第1話 水底からの目覚め
冷たい。寒い。
肺の奥にまで水が入り込んでくるような、息苦しさに意識が沈む。
誰かが叫んでいる。遠くで、必死に。けれど、その声は水越しに聞くようにくぐもっていて、うまく聞き取れない。
(……なんだ、これ)
俺は、確か――病室のベッドにいたはずだ。白い天井、消毒液の匂い、規則的に鳴る機械音。いつもと変わらない、味気ない日常の中に。
それなのに、どうしてこんな場所にいる?
(……ああ、そうか)
ぼんやりとした思考の中で、一つの可能性が浮かぶ。
(俺、死んだのか)
幼い頃から身体が弱かった。入退院の繰り返し。外で遊ぶことも、遠くへ出かけることもできず、ただベッドの上で時間を潰すだけの毎日。
テレビや本の中の世界が、俺にとってのすべてだった。
もし健康な身体だったなら。
あの場所へ行ってみたい。この景色を自分の目で見てみたい。その土地でしかできないことを、思う存分味わってみたい。
そんな願いを、何度も何度も胸に抱いて――結局、一度も叶わないまま。
(……終わり、か)
意識が沈む。
冷たい水の底へと、引きずり込まれるように。
その時――
強い力で、身体が引き上げられた。
肺が焼けるように痛み、空気が一気に流れ込んでくる。
「――っ、はぁ……!」
激しく咳き込みながら、俺は意識を浮上させた。
――次に目を覚ました時、そこは見知らぬ部屋だった。
「ん……ここは……?」
重い瞼を持ち上げ、ゆっくりと周囲を見回す。
広い部屋だ。天井は高く、壁には精巧な装飾が施されている。置かれている家具も一目で高価と分かるものばかりで、病院の無機質なベッドとはまるで違う。
(……病室、じゃない)
そもそも俺は個室ではなく大部屋だったはずだ。こんな豪奢な部屋にいる理由がない。
(じゃあ、ここはどこだ?)
状況を理解しようとした、その瞬間。
頭を割られるような激痛が走った。
「――っ!」
思わず声にならない悲鳴が漏れる。
視界が揺れ、次々と見覚えのない――いや、見覚えがあるような記憶が流れ込んでくる。
鑑定の儀。
水晶に手を触れた瞬間の緊張。
周囲の期待。
そして――告げられた結果。
『火魔法の適性なし』
ざわめき。失望。困惑。
表示された適性は、魔眼、空間魔法、テイム、召喚魔法。
だが、それは意味を持たなかった。
なぜなら――
俺は、火魔法を持つことを前提に生きてきたからだ。
ジェノーバ王国、四大公爵家の一つ――ランハード家。
その長男として生まれた俺は、物心ついた頃から「次期当主」として育てられてきた。
代々、火魔法の適性を持つ者が当主となる家系。
当然のように、自分もそうなると信じていた。
勉学も、礼儀作法も、すべてはそのために。
父のように、領民に慕われる当主になるために。
努力してきた。必死に。
それなのに――
『適性なし』
その一言で、すべてが崩れた。
自分が積み上げてきたものが、何の意味もなかったように思えて。
気づけば、俺は屋敷の池へと身を投げていた。
(……そうだ、俺は)
そこで、ようやく理解する。
(池に、飛び込んだんだ)
そして同時に、もう一つの記憶が重なっていた。
病室。白い天井。外の景色。
旅行への憧れ。
(……前世)
ゆっくりと、すべてが繋がっていく。
俺は、二つの人生を持っている。
病弱で何もできなかった前世と、公爵家の長男として生きてきた今世。
その二つが、今この瞬間に重なったのだ。
混乱の中で呆然としていると、コンコンとノックの音が響いた。
扉が開き、メイド服の女性が顔を覗かせる。
そして、俺と目が合った瞬間――驚愕に目を見開いた。
「……っ!」
彼女は何も言わず、慌てて部屋を飛び出していく。
(……誰だ?)
いや、違う。知っている。
あれは――専属侍女のエリーだ。
記憶が、確信へと変わる。
数分後。
再び扉が開き、先ほどの侍女と共に男女が入ってきた。
「レオルド! 良かった……目が覚めたのね! 私が分かる?」
女性が駆け寄り、心配そうに顔を覗き込んでくる。
この人は――母上だ。
「は、い……はは、うえ……」
声がかすれる。うまく言葉が出ない。
「良かった……本当に良かったわ」
安堵したように微笑み、すぐに侍女へ指示を出す。
水を差し出され、ゆっくりと口に含む。
乾いた喉に染み渡り、少しずつ声が戻ってくるのを感じた。
やがて医者も到着し、簡単な診察が行われる。
「熱も下がっております。このまま安静にし、栄養を取れば数日で回復するでしょう」
「そう……ありがとう」
母上は深く頷き、安心したように息を吐いた。
「レオルド、あなたは三日間眠っていたのよ。無事で本当に良かった」
三日間。
思っていたより長く意識を失っていたらしい。
やがて母上と医者は部屋を出ていき、残されたのは父上とエリーだけになった。
父上がゆっくりと口を開く。
「レオルド……無事で良かった」
その声には、安堵と――どこか複雑な感情が滲んでいた。
「火魔法の適性がなくとも、お前は私たちの子だ。変わりはしない」
静かに、しかしはっきりと告げられる。
「爵位を継ぐことはできない。だが、お前は優秀だ。王宮で文官として生きる道もある」
それは、十分に恵まれた未来だった。
普通なら、喜ぶべき話だ。
けれど――
「……はい」
自然と頷きながらも、胸の奥に小さな違和感が残る。
父のようにはなれない。
その事実が、まだ完全には受け入れられていないのだろう。
父上は続ける。
「これからは、この家に縛られずに生きなさい。やりたいことがあるなら、できる限り叶えてやる」
その言葉に、ふと前世の記憶がよみがえる。
ベッドの上で見ていた世界。
行きたくても行けなかった場所。
触れることのできなかった景色。
そして――
ずっと抱いていた願い。
「……旅を、してみたいです」
気づけば、口にしていた。
父上は一瞬きょとんとした後、ふっと笑った。
「旅か。いいね」
どこか楽しそうに頷く。
「体調が戻ってから、ゆっくり考えよう。今は休むことが先だ」
「……はい」
優しい声音に、胸がじんわりと温かくなる。
本当に、恵まれていると思う。
こんなにも優しい両親に恵まれて。
やがて父上も部屋を後にし、静寂が戻る。
広い部屋に、一人。
天井を見上げながら、ゆっくりと息を吐いた。
前世では叶わなかった願い。
今世では、縛られることなく生きていいと言われた。
「……ああ」
小さく、呟く。
「俺は――自由に生きたかったんだ」
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