神庭のゴーレム2
陽だまりのような温かさに包まれた緑の大地で目覚めてから、既に二週間の月日が流れていた。俺は青空を見上げながら、心の底から安堵のため息をついた。
「はっきり言って、ここは天国だ。」
呟きながら振り返る先には、なだらかな丘陵が続く美しい草原が広がっている。所々に点在する古めかしい石造りの建物群は、まるで絵本から飛び出してきたかのような幻想的な佇まいを見せていた。神庭の迷宮——この不思議な場所は、迷宮という名前とは裏腹に、訪れる者全てを優しく包み込む懐の深さを持っていた。
何より素晴らしいのは、この場所の管理者であるクラティオスの人柄だった。その陽気で心優しい性格は、異世界に放り込まれた不安を抱える俺にとって何よりの支えとなっていた。体長十メートルを超える巨大な体躯を持ちながら、時折見せる人懐っこい笑顔は、まるで大型犬のような愛らしさを感じさせる。
「今日の温泉はどうだった?」
クラティオスが近づいてくる。その巨体が地面を踏むたびに微かな振動が伝わってくるが、それさえも今では心地よいリズムに感じられるようになっていた。
「最高だよ。こんな贅沢、前の世界では考えられなかった。」
実際、ここでの生活は至れり尽くせりだった。天然温泉は複数箇所に点在し、それぞれが異なる効能を持っている。食事は三食きちんと提供され、しかもどれも絶品だ。宿泊施設も清潔で快適。そして何より、全てが無料だった。
唯一の不満があるとすれば——
「スマホとネット環境があれば完璧なんだけどな。」
前世での便利な生活を思い出し、苦笑いを浮かべる。とはいえ、それも些細なことに思えるほど、この場所は魅力的だった。
温泉に浸かりながら庭園を眺めていた昨日の夕暮れ時、奥まった場所に建つ荘厳な建物に気づいた。白い大理石で造られたその神殿は、他の建物とは明らかに一線を画す威厳を放っていた。高く聳える尖塔には複雑な紋様が刻まれ、夕日に照らされてほのかに白金色に輝いて見える。
好奇心に駆られてクラティオスに尋ねてみると、その表情が一変した。
「あそこには近づいてはいけない。」
普段の陽気さはどこへやら、珍しく真剣な口調で告げられた言葉に、それ以上は聞けない雰囲気が漂う。
「ミルエル様が封印されている。四季を司る神の力は強大すぎて、封印が破れれば大変なことになる。」
クラティオスの瞳には、深い悲しみのような色が宿っていた。まるで大切な何かを失った痛みを、今でも心に抱えているかのように。
それでも、クラティオスの優しさは変わらなかった。時折披露する意味不明なダジャレに頭を抱えることもあったが、その親切で勤勉な姿勢には心から感謝していた。朝早くから夜遅くまで、迷宮内の管理業務に励む姿を見ていると、この平和な環境がいかに彼の努力によって支えられているかがよく分かる。
神庭の迷宮は、一般的な迷宮のイメージとはかけ離れた場所だった。暗く狭い通路や危険な罠は存在せず、代わりに広大な草原が四方に広がっている。そこは多種多様な魔獣たちが生息する——いや、より正確に言えば「住んでいる」場所だった。
朝の散歩中、ハマーは様々な魔獣たちと出会った。翼を持つ美しいペガサスの群れ、角の立派なケンタウロスの戦士、そして愛らしい妖精のような小さな竜たち。彼らは皆、外の世界から流れ着き、この場所に安住の地を見つけたのだという。
「なぜここに留まるんですか?」
若いケンタウロスに尋ねると、彼は誇らしげに胸を張った。
「ここは安全で、それでいて自分を鍛えることができる最高の環境なんだ。クラティオスのおかげでね。」
確かに、迷宮内では争いが起きることはほとんどない。それは単なる平和主義ではなく、秩序立った共存のシステムが確立されているからだった。その中心にいるのが、やはりクラティオスだった。
平穏な日々を過ごすうちに、ハマーはこの迷宮独特の娯楽文化に触れることとなった。その頂点に君臨するのが「神庭相撲」だった。
円形に区切られた直径二百メートルの巨大な土俵。その中央で繰り広げられる一対一の真剣勝負は、まさに圧巻の一言に尽きた。魔力と肉体のみを武器とし、相手を土俵外に押し出すか、地面に倒すかで勝負が決まる。殺傷は固く禁じられているものの、その迫力は想像を絶するものがあった。
「うおおおおおお!」
観客席から響く興奮した歓声が、土俵全体を包み込む。ジグの大森林から集まった力自慢の魔獣たちが、己の実力を証明するべく熱戦を繰り広げていた。
この相撲には厳格な番付制度が存在した。最高位の「天冠」を頂点とし、「崇王」「神翼」「列牙」の三役が続く。そして一般的な力士階級である「霊紋」があり、その下に位置するのが新人階級の「霊苗」だった。
「霊紋になれれば一人前として認められるんだ」
ドラムが得意げに説明してくれた。彼は先日、見事に霊紋の地位を獲得した新進気鋭の力士だった。体格は決して大きくないものの、俊敏性と技術で勝ち上がってきた努力家である。
そして当然のことながら、ハマーは最下層の霊苗階級に位置していた。
「正直言って、やる気が起きないんだよな」
本音を漏らすと、シドが呆れたような表情を向けてきた。
「ハマー、真面目にやらないと待遇が良くならないよ。もっと良い温泉に入りたいし、もっと美味しいご飯も食べたいでしょ?」
確かにその通りだった。番付が上がれば、より豪華な設備を利用できるようになる。だが——
「でも、さっきの闘いの賭けに勝ったから許してあげる」
「賭け?まさか、お前‥‥‥」
先ほどのドラムとの取組で、ハマーは神力の解放を意図的に制限されていた、不正だ!神庭相撲協会の審判団に報告だ!!!
「はっきり言って、ここの住人はめちゃくちゃ強い。俺たちごときじゃ、百年かかっても一勝もできないかもしれない」
その言葉には、この迷宮のレベルの高さを物語る重みがあった。
「そうだね。思ったよりもハードルが高いかも。この世界で生きていくためには、基礎的な能力をもっと高めないと」
「けっぱれハマー!!!」
「なんか腹立つなお前..‥‥‥」
まあ、死なない程度に頑張ってみるか。そう心に決めた時だった。
「それではああああああああああああああああ!」
突然響いた大音量のアナウンスに、ハマーは飛び上がった。
「千秋楽結びの一番んんんんんんんんんんんんん!」
興奮で震え上がる司会の声が、迷宮全体に響き渡る。
「西の天冠、我らが【守護者】クラティオスとおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
観客席が割れんばかりの歓声に包まれる中、クラティオスがゆっくりと土俵に上がった。普段の人懐っこさはどこへやら、その表情は真剣そのものだった。
「東の天冠、【超獣】ベリオンんんんんんんんんんんんんんん!!!」
対する東側から現れたのは、全長二十メートルを優に超える巨大なカバだった。鉄皮河馬という稀少な種族で、その分厚い皮膚は鉄のような硬度を誇るという。亜神上位クラスの実力を持つと噂される圧倒的な存在感を放っていた。
ただし——
「ズルズルズルズルズルズルズルズルズルズル!!!!!」
常に鼻水を垂らしているその姿は、威厳というよりも親しみやすさを感じさせた。蓄膿症に悩まされているらしく、その巨体に似つかわしくない可愛らしい一面を持っていた。
「久しいなベリオン」
クラティオスが静かに言葉を掛ける。
「今回も私が勝たせてもらう。私を庇う必要は無い。全力でかかって来い!」
ん?
「相変わらずだなクラティオス。」
ベリオンが鼻水を垂らしながらも、その瞳には闘志の炎を宿していた。
「今日こそお主を倒し、我が最強ということを証明してやる。」
「ここからの司会は、先日霊紋に昇格したドラムがつとめさせていただきます!!!」
会場が今日一番の大歓声に包まれる。神庭相撲の頂点を決める一戦。全ての視線が土俵に注がれた。
「レディー‥‥‥」
ドラムが緊張で声を震わせながら、開始の合図に備える。
「のこった!!!!!」
相変わらずシャキッとしない号令だったが、その瞬間、戦いが始まった。
「ふん!ぶひいいいいいいいいいいいいい!!!」
鼻詰まりのベリオンが、号令と同時に突撃を開始した。その巨体からは想像できないほどの俊敏性で、まるで砲弾のような勢いでクラティオスに向かって行く。地面が振動し、砂煙が舞い上がった。
「すげえ‥‥‥」
ハマーは息を呑んだ。あの巨体でありながら、その速度は目で追うのがやっとだった。
クラティオスもそれを正面から受け止める構えを見せた。十メートル近い大きさを誇る彼でさえ、ベリオンの質量の前では分が悪いように見えた。
「私は迷宮の守護者‥‥‥」
クラティオスの声が、土俵全体に響く。
「結構しゅごい!」
ん?
その時、クラティオスの背中が突然変形を始めた。まるで機械のパーツが組み替わるように、複雑な構造体が展開されていく。
「うおおお!かっこいい!」
ハマーの隣でシドが目を輝かせていた。確かに、それは前世で流行したロボットアニメを彷彿とさせる変形機構だった。少年心をくすぐるそのデザインに、ハマーも心を躍らせずにはいられなかった。
変形した推進装置から、大量の白いオーラが噴出し始める。それはまるで翼のような美しい形状を描きながら、クラティオスの全身を包み込んでいった。
「ぶひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」
ベリオンが必死に抵抗するが、その巨体をもってしても、クラティオスの圧倒的な推進力には敵わなかった。
「ぶひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」
断末魔のような鳴き声を上げながら、ベリオンの巨体が土俵外へと押し出されていく。
「勝者は西の天冠、クラティオスだああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
会場が割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。その光景を見つめながら、ハマーは心の中で静かに決意を固めた。
よし、次回の神庭相撲が開催される前に、ここを出よう




