せっかちニコチン
ここはウミヘビ幼稚園。
有毒人種ウミヘビの育成を目的とした施設。と言うと堅苦しいが、平たく言うと外見も精神年齢も幼い五歳児の面倒を見る、託児所である。
そんなちびっ子が集う幼稚園では、今日もどこかでトラブルが起きる――
「こら、ニコチン。今後ろに隠した物を出しなさい」
幼稚園の庭園の端っこ、塀の側では、きゅっと横一文字に口を結び両手を後ろに回したニコチンが、モーズ先生に詰め寄られていた。
逃げきれないことを悟ったニコチンは、無言で右手を前に出す。そこにあったのはライターだ。幼いウミヘビに火器の持ち込みなんて許可されていないし、そもそも支給される事などないのだが、恐らく職員室に忍び込んで盗んでいたのだろう。
先日、燐のお願いを快諾し庭園で花火を盛大に打ち上げ、ユストゥス先生に大目玉を受けていた、カール先生の机を漁ったのだと予想がつく。
後で確認しなくては、と考えながらモーズ先生はニコチンの手からライターを回収すると、ひとまずポケットにしまった。
「……じゃ」
「待ちなさい。もう片方の手も出すんだ」
用は終わったからと、そろそろと横に移動し、この場から離れようとするニコチンを止めるモーズ先生。
「タバコ、持っているのだろう?」
モーズ先生がニコチンから回収したかったのはライターだけではない。寧ろタバコが本題だ。
滑り台や登り棒がついた大型遊具の陰に隠れて、ニコチンはタバコを吸おうとしていた。
しかし幾ら有毒人種といえど、五歳という幼い身体で喫煙はさせられない。体内の毒素の調整が狂い、簡単に中毒に陥るからだ。尤もモーズ先生は幼児が喫煙をするという図からしても抵抗感があるので、どっちにしろ咎めただろうが。
モーズ先生はしゃがみ込み、ニコチンと目線を合わせて話を続ける。
「栄養は食事で過不足なく摂れているだろう。おやつもあるんだ、口寂しいのなら……」
「……チッ」
「あっ、こらニコチン! 待ちなさい!」
ダッと走り出し、逃走を開始したニコチン。
幼児といえど人間よりも優れた身体能力を持つウミヘビであるニコチンは、モーズ先生からあっという間に距離を離してしまい、他のウミヘビ達に紛れ込んだ後、どこかに姿を消してしまった。
「あぁもう、どこに行ってしまったんだ」
直ぐに立ち上がって追いかけたものの、完全にニコチンを見失ってしまったモーズ先生は困り果て、フェイスマスク越しに額に手を当てたのだった。
◇
(ライターがとられちまった……)
ウサギさんデザインのロッキング遊具横に座り込み、左手に握っていたタバコの箱をじっと見詰めるニコチン。
折角、一服できるチャンスだったというのに、その機会を潰されてしまい、またきゅっと口をキツく結ぶ。
(もういっかい先生のヘヤに……。いやもう、タイサクされているか)
生真面目が服着て歩いているようなモーズ先生の事である、ニコチンを見失ったと判断すれば他のクスシへの報告を優先しているはずだ。
(……。いいや、このまま食べちまおう)
このまま所持しても自由時間が終われば、持ち物点検で没収されてしまうのが目に見えている。
喫煙時の幸福は得られないが、仕方がない。オヤツにはなる。
ニコチンはタバコの箱を開け、中の一本を口の中に放り込もうとした時、右手を掴まれてぐいと上に引っ張り上げられた。
「あっ!」
「やっと見付けた」
いつの間にかウサギさんロッキング遊具の反対側に現れたモーズ先生が、ニコチンの手を掴んだのだ。
今まで必死に探していたらしい彼は肩で息をしている。そしてそのままニコチンからタバコとその箱を没収してしまった。
「返せっ!」
「元々これは君の物ではないだろう? 出所はフリードリヒ先生辺りか……?」
モーズ先生の足元でぴょんぴょんと跳ね、懸命に手を伸ばすニコチンだが、身長も手の長さも圧倒的に足りていない。
それでも諦めきれないニコチンはモーズ先生のズボンを握り締め、ぎっと睨み付けた。
尤も幼児に睨まれて怯むモーズ先生ではないが。
「はぁ。どうしてもと言うんなら、おいで」
没収したタバコをポケットにしまった後、モーズ先生は左手を伸ばし、ニコチンの右手で繋ぐよう促す。
ニコチンはムッとして両手を後ろに回したが、「ほら」と催促され、モーズ先生が一切引く気がないのを察し、渋々手を繋いだ。
ニコチンの小さな手を引いて、モーズ先生は歩き出す。
「君はどうして執拗にタバコを求めるんだい? あの必死さ。本能的に欲しいから、だけじゃないだろう?」
「……お前ぇにゃ関係ねぇだろ」
「ニコチン。私はクスシとして、君の健康を管理するのも仕事なんだ」
「べつにタバコの一本ぐらいでどうこうなんねーよ。じっさい、他のクスシは気にしてなかったろ。シンジンだから知らなかったか?」
「……心配なんだ、中毒で君が倒れてしまうのが」
ニコチン中毒に陥れば痙攣や呼吸困難で苦しむ事となる。許容量が不安定な中、モーズ先生は万が一を考えてしまうと、とても放ってはおけなかった。
健康を管理するのも仕事、なんて建前で、本音はこちらだ。
「しかし理由がわかれば手を貸せる。違うか?」
不服そうな顔で手を引かれているニコチンは、モーズ先生の問いかけに対し、口をきゅっと結んで答えない。
これでは駄目か、とモーズ先生は諦めそうになったが……。
「……毒」
「うん?」
不意にポツリと、ニコチンは言葉を溢してくれた。
「毒? 毒が、どうしたんだ?」
「たくわえたら、強くなれるだろ」
「強くなれる……」
それはつまり、ドーピングをしたいという事だ。
「おれはアセト守んなきゃいけねぇんだ。パラチオンもけちらせるようになんなきゃ、ダメなんだ」
「ニコチン、他の子にちょっかいを出されたとか、困った時は先生を呼びなさい。あと今の君が毒を蓄えても、強くはなれないよ」
「え……」
「身体が未発達だからね。寧ろ弱くなってしまう。毒の濃縮ができるのは、もう少し大きくなってからだ」
「……」
モーズ先生の答えを聞いて、ニコチンは再び無口になってしまった。顔には出ていないが落ち込んでいるのだろう。
「ニコチン、焦らなくても大丈夫だ。沢山食べて寝て、元気に遊んでいればいずれ身体の基礎ができる」
モーズ先生は一方的に話しながらニコチンを職員室へと招くと、自分のデスク脇にかけていたビジネスバッグを手にし、蓋を開ける。
「ほら。それまでコレで我慢してくれるかい?」
そしてニコチンに渡されたのは、コーヒー味のラムネ菓子であった。
「コーヒー、好きなんだろう?」
「いいのかよ。クスシがウミヘビにシブツわたしちまって」
「はは。心配してくれてありがとう。大丈夫だ、園長から許可は頂いている。君は三時に配られるオヤツに殆ど手をつけないだろう? 糖分が足りていないから余計にタバコを求めるのかもしれない、と相談したらあげるのを認めてくれたよ」
「……」
ニコチンは無言でシガレットの箱を受け取り、包装を開け中から一本取り出し、口の中に放り込む。
そしてポリポリと音を立てて食べ始めた。
「苦ぇ、けど、甘ぇ」
赤い目をムッと細め、不満そうに。
ニコチンは甘い味が嫌いなのだ。
「比較的甘みは抑えてある方だが、砂糖菓子だからね。しかし砂糖も栄養。強くなる為だと思って」
「けっ」
「駄目か?」
ニコチンの評価があまりよくなかった事に、モーズ先生は頭を悩ませている。しかしめげてはいない。新人として試行錯誤するのは日常茶番時だからだ。
「うぅん。では明日は、ビターチョコレートでも持ってこよう」
「いちいちかまわなくていいだろ。ほうっとけっての」
「それは出来ない相談だな。ほら、食べ終わったらアセトアルデヒドの元に行こうか」
「……ん」
ニコチンはシガレットの箱を握りしめ頷く。
なお最終的に、ニコチンはシガレットを全部食べたのだが、モーズ先生がそれを知るのはウミヘビの自由遊び時間が終わった後である。
ここはウミヘビ幼稚園。
今日もどこかでちょっと大変な、だけど平和なトラブルが起こる憩いの場。
ちなみに職員室のデスクにライターを持ち込みっぱなしだったカール先生と、ニコチンの気持ち優先でタバコを持ち込んでいたフリードリヒ先生は、ユストゥス先生に閉園後たっぷり絞られる事となるのだが、それはまた別のお話。