自分の足で窪みを一つずつ踏む方が速かった。


 男が盾を低く引いた。鉤が皮巻きから外れ、〈片月〉の右脚が石へ落ちる。だが男の盾を持つ側の腕はすぐには下がらず、前腕が張ったまま残った。


 レノルは細身の矢を抜いた。


 〈片月〉が右の鉤を掛け直すため、左の前脚へ重さを集める。その脚が石へ着いた瞬間、細い鏃を肩より下へ通した。


 左脚は折れなかった。


 踏ん張りだけが浅くなり、右の鉤を振り上げる身体が傾いた。


 蜂の群れはまだ離れない。目元へ寄る羽音を払おうと、〈片月〉が頭を大きく横へ振った。角が盾面を外れ、矢の入った側の脇がもう一度開く。


 レノルは三本目、幅広の矢をつがえた。


 男の肩越しではなく、盾の外へ出た横腹へ射る。


 矢は最初の傷より後ろへ入った。


 〈片月〉が跳ねた。


 男から離れ、二つ目の場所にいるレノルへ頭を向ける。蜂に追われ、左脚を傷めても、走る速さは残っていた。右の鉤が石を掻き、角の先がまっすぐ近づいてくる。


 男は右肘を引いて槍を突き出した。だが、〈片月〉はもう盾の脇を抜け、穂先は走る肩の後ろを擦っただけだった。男は槍を引き戻す。無理に追えば、レノルと同じ線へ入る。そこで足を止め、最初の石を回り込む側へ向きを変えた。


 レノルは四本目を抜いた。


 足場を固める前に引いた。


 男と獲物の間には距離がある。いま横へ逃げれば、谷底へ下りられる。だが、その先では長弓を立てる枝道を、また自分で探さなければならない。


 〈片月〉が踏み切った。


 レノルは急いで放った。


 幅広の鏃は肩を外れ、脇の岩へ当たった。硬い音とともに箆が折れ、矢羽の付いた側が石の上を跳ねる。


 獲物は止まらない。


「下へ行く」


 男の声がした。


 レノルは逃げ道ではなく、三つ目の空きへ下がった。


 低い石の後ろで片膝を落とし、五本目を抜く。新しい弦へつがえた時、男の大盾が左から獲物の進路へ入った。


 男は最初の石へ戻ろうとしなかった。低い側の石へ下縁を当て、傷めた腕を高く上げずに盾を斜めに据える。〈片月〉が右前脚を振り出したところへ槍を伸ばし、その外側へ浅い鉤を掛けた。


 引き倒そうとはしない。


 男は右肘を外へ開き、地へ着く前の脚を横へ払った。


 〈片月〉の角が盾を擦った。右の鉤爪は下縁を捉えきれず、左脚へ重さを戻す。傷ついた脚が沈み、身体が男の盾に沿って横を向いた。


 レノルの正面から、角が外れた。


 最初の二本が入った側面が見えた。


 耳の近くまで弦を引く。


 今度は急がなかった。


 男が作った一歩は、レノルが引ききるまで残った。


 五本目の幅広の矢を、肩の後ろに重なった傷へ通した。


 〈片月〉の身体が大きく沈んだ。


 前脚が石を掻き、角が盾の表面を下へ滑る。男は盾を押し返さず、倒れる重さを外へ流した。獲物は低い石の脇へ肩から崩れ、二度脚を動かしてから止まった。


 最後の矢が入ってから倒れるまで、レノルは弓を下げなかった。大きな胸が一度だけ膨らみ、吐いた息が石粉を動かす。右の鉤爪は盾下縁へ届かず、半月の先を空へ向けたまま止まった。


 蜂の群れが、倒れた身体の上で輪をほどき始めた。


 レノルは六本目を抜いた。


 つがえたまま、岩肩、上の棚、来た道を見る。別の岩剥ぎ(ケルヴァル)は現れない。羽音は次第に薄れ、最後の数匹も乾いた光の中へほどけて消えた。


 男も槍の穂を下げていなかった。


 少し待ってから、レノルは石を投げた。後脚に当たっても反応はない。男が盾を前にして頭側へ回り、レノルは弓を構えたまま胸の動きを見る。


「息は止まっている」


 男が言った。


 レノルはつがえた矢を戻した。


 弦から右手を離した途端、胸の奥に押し込めていた息が、短い笑いになってこぼれた。


「倒したな」


 自分で思ったより大きな声だった。岩棚の向こうへ抜け、谷壁から一度だけ返ってくる。


 男は大盾の上端へ額を預けるようにして息を吐いた。顔を上げた時、その口元もほどけていた。


「ああ」


 五本目を放った右肩は熱く、脚にはさっきまでの緊張が残っている。それでも、盆地へ開けた空は朝より高く見えた。自分一人なら、剥ぎ跡だけを見て岩肩の向こうへ残してきた一頭が、いまは二人の足もとに横たわっていた。


 レノルはもう一度大きく息を吸い、それから男の盾を持つ側の腕を見た。


「腕は動くか」


 男は槍を持つ手を開き、大盾の裏で盾を支える手の指を曲げた。


「動く。皮も切れていない」


 前腕はすでに少し膨らみ、袖の上からでも張りが見えた。治癒の葉へ手を移す傷ではない。葉の術は閉じた打ち身や使った腕の疲れを、なかったことにはしない。


 盾下縁では、段駆け(サルクェン)の皮が掌ほど裂けていた。板と継ぎ目は動いていない。下側の革紐一本だけが伸び、皮を押さえる位置からずれている。


「紐を替えれば、帰りまでは持つと思う」


 男は盾を寝かせ、裂けた皮を元の位置へ寄せた。


「俺がここを押さえる。結びを頼めるか」


「分かった」


 レノルは男の予備紐を受け取った。古い紐を切らずに緩め、新しい紐を隣へ通す。男が皮を引いたところで締め、下縁を石へ二度置いてずれを確かめた。


 盾を起こす時、男の動きは戦う前より遅かった。だが主帯は肩に掛かり、仮紐も下縁を支えている。槍を持つ指にも、荷を結ぶ力は残っていた。


 レノル自身の右肩にも、五度続けて長弓を引いた熱があった。新しい弦は傷んでいない。腰の蜂房袋には、乾いた欠片がもう一つ残っている。火の小粒、種莢、治癒の葉は使わずに済んだ。それでも勝利が軽かったわけではなく、失った一本の矢と二人の腕、裂けた盾の皮へ、受けた力が残っていた。


 次に矢を探した。


 血の跡と踏み荒らされた砂を、射た順に戻る。最初の幅広矢は倒れた身体に残り、細身矢は左前脚の奥へ入っていた。三本目も肉の中にある。最後の一本は肩の後ろで前の傷と近く、力を掛ける向きを誤れば箆を折る。


 最初の幅広矢、細身矢、三本目の幅広矢、最後の幅広矢は、入った角度に沿って抜いた。鏃、箆、矢羽を確かめ、血を拭って四本まとめて別布へ包む。岩へ当たった一本は、鏃より後ろで箆が裂けていた。矢袋へ戻せない。


 岩に残った鏃は外せたが、裂けは長く、短く詰めてもこの長弓へ戻せない。レノルは折れた箆をまとめ、再び使える四本と別にした。


 使用できる矢は十七本になった。


 日は高く、棚の石から朝の冷たさはもう消えていた。谷の外ではラネムが白く光り、城壁の輪郭は薄い霞の中にある。ここから見れば近く見える町も、温かい獲物を運べる形へ変え、山を下りて初めて戻れる場所だった。


 〈片月〉の右前脚には、半月形の鉤が残っている。


 男が採餌の跡と同じ動きを受けたため、その働きを二人とも知っていた。肉から切り離しても、横から岩へ打ちつければ欠けるだろう。


「先に、これを外そう」


 レノルは右前脚の下を示した。


「鉤の両側を支えておきたい」


「枝を探す。刃を使う間は、俺が上の棚を見張る」


 男が上の棚へ目を向けたまま答えた。


 レノルは背負い具から解体用の刃物を取り出した。関節の位置を指で探り、腱へ刃先を短く入れる。太い骨へ刃を当てず、曲がるところから右前脚の下部を外した。


 男が、道から退けてあった二股の枝を二本選んだ。長さを揃え、半月形の鉤を両側から挟む。レノルが布を巻き、枝どうしを結んだ。持ち上げても、鉤の先は布にも石にも触れなかった。


 二人は包みを日陰へ置いた。


 その隣には、まだ熱を抱えた大きな身体が残っている。


 棚の縁の向こうで、モセラン盆地が朝より広く開いている。ラネダルの城壁は畑と河岸段丘の上に長く横たわり、ラネムはその下で青い曲線を幾度も返していた。南西へ続く畑と小さな屋根は、遠ざかるほど光の中へ溶ける。反対側には幾重もの山があり、近い峰の濃い緑の向こうへ、雪の残る淡い稜線が空を支えていた。


 城壁から延びる道は、盆地へ出ると何本にも分かれていた。一本はラネムに沿い、荷車の土煙を遠くへ運んでいる。別の一本は林の切れ目で見えなくなり、その先の集落から細い煙だけが上がっていた。北東の断崖には、石造りの水路が日を返している。ここからでも、その両端が岩壁へ沈み、どこから人が上るのかは見えなかった。


 レノルが今日戻るのは、城壁の内側にある一つの宿だった。その外にも道があり、屋根があり、さらに山の向こうには、この棚からさえ見えない土地が続いている。


 正午を越えかけた鉄舐め谷で、狩りを終えた後の仕事は、そこから始まった。


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