✤狂気と正気✤
僕がぼんやり見ていると、玖月善女さまは自分の指をガリガリ噛んで、そこから滴り落ちる真っ赤な血液をそこら中に擦り付け始めた。
「お、おぉ……おやめ下さい! おやめ下さい。玖月善女さま! お手が、お手の傷が拡がりまする!
歯痒いのは我々も同じでございます!
誠実であられたあの盛誉さまが、よりにもよって謀反の罪など……そんなことはあるはずもございませんのに、あのようなお亡くなり方をするなど……」
侍女の言葉に、玖月善女さまがピタリと止まる。
「そうであろ? あの子は幼い頃から優しい子であった。
湯山の次男として生まれなければ、幸せであったろうに……。それなのに、この私が産み落としたばっかりにっ!」
叫びながら玖月善女さまは、再びギリギリと自分の指を噛み始める。先程とは勢いが違う。
まるで指を落としかねないその勢いに、傍にいた誰もが悲鳴を上げた。
「お、おやめ下さい……!そのような事はございませぬ!
確かに盛誉さまは幼き頃より出家されましたが、それを恨むようなことはありませんでした! むしろ今は幸せだと、そう、仰っておいででしたではないですか!」
玖月善女さまの手と口を離そうと、間に自分の手を差し込みながら侍女は続ける。
「それに玖月善女さま? このようなことをされても、盛誉さまは悲しまれるだけにございます……。
盛誉さまは、誰よりも母君である玖月善女さまのことを大切に想われ、幸せであって欲しいと仰っていたではありませんか!」
けれど玖月善女さまはその手を振り切り、再びギリギリ指を噛みちぎる!
ガリッ──!
嫌な音が響いた。
「!」
侍女の声なき悲鳴が空気を震わせる。
「私の、……私のこの指がいけないのです。
もっと、もっとあの子の気持ちを汲んでやれば良かった。
あの時出した文に、もっと強く『逃げよ』と書くべきであったのに! この手、この指が憎い。
幼いあの子を手放して寺に預けたこの手が憎いぃぃ……っ!
盛誉は、……あの子は私が年老いて産んだ子……。宗昌とも歳は十以上も離れていたではないの! なにも出家などさせる必要などなかった。
家督争い?
そのような心配、ありはしなかった。あの子が宗昌と争うなど、そんなことありはしなかったのに……っ!」
「お、……お、落ち着いて……落ち着いて下さいませ。玖月善女さま。あの事は仕方なかったのです。
御館様であられる相良義陽さまと頼貞さまの事がありましたゆえ、慣例に倣っただけのこと──」
「慣例、慣例、慣例……っ! そんなモノ私には関係ない!
その慣例のお陰で私たちは引き離され、死に直面したあの時でさえも、私はあの子に会うことすら叶わなかったのですよっ!
あぁ……あの子……あの子に最後に会えたのは、いったいいつの事でしょう? あの子はどんな最期を迎えたの? 一人寂しく死んでしまったの?
私は最後の最後まで、あの子をひとりぼっちにさせてしまったの……っ?」
視点の定まらない玖月善女さまの目が、僕を捉える。
「あ……。玉垂……っ!」
『!』
僕はビクッと飛び跳ねる。
今、玖月善女さまに近づくのは危険なような気がした。
『にゃ……』
僕は逃げるか逃げまいか迷った。
けれど鬼のようなその形相は、僕の姿を確認するとフワッと霞のように消えたんだ。
『……』
「あぁ、玉垂。玉垂 玉垂……」
玖月善女さまはよろけながら僕の傍まで来ると、ギュッと抱きしめてくれた。
ひどく優しい抱擁だった。
「私の大切な玉垂。
お前のご主人さまは、お亡くなりになられたのよ? 知っていて?
憎き相良の手下の手に掛かり、寺を焼かれてしまったの……」
ブルブルと震える玖月善女さまが、僕にはとても小さく感じられた。
傍目には、玖月善女さまは狂ったように見えた。相良家を呪っているようにも見えた。
けれど僕の目には、そうは見えなかった。
玖月善女さまは、なにかに気がついて、小さく僕に呟いた。
「……玉垂に、血? まさか怪我を……」
『……』
他の誰にも聞こえないほどの、小さな声だった。
僕が怪我? そんなわけない。ずっと部屋に篭ってたんだよ。玖月善女さまと一緒に。
外に出たのだってついさっきで、怪我をするような事なんて何一つしていない。
と言うか僕に【血】はついていない。
付いていると言うなら、それは今、玖月善女さまがつけた自分の血液と……あとその他はあの時だ。
盛誉が討たれたあの時。僕には確かに盛誉の血が付いた。
けれどそれはもう、ずいぶん前の話だ。
あのあと僕は毛繕いをしたし、それからもう ずいぶんと日は経っていたから、玖月善女さまが僕についた盛誉の血液に気づくはずはない。
けれど玖月善女さまは、微かに残る盛誉の残り香とも言うべきその血を、見逃さなかった。
……どうしてそんな事が出来たのか……なんて分かるわけない。
もう本当に、おかしくなっていたのかも知れない。だけど玖月善女さまは驚いたように息を呑んで、それから僕に、そっと尋ねた。
「お前はもしかして、盛誉に出会えたの……?」
全く疑っていなかった。
その目は真剣で、僕に盛誉の血がついているのだと、確信した目だった。
『……』
玖月善女さまのその真剣な眼差しに射抜かれて、僕は思わず返事をする。
『にゃあ』
僕はちょっと焦る。『にゃあ』なんて言ったって、通じるはずもない。
ううん。通じたとしても『ずるい!』って言われるんじゃないかって思ったんだ。
……だって実際、ずるいだろ?
玖月善女さまは盛誉に会えなかったんだから。
盛誉の最期を見届けられなかったから。
僕は顔を背ける。
盛誉のお母さんである玖月善女さまを差し置いて、こっそり会いに行ったのがバレたんだとそう思って、バツが悪かった。
ごめんなさい。
ごめんなさい。玖月善女さま……。
だけど違った。
玖月善女さまは、顔をクシャクシャにして涙を流して喜んだ。
「良かった。
……良かった! あの子は一人で逝ったのではなかったのね」
そう言って。
『にゃ……あ』
そうだよ。
盛誉は僕と少し話をしてから死んでしまったんだ。
お母さんの玖月善女さまのことを最後まで心配しながら……。
そうか。
玖月善女さまはその事が、……その事だけが口惜しかったんだ。
僕はそう理解する。
誰も看取られず ただ一人、罪なき罪を背負って愛する我が子はあの世に旅立って逝ってしまったのだと、玖月善女さまは心を痛めていたんだ。
だから僕の返事で、玖月善女さまの心が少し和らいだ。
そしてその言葉に、僕も救われた。
少しは盛誉の役に立てたんだって。そう、思えたから。
『……』
そりゃね、玖月善女さまはそう思い込みたかっただけかも知れない。
だって、猫の言葉なんて、分かるわけないし、実際 盛誉の血なんて、僕にはもう付いているハズもなかったんだから。
もしかしたら、みんなが言うように、玖月善女さまは、この時 狂っていたのかも知れない。
だけど僕への言葉はしっかりしていて、僕にはとてもそんな風には思えなかった。
僕は嬉しかった。
何も出来ない猫だったけれど。
遺体も運べなかった僕だけれど。
それでも少しは盛誉、喜んでくれたのかなって。
一人で旅立たせることがなくて、本当に良かったって。
……僕はそう、心の底から思えたんだ。
× × × つづく× × ×
┈┈••✤••┈┈┈┈••✤ あとがき ✤••┈┈┈┈••✤••┈┈
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