最終話 昭久と希美の人生~桜舞い散る小春日和に~
それから、どれだけの年月が経っただろう。
長男が生まれ、2年後に女の子、更に翌年に男の子と女の子の双子が生まれた。
子ども達が大きくなるのはあっと言う間だった。
長男が結婚し、子供が生まれて孫を抱いたのがどれくらい前だったか。
長女も次男も次女も、立派に育って幸せな結婚をして、やがてその孫達にも結婚相手ができて、先日一番下の孫に子供が生まれた。
俺達夫婦は、今時珍しいくらいの大家族で一緒に暮らし、巣立っていった子ども達や、孫やひ孫に囲まれた幸せな人生を送り続けてきた。
そして……
桜が舞い散る小春日和。
俺はベッドの脇に腰掛けて、希美の手を握っていた。
つい先ほどまでひ孫達がはしゃぎ周り、笑い声が響いていた。
窓の外では、遅咲きの八重桜がまだ淡く色づいている。病室の中は静かで、時折、酸素マスクの小さな呼吸音と、遠くの廊下から聞こえる足音だけが響く。
希美の目は、もうほとんど焦点を結ばなくなっていた。それでも、俺の顔を捉えようとするように、ゆっくりと視線を動かす。
「…………あ……」
微かに動く唇から漏れ出る声に、懐かしさを覚える。
「アッ……君……」
「久しぶりだね、その呼び方は……何十年ぶりだろう」
夫婦となった俺達。いつしかお互いの呼び方は、「パパ」と「ママ」になり、「お前」と「あなた」になり、「婆さん」と「お爺さん」と変わっていく。
幼馴染みとしての「アッ君」と呼ばれるのは、実に数十年ぶりだった。
だけどその声はもう、風の音より小さかった。
でも、俺にははっきりと届いた。
「アッ君…」
頼りなく彷徨うしわがれた手を取って、頬に寄せる。
「俺はここにいるよ。ずっと、いるから」
俺は微笑んで、額を彼女の額にそっと寄せた。
枯れたような肌の感触が、懐かしくて、胸が締め付けられる。
長い沈黙の後、希美の瞳に涙が浮かんだ。
「……ありがとう。許してくれて……本当に、ありがとう……」
その言葉で、俺の胸の奥に65年前のあの夜がよみがえった。
彼女の声が、途切れ途切れに続く。
「あの日…… 私は、あなたを裏切りました。絶対に許せない男に、心を移してしまった……」
彼女の息が乱れる。
俺はただ、黙って手を握りしめる。
指の関節が白くなるほど。
「アッ君が、どんなに苦しかったか。
あの夜、あなたの背中が震えていたのを、私は忘れられない。
それなのに、アッ君は私を許してくれました。『これから一緒に生きよう』って、言ってくれました」
涙が、希美の頬を伝い、マスクを濡らす。
「結婚して65年……あなたは一度も、そのことを責めなかった。
子どもたちが笑うたび、孫たちが駆け寄るたび、
私は、あなたの優しさに、許しに、毎日、毎日、救われてきた」
実際は違う。俺は希美に怒りをぶつけたし、八つ当たりもしてしまった。
だけど希美は、それこそを求めていた。
「でも、心の底では、ずっと……許されてはいけないと思っていた。
自分が、自分を許せなかった」
声が、ますます弱くなる。
俺は深く息を吸って、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「希美」
俺の声も、少し震えていた。
「幸せでした……本当に本当に……幸せな人生でした……だけど、あなたの人生に汚点を残してしまった事だけが、ずっと心残りでした」
それはまるで最後の言葉であるかのような……。それが分かっているかのような。
だから俺は、今にも目を閉じようとしている妻に、万感の想いを込めた言葉を紡いだ。
「俺は、あのとき、許すって決めたんだ。半分は、君を失いたくなかったから。
半分は……俺自身が、完璧じゃない人間だって知っていたからだ」
希美の目が、俺をじっと見つめる。
「あの日、希美は自分の過ちに気がついた。
だからこそ、今がある。子ども達が生まれてきたのも、結婚できたのも、孫やひ孫達が幸せに暮らしているのも、あの日、あの時、希美が自分の過ちに気がついてくれたおかげなんだ」
俺は、希美の手に、自分の頬を寄せた。
涙が、ぽたりと彼女の指に落ちる。涙が止まらない。
希美の瞳からもまた、大粒の涙がこぼれ落ちてマスクの縁を濡らし、枕に染み込んでいく。
「だから、もういいんだ。全部、終わったことだ。
俺は君と出会えて、結婚できて、
この長い人生を、一緒に生きられて……
本当に、幸せだった」
希美の唇が、かすかに弧を描く。
頼りなく開かれた目蓋の奥で、あの頃と同じように輝く瞳が、俺を真っ直ぐに見つめる。
そこには、65年分の後悔と、愛と、感謝が渦巻いていた。
「……アッ君」
「もう、自分を許してやれ」
最後の呼びかけ。
心の全てを込めて、静かに、ただ俺の精一杯の真心を込めて、言葉を贈った。
「愛してるよ、希美」
「ありがとう……やっと、自分を許す事ができました。
愛してます……あなた……愛して……ま……」
指に絡めていた力が、ゆっくりと、完全に抜けていく。
俺は目を閉じて、彼女の手を胸に押し当てた。
心臓の鼓動だけが、部屋に響く。
「お休み、希美……。来世も一緒に……な」
そんな俺の言葉に、彼女の安らかな寝顔が応えているかのようだった。
窓の外では、桜の花びらが、静かに、静かに舞い続けていた。
まるで、二人の長い人生を、優しく見送るように。
(終)
※後書き※
最後まで読了いただき、誠にありがとうございます。
色々と物議を醸しましたが、2人の人生を最後まで幸せに描ききりたかった。
ご意見ご感想、プラス方面もマイナス方面も大歓迎です。
※ちなみに間男は絶望と苦しみの果てに死にました(笑)
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