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第一話 一射の重み

 レノルは弓身に指を滑らせ、昨夜の手入れで見落とした傷がないか確かめた。


 一本の木から削り出した長弓は、寝台に腰掛けたままでは端まで見渡せない。狭い部屋の床へ斜めに寝かせ、灯火を寄せる。木肌に沿って視線を往復させ、両端を指で探り、外してあった弦は端から端まで指で挟んで送った。どこにも湿りや毛羽立ちはない。輪を掛ける部分にも、爪に触れる割れはなかった。


 次は矢だった。一本ずつ箆(の)を目の高さへ上げ、曲がりと矢羽根を調べ、鏃を軽くひねる。幅広の狩猟鏃、細く頑丈な鏃、鈍い頭の矢。袋口に指を差し入れれば、筈(やはず)の刻みと糸の感触だけで三種を分けられる。最後の一本を戻したところで、十八本が揃った。


 左腕へ腕当てを巻き、右手の三指へ指革を通す。腰の前から右脇へ並ぶ四つの小袋は、口を順に押して中身の残りを確かめた。右胸の平たい鞘には、折れひとつない風切羽が入っている。水と昼までの食べ物、包み布、獲物を解体するための刃物。背負い具へ収めたものを一度すべて出すような真似はせず、手を入れればどこに何があるかだけを確かめた。


 日が暮れるまでに往復できる場所なら、これで足りる。使わないものまで持てば、遠くへ行けるわけではないのに足だけが重くなる。帰りには、空いていた場所へ別の重さが入る。


 前の日まで雨はなく、朝の空にも低い雲はなかった。林へ入って小さな獲物を探すことも、街道沿いを歩いて採取に一日を使うこともできる。誰かへ行き先を合わせる約束はない。レノルは水袋の張りと矢の内訳を見比べ、今日は鉄舐め谷へ向かうことにした。獲物が来なければ、谷の周りを見て帰ればいい。空の荷で戻るかどうかまで、自分で決められた。


 レノルは長弓を弓袋へ収め、肩を妨げないよう布と革の重なりを直した。灯を消して部屋を出ると、階下で木鉢の触れ合う音がした。


 食堂では、女将のダミラが卓の端へ鉢を並べていた。戸口へ向かうレノルに気づき、顔を上げる。


「早いね、レノル。今日は薬草採りかい?」


「今日は狩りだ。鉄舐め谷まで行ってくる」


「草を摘む日より、帰りが重くなるね」


「肉と皮が売れれば、飯と宿代を払っても少しは残るからな」


 ダミラは手に残った鉢を卓へ置いた。


「うまくいくといいね。気をつけておいで」


「行ってくる、女将」


 戸を開けると、夜明け前のラネダルは、冷えた石と消えかけの火の匂いがした。


 北東の門には、すでに人と荷が集まり始めていた。


 門柱の内側には、夜番が持ち帰った危険標が三本、泥を落とさないまま立て掛けられていた。一本の布は途中から裂け、別の一本には黒い獣毛が絡んでいる。北の草地では大きな足跡が道を横切り、東の枝道では荷をうかがうような人影を見たと、戻った者が総督府の守備隊に属する門番へ順に渡していた。鉄舐め谷へ向かう道には、新しい通行止めは出ていない。


 東へ向かう荷を一人で背負っていた男は、同じ枝道へ出る荷車が来るまで、門脇に荷を下ろしたまま待った。夜番を終える者、明るくなるのを待って外へ出る者、その横を抜けて先に進む者。


 レノルは顔なじみの門番へ片手を上げ、帳面の前で足を止めた。


「鉄舐め谷へ行ってくる。一人だ。閉門までには戻る」


 門番はレノルの名と申告を書き留め、頷いて送り出した。城壁の外へ出ると、空はまだ青黒かったが、山側の縁だけが薄くほどけている。朝は涼しい。戻る頃には、同じ布と革が汗を吸って重くなるだろう。


 城壁の外では、低地の畑がまだ薄明かりに沈み、畝の間に残る朝靄が白くほどけていた。北東へ重なる山の稜線だけが先に色を取り戻し、その手前を、町から出た人影と荷車が小さく動いている。レノルが向かう谷は、いちばん低く見える山裾の奥にあった。


 道端には、花を落とした草と、まだ白い花を残す草が混じっていた。朝の風が吹き抜けると、薄い花びらが靴の先を越えた。


 城門からほどなく、道は小さな流れを越えた。朝待ち橋には、橋の先で連れを待つ者が二人、荷紐を締め直す者が一人いた。レノルは中央を空け、道の縁に立つ者の背をよけて渡った。


 橋の向こう側に、大盾を背負った男がいた。


 厚い肩と背に盾の幅が重なり、人の流れのなかでも輪郭を見失わない。鉄舐め谷とその周りで、何度か見ている男だった。大盾で近づく獣を受け、片手の槍で動きを制限しながら仕留める。顔もその戦い方も知っているが、名を聞くほど近くで仕事をしたことはない。


 男は道の端で荷の具合を見ていた。大盾が張り出す分だけ、自分の身体ごと外へ寄っている。橋へ入る荷車のために空いた中央を、レノルはそのまま通り抜けた。


 男は別の道を選んだ。レノルも声をかけず、谷へ向かう枝道へ進んだ。


 人の足音が後ろへ薄れるにつれ、道の両側に朝の静けさが戻った。立ち止まれば鳥の声が聞こえ、歩けば自分の革具が小さく鳴る。今日どこで足を止めるか、どの痕を追うか、まだ何も決まっていない。その空きが、朝の道を広くしていた。


 道は畑の外れを過ぎると、低い草地のあいだを緩く登った。振り返れば、ラネダルの城壁が薄い靄の上へ灰色の帯を見せ、その向こうで川面だけが細く光っていた。先へ向き直ると、日を受け始めた山肌の窪みに、暗い谷筋がいくつも口を開けている。


 ラネダルへ移ってから八か月ほどのあいだに、このあたりの道は足が覚えた。枝道の土が荒れていれば戻れるし、見慣れない跡があれば予定を変えられる。誰かに遅れを告げる必要も、無理をして成果を持ち帰る必要もなかった。


 その代わり、見落としたものはすべて自分へ返る。レノルは歩みを緩め、道を横切る細い足跡を確かめた。夜のうちについた小獣の跡で、山側へ続いている。今日追う相手ではない。形だけを覚え、踏み消さない位置へ足を置いた。


 道が石を多く含み始めたところで、レノルは弓袋を下ろした。長弓へ弦を掛け、片足で弓身を支えながら静かに張る。弦の位置を指で確かめ、二度だけ浅く引いた。肩にも弓にも異常はない。


 その先では、一歩ごとに足場へ重みを預けた。乾いて見える土の下が浮いていないか。小石が谷側へ崩れないか。視線は道の先から足もとへ落ち、枝の空きへ上がり、また土へ戻った。


 東の尾根を離れた日が右肩へ差すころ、道は鉄舐め谷の口へ入った。夜明け前に門を出ても、途中で足跡を確かめながら歩けば、ラネダルで遅い朝餉の火を落とす頃になる。朝の冷えは、とうに袖から抜けていた。


 谷を下る風には、水と鉄の匂いが混じっていた。乾いた斜面の底で、鉱泉から滲んだ細い流れが光っている。赤茶けた石の間では低木の葉だけが濃く、その上へ、まだ斜めの朝日が伸びていた。


 鉱泉から離れた石には、薄皮を起こしたような跡がいくつも残っていた。古い跡は縁が乾いて黒ずみ、新しいものは剥がれた下が淡く濡れている。短く締まった脚の跡が、その間を上流へ向かっていた。大きさの揃わない足跡の列は避ける。春の終わり、仔を隠して水場へ戻る雌を追う理由はなかった。


 新しい剥ぎ跡の浅い窪みには、水が薄く残っていた。湿った縁へ、爪先ほどの足跡がいくつも重なっている。大きな獣が剥がした場所へ、後から別の生き物も塩を舐めに来たのだ。剥ぎ跡が新しいだけでは、獲物がまだ近くにいるとは限らない。レノルは窪みを踏まず、その上を横切る重い蹄跡を選んで追った。


 レノルは風を頬で受け、泉を見下ろす乾いた棚へ回った。斜面の向こうには、断崖の高みを渡る石造りの水路が、朝日に白く細く見えた。今はもう知る者のいない、遥か昔に存在したとされる帝国によって建設されたと言われているが、真偽は定かではない。そこを目印に谷の向きを取り直し、手前の尾根で見えなくなるまで進む。


 棚には膝をつける平らな場所があった。岩肌にはまだ夜の冷えが残り、谷底では泉の薄い湯気が日差しにほどけている。乾いた石溝が足もとを横切っていた。ここでは土に根を張るものの助けを借りにくい。その代わり、低木越しに鉱泉の縁まで見通せた。


 レノルは右胸の鞘から風切羽を抜いた。羽軸の根元をつまみ、眉間の前へ置く。羽先を谷の先へ向け、覚えた短い唱句を息に重ねた。


「高みの目よ、遠くを我が目に」


 遠くの輪郭が、余分な揺れを落としてぼやけずに見えるようになった。石と枝の境が分かれ、泉の薄い湯気の向こうで動く背が三つ浮かぶ。


 若い雄の岩剥ぎ(ケルヴァル)だった。


 三頭とも肩と胸が厚く、岩を踏む脚は短い。二本の角は外へ開いてから背へ沿うように寝ていた。一頭が泉際へ前脚を掛け、角の平たい内側を湿った石肌へ押し込む。薄く緩んだ表面が剥がれ、下から白い筋が現れた。獣はそこへ鼻先を寄せ、塩気を舐めた。


 棚から左へ離れた枝道にも動くものがあった。大盾の男が、別の斜面を下っている。盾の幅と、その脇に立つ槍の穂先で、朝待ち橋にいた男だと分かった。こちらへ寄る様子はない。こちらの道と交わらないまま、やがて低木に隠れた。


 レノルは羽を右胸の鞘へ戻した。視界の働きはしばらく残るが、狙う場所も矢の道も、それだけで決まるわけではない。


 三頭のうち、泉から最も離れた一頭が横を向いた。前脚の後ろまで見えたが、細い枝が胸を横切り、その奥には別の一頭の首が重なっている。


 射ることはできる。


 そういう時ほど、射た後に困る。枝に触れて矢が流れれば、どこに行くかわからない。外れて石に当たれば矢を痛め、浅く入れば、三頭の足跡が乱れた斜面を追うことになる。


 レノルは弓を上げなかった。


 待つあいだに、右足の外側へ小石が当たっているのに気づいた。引く時に踏めば、わずかでも腰が傾く。獣がそろって石へ鼻を寄せた時を選び、踵を浮かせず足だけを引いた。次に、棚の奥へ横歩きで二歩移る。そこなら先ほどの枝は射線から外れるが、泉際の二頭が重なったままではまだ射られない。戻る道と、射た後に棚を下りる場所を見直し、そこで止まった。


 風が谷を下り、低木の葉裏を返した。一頭が顔を上げて風上を向く。二頭も遅れて動きを止めた。しばらくのあいだ、獣も人も、何もしなかった。


 棚へ伏せた時には影の中だった白い剥ぎ跡へ、待つうちに日が届いた。泉から上がる湯気も、獣の脚の向こうで薄くなっている。レノルは動かず、光が届いてからも待った。


 最初に首を下げたのは泉際の一頭だった。角を石へ掛け直す。もう一頭がその横へ寄り、身体が重なった。外側にいた一頭だけが場所を譲らず、斜面を数歩上がった。白い剥ぎ跡を回り込み、低木の切れ目へ出る。


 そこから先へ走れば、草のある緩い斜面へ上がる。追える。倒れた後も運び出せる。


 レノルは矢袋へ右手を回した。指先に狩猟鏃の印を拾い、一本を抜く。筈を弦へ掛けた。左足をわずかに開き、石の平らな面へ重みを預ける。動かない。弓を上げるのと同時に引き始め、右手が顎を過ぎて耳寄りへ来る。


 若い雄がもう一歩出た。


 放した弦が腕当ての脇で鳴った。


 矢は前脚の後ろへ入った。岩剥ぎ(ケルヴァル)は身体を沈め、その勢いのまま斜面を駆け上がった。他の二頭が跳ね、反対の枝道へ石を散らして消える。射られた一頭も走った。短い脚が岩をよく捉えたが、数歩ごとに背の上下が深くなった。低木の陰へ入り、枝の揺れだけを残した。


 レノルは二本目の矢をつがえたまま待った。


 見えない場所へ追って、角の届く間合いへ自分から入る必要はない。耳を澄ます。石を蹴る音が二度、枝の擦れる音が一度。その後は続かなかった。


 棚を下りる前に、逃げた二頭の向きを確かめた。戻ってくる気配はない。レノルは来た道を半ばまで下り、そこから獣の走った線へ折れた。最初の血は矢の当たった場所に散り、次は石の角、次は低い葉の裏に付いていた。蹄跡は斜面を上がり、途中で片側が深くなる。


 低木を回った先で、岩剥ぎ(ケルヴァル)は横倒しになっていた。


 レノルはすぐには近づかなかった。つがえた矢を下げず、耳と脇腹を見た。耳は動かず、腹も上下していない。風下側からゆっくり回り込み、角の振れる範囲を避けて足もとへ石を転がす。それでも動かないことを確かめてから、弓を下ろした。


 刺さった矢を無理に引かず、まず周りを見た。足場、他の獣の気配、谷へ戻る線。仕留めたと確かめても、周りへの警戒はまだ解けない。


 それから刃物を取り出し、解体にかかった。


 傷と矢の入り方を確かめ、血を抜き、腹を開く。残すものと残さないものを分け、鉱泉と獣道から離した場所へ寄せた。まだ熱のこもる胴を開いて冷ましながら、皮を傷めないよう刃先を短く使う。関節に沿って肉を背負い具へ収まる大きさに分け、皮は汚れた面を内へして巻いた。角のついた部分も、持ち帰れる形にまとめる。


 立って刃を使うより、しゃがんだ姿勢を保つ方が背にこたえた。何度か手を止め、首を上げて風を聞く。血の匂いが谷へ広がる前に終えたいが、急いで腹の中を傷つければ肉を汚す。皮へ余計な穴を開ければ、加工街で使える部分が減る。速さを得るために手順を飛ばすのでなく、迷わないことで時間を縮めた。


 肉の包みは左右の重さを近づけた。背負い具の上側に軽いもの、腰へ近いところに重いものを寄せる。丸めた皮は片側へ張り出させず、角の先には布を回した。朝の軽い荷なら気にしなかった枝も、帰りには引っかかる。持ち上げる前から、谷を出るまでの身体の幅が変わっていた。


 傷の筋を開いたところで矢を抜き、鏃だけを拭って別に包んだ。箆を指でなぞるかぎり割れはない。だが、肉を通った矢を他の十七本へ戻すのは、宿で洗って調べてからだ。


 獲物を荷にまとめ終える頃には、日は谷の上へ高く上がり、谷へ着いた時には斜面を長く這っていた影が石の足もとへ縮んでいた。待ち、一射のあとを追い、肉と皮を分けるまでに、残っていた朝をほとんど使った。手を洗い、刃を拭き、包みの結びを一つずつ引く。朝には空いていた背負い具が、肉と皮と角で形を変えている。


 泉の向こうで、石の擦れる音がした。


 逃げた二頭のどちらかが戻ったのかもしれない。新しい剥ぎ跡へ続く足跡も、斜面の上に残っていた。矢はある。肩も指も、もう一度弓を引ける。


 レノルは日差しの向きと、自分の荷を見た。


 もう一頭を追えば、見つけるところから始まる。仕留めたとしても、その処理をするあいだに、せっかく冷ました肉へ荷の熱がこもる。二頭分を背負えば足場を選ぶ速さが落ち、朝待ち橋の先で門の動きを気にすることになる。


 まだ矢を射る力があることと、今日持ち帰れることは別だった。


 足跡には入らず、レノルは荷をまとめ直した。音のした方を背にして、鉱泉の下流へ向かった。


 追わないと決めた後で、石を擦る音はもう一度だけ聞こえた。振り返れば、低木の間に角の先くらいは見えたかもしれない。レノルは歩みを変えなかった。一頭を得たから一日を切り上げるのではない。一頭を町へ戻し、使えるものへ変えるところまでが、今日自分で選んだ自分の仕事だった。


 水が穏やかになるところには、幅のある葉を低く広げた薬草が生えていた。中心の葉はまだ巻き、外側だけが十分に育っている。レノルは荷を乾いた石へ下ろし、株ごとに外葉を選んだ。片側から続けて取らず、一枚を摘んだ株では次の一枚を残す。根も中心も触らない。


 採った葉の半分は、自分で陰干しにする。軽い傷を治す術に使うためには、湿ったまま材料袋へ入れるわけにはいかない。風の通る布へ広げて包んだ。残りは葉先を揃え、小さな売り束にする。今日の稼ぎを大きく変える量ではない。それでも、必要な時に買わずに済む分と、帰り道で得た余りが同じ株から取れた。


 荷を背負い直す。最初の一息では持ち上がらず、脚を開いて腰の位置を変えた。背と前腕へ力を通し、二度目で肉の重さを身体へ乗せる。額から流れた汗と一緒に、耳を出す長さの髪が一房落ちた。レノルは灰みのある焦茶の髪を指で耳の後ろへ戻し、荷紐の下へ指を差し入れた。


 きつすぎはしない。だが、朝と同じ速さでは歩けない。


 帰路では、崩れる砂地を避け、平らに座った石を選んだ。昼を越えた光は往路で暗かった谷筋の奥まで届き、靴底が白い石粉を薄く蹴り上げた。荷が揺れる前に一歩を短くし、下りでは足を置く場所を先に決める。途中で二度荷を下ろし、水を飲んだ。一度目は背負い具の結びを締め直すため、二度目は急がず歩ける余白がまだ残っていることを確かめるためだった。


 二度目に立ち上がる時、朝には感じなかった張りが腿に残った。レノルは呼吸が整うまで弓を杖代わりにせず、石へ片手をついた。長弓は身体を支える棒ではない。疲れた時に雑に扱えば、長く使う道具を傷める。荷を背へ戻してから、弓はいつもの側へ持った。


 谷を出ると、断崖を渡る石造りの水路は別の尾根の陰へ移っていた。代わりに、朝通った道の低い木立が見える。その向こうでは、盆地の薄い霞の上にラネダルの城壁が横たわり、朝には青黒かった屋根が傾いた光を返していた。木立まで下れば、朝待ち橋は遠くない。


 午後の遅い光のなかで、橋は往路より狭く感じられた。町へ戻る者の背には、薪、草籠、獲物、空になった水袋がある。外へ向かう者は少ない。レノルは橋へ入る前に列をやり過ごし、荷の角が人へ触れないだけの間を取った。朝には気に留めなかったわずかな上りが、腿へ重く返ってくる。


 北東の門では、まだ閉じる支度は始まっていなかった。門脇で帳面を開いていた守備隊の門番が、レノルに気づいて顔を上げた。


 門番は帳面を繰り、朝の記録へ指を置いた。


「レノル。鉄舐め谷へ一人、とあるな」


「ああ、今戻った」


 門番は帰還を書き加えると、通る人の邪魔にならない場所を指した。


「そこで荷を見せてくれ」


 レノルはそこへ背負い具を下ろした。肩から紐が離れると、汗を吸った服へ風が通った。肉の包みの結びを解き、布をめくる。門番が覗き込む間に、巻いた皮の端を開き、二本の角へ回していた布も緩めた。


「岩剥ぎ(ケルヴァル)が一頭。あとは薬草だ。売る分と、自分で使う分」


 売り束を持ち上げ、その隣で自分で使う葉を包んだ布を開いた。門番は葉と包みの下を確かめ、背負い具の奥へ目を向けた。


「遺跡から持ち帰った物はないか?」


「ない。遺跡には入ってない」


 町へ危険な品を持ち込ませないための確認が済むと、門番は一歩退いた。


「よし、通っていい。お疲れさん」


 レノルは頷き、布を戻して紐を結び直した。肩を入れて荷を持ち上げ、門の陰を抜けた。背中の重さは変わらないが、売り先までは、もう下りだった。


 加工街へ近づくにつれ、火、湯、革、削った角の匂いが重なった。道には帰還した者の荷が増えている。レノルは受け取り口の空いた一軒を選び、背負い具を通路の外へ下ろした。


 朝に城門を出た時、背負い具の中身は水と食べ物と畳んだ布だった。いまは空になりかけた水袋のほか、谷で得たものが占めている。道の外で生きていたものが、ここから先は肉を切る手、皮をなめす手、角を削る手へ渡る。レノルが一人で担うのは、その入口までだった。


 職人は肉の包みを開き、厚い切り身に手を当てた。裏返して色と傷の位置を確かめる。


「いい状態だな。熱もちゃんと抜けてる」


「血を抜いて、すぐに腹を開いた。包むのは冷めてからにした」


「早く冷ましてくれると助かる。熱がこもったままだと、ここへ持ってくる間にも肉が傷むからな」


 職人は肉を受け取り、レノルが広げた皮の切れと二本の角を確かめた。最後に硬貨を数えた。一頭を一日で持ち帰った分の重みが、掌から小袋へ移った。


 薬草の売り束は別の受け取り手へ渡した。外葉が揃い、根や若い葉が混じっていないことを確かめられる。こちらの硬貨はわずかだったが、断られるものはなかった。


 空になった背負い具を畳んだ時、道の少し先に見覚えのある大盾があった。


 朝待ち橋と谷で見た男が、加工を待つ荷のそばにいた。盾は壁際へ寄せられ、荷はその内側に収まっている。二人分の荷がすれ違える道幅を、盾の縁は少しも削っていなかった。人が一人、その前を振り返らずに通り過ぎる。


 レノルは同じ男だと見て取り、それ以上足を止めなかった。男も自分の荷を扱っている。レノルには、まだ終えていない自分の仕事が残っていた。


 宿へ戻る頃には、肩から荷の重さが消えた後の方が、脚の疲れをはっきり感じた。


 食堂の戸を押すと、豆の煮える匂いがした。空いた卓から鉢を下げていたダミラが、こちらへ顔を向けた。


「お帰り、レノル。どうだった?」


「一頭獲れた。売ってきたところだ」


「そりゃよかった。食べていくかい?」


「頼む、女将。腹が減った」


 レノルは背負い具を足もとへ下ろした。手を離すと、指にこびりついた汚れが目に入った。


「先に洗ってくる」


「そうしな。飯はその間に用意しておくよ」


 ダミラは鉢を重ねて厨房へ運んでいった。


 水で手と腕を洗い、遅い食事を済ませる。部屋へ戻って灯を机へ寄せ、長弓を床へ置いた。まず弦を外す。乾いた布で弓身を拭き、朝と同じ順で木肌を見た。弦には土も毛羽立ちもない。緩くまとめ、湿りの残らない場所へ置く。


 別に包んでいた矢を出した。鏃と箆を洗って拭き、灯にかざす。指で回しながら真っ直ぐを見て、筈と矢羽根を確かめる。鏃の根元に緩みはなく、石へ触れた傷もない。乾いたところで、残りの十七本と同じ袋へ戻した。


 四つの材料袋は口と中身を調べ、右胸の鞘から風切羽を抜く。折れも湿りもない。羽軸へ触れた指の跡だけを布でぬぐい、鞘へ差し戻す。自分で使うために水際で採った葉は布を開き、重ならないよう並べた。陰干しを終えるまでは、治療の小袋へ入れない。


 空の包み布を畳み、解体に使った刃物を研ぎ、背負い具の紐を緩めて定位置へ戻した。


 それで、朝に持ち出したものはすべて帰ってきた。使ったものは次に使える形へ戻り、乾かす葉がこれからの備えに加わった。肩と腿の疲れだけは残っていたが、それも眠れば明日には薄くなる。


 硬貨の入った小袋を机の端へ置く。今日の食事と宿を払い、明日の食べ物を買い足しても、いくらかは残る。大きな獲物を倒したわけでも、知らない土地へ踏み込んだわけでもない。それでも、朝に選んだ一日は、持ち帰る量を決め、手入れを終えた今まで途切れずにつながっていた。


 灯を落とす前、レノルは弦を外した長弓の両端をもう一度見た。


 次に弦を掛ければ、また外へ出られる。そのことが、一日の稼ぎと同じくらい確かだった。


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