第8話 空に想う
明け方、トワは1人散歩をしていた。
ザアザアと降る雨とひゅうと吹く風の音だけが静かに響いている。
未だやむことのない空を見上げながら、300年前のことを思い出す。
それはトワが研究所に入って間もない頃のこと。
両親に会えない悲しみから夜な夜な涙を流すトワに優しく寄り添ってくれたユリウスのこと。
兄のように慕い、自身を命懸けで助けてくれた恩人の姿は昨日のことのように瞼の裏に浮かぶ。
クリスに出会う前、トワは今日のようにユリウスのことをよく思い出していた。
今は亡きユリウスの元へ逝くこと、それだけが生きる、そして死を目指す原動力だった。
最近は旅の仲間が増え、騒々しさからこのように1人で静かな時間を過ごすことはなかったが、今でも胸にある思いは変わらない。
変えてはいけない。
これから数十年、数百年と経った時、それでもまだトワを動かすのは原点となるユリウスへの誓いだろう。
今この瞬間を共に過ごす人々への思いはきっと数十年後には重い枷になる。
枷は1つでいい。
それでも、今胸の中に膨らみ始めたこの感情に整理をつけるのはもう少し先で良いはずだ。
トワは少し前まで考えもしなかったわだかまりを胸の奥にそっとしまう。
しばらく歩いたトワの目の前には、村の北側から東へかけて続く崖があった。
「ここから落ちたらさぞ痛いだろうな……」
自分の発言の異常さをトワは自覚している。
だからこそ、ここへやってきたのだ。
崖下を覗き込むと、底は遥か彼方で何も見えず暗闇が広がっていた。
じっくりと全てを飲み込むような黒を見つめると、トワは帰路についた。
来た時と同じか、それ以上にゆっくりと歩く。
今度は足元の水溜りを眺めながら、ジェシカのことを思い浮かべる。
周囲を癒し、温かい気持ちにする笑顔を。
自らの恐怖や悲しみを押し殺して大切な人のために戦う心を。
決して大切な人の前では見せなかった涙を。
ジェシカの命が救われないなどあってはならない。
トワは恨みがましく空を睨む。
それを嘲笑うかのようにびゅうびゅうと風が一層強くなる。
長くしなやかな銀髪がふわりと宙に舞う。
悪戯な風を見送るとトワはふっと笑った。
「きっとエマは怒るだろうな。レオンハルトは好きにしろという。クリスは……困るんだろうな」
目の前のジェシカに過去の自分を、空の彼方のユリウスには今の自分を重ねるとトワの顔は晴れやかになった。
「少し早いけど3人には起きてもらおう。ちゃんと話をしないとな」
***
トワは家へ戻ると、ジェンセンが起きないように気をつけながら、3人だけを起こして家の外へ連れ出した。
本来なら朝日が昇る時間帯だが、雨雲に覆われて太陽も見えない村の空は暗く、時間感覚を狂わせる。
「こんな朝早くにどうしたの?」
エマは眠い目をごしごしと擦っている。
「見ての通り、雨は相変わらずふり続けている」
打ちつける雨は心なしか弱まっているようにも感じられる。
しかしそれが淡い願望による勘違いではないと言い切れるほど確かな変化は無い。
「このままではジェシカは予定通り今日、生贄に捧げられてしまうだろう」
もともと望みが薄かったとはいえ、昨日皆で力を合わせて成し遂げたことが何の意味も持たず、助けにならないことが残酷に突きつけられる。
三者三様ではあるが、それぞれに落胆の色が見受けられる。
「そこでひとつ私に考えがある。ちょっと耳を貸してくれ」
トワの言葉を受けて、他の誰に聞かれるわけでもないが内緒の話をするように3人は顔を近づけ耳を傾ける。
「私がジェシカの代わりになる」
3人に緊張が走る。
目線だけ動かしてお互いの反応を伺う。
「それって……」
最初に声を出したのはクリスだった。
「想像の通りだ」
「いくら死なないからってあの高さを落とされたら無事じゃすまないよ!」
「無事じゃなくて死ねるならそれはそれで本望だ」
トワはおどけてみせる。
「冗談じゃないよ」
クリスは笑えず、トワを見つめる。
「冗談じゃないぞ」
答えるようにトワも真剣な表情に戻る。
「私は元々死にたくて各地を旅してきたんだ。ここまでの高さから落下したことはないからな。もしかしたら死ねるかもしれないし、死ねなかったらまた旅を続けるだけだ。何よりジェシカの命は救われる」
「そんなの絶対おかしいよ!」
エマの眠気は完全に吹き飛んでいた。
「間違ってるのはあの村長やこの村の人たちなんだよ。トワがそれを背負う必要ないしもちろん、ジェシカちゃんも生贄になんかなる必要ない!こんな村見捨ててジェシカちゃんも連れ出そう」
「次に向かう場所も決まっていない、大したお金も持っていない、ましてや不法入国してきているような私たちがあの子の人生を背負えるのか? それは結局問題をすり替えて先延ばしにするだけでしかないと私は思う」
「でも……」
エマはその先の言葉を見つけられなかった。
「本当にそれで良いのだな」
レオンハルトは強い眼差しをトワに向ける。
「ああ」
「ならば止めはしない。私が君の立場だったとして同じ決断ができるとは言い切れない。それ程までの覚悟をもった決断に私は敬意を表する」
「……ありがとう」
思いがけない褒め言葉にトワは少し戸惑った。
未だ納得いかない様子のクリスとエマだったが、トワを納得させられるだけの代案は出てこなかった。
轟々と風が駆け抜ける。
横に打ちつける雨が4人の顔を濡らした。
「おーい、お前ら何やってんだよ? 朝飯にしようぜ」
ジェンセンが扉から半分体を出して手を振る。
「今行く!」
トワはこの空気から逃れるように風に逆らって家へ向かった。
***
「そういうわけで私がジェシカの代わりになることにした」
朝食後、ジョン、ジャック、ジェームズも集まった場でトワは宣言した。
エマはやはり納得していなかったが、トワに押されるがままジェシカと雨の中の散歩へと出ていた。
「そんなことしたらお前さんが死んじまうだろ」
ジェンセンを始め全員が当然の反応を見せる。
「そこは実は策があるんだ」
「なんだよ? その策って」
「悪いが今は話せないんだ。話してしまうと失敗の危険が出てきてしまう。すまないが堪えてくれ」
トワは得意の出まかせを繰り出す。
多少無理がある内容に聞こえたが、ジェンセンたちを納得させるには十分だった。
「わかった。ジェシカのためにそこまでしてくれてありがとうな」
ジェンセンはトワの頭をポンと叩く。
何も知らないジェンセン達から見れば、トワはジェシカとあまり年の変わらない少女だった。
「ジェシカの雨具を借りるぞ。フードをかぶって、なるべく顔を見せないようにする」
「儀式の生贄なのにそんな格好でいいんすかね?」
「所詮思いつきで始めた歴史も根拠もない儀式です。衣装にとやかく言われる可能性は低いでしょう」
「じゃあそれで決まりだな。ジェシカには何も知らせず家の中にいてもらおう。今みたいにエマについてもらっていれば安心だろう」
こうして儀式の時間を待ちながらトワたちはジェシカの替え玉作戦を実行する準備を進めた。
***
「本当にいいの?」
クリスがトワに最後の確認をする。
いよいよ儀式の時間となり、トワは家を出る準備をしている。
エマとレオンハルトはジェシカを連れてジョンの家に身を隠していた。
ジェンセンたちは直前の確認として一足先に北の祭壇へと向かっていた。
家にはクリスとトワの2人きりだった。
「くどいぞ。それに今更何をどうするというんだ」
呆れたように話すトワの足が僅かに震えているのがクリスにはわかった。
2人が見つめあったまま沈黙が流れる。
「よし、時間だな。行こう」
トワはクリスから視線を外すと振り返って扉へと向かう。
その動きは僅かにぎこちなく見えた。
「あっ……」
遂にかける言葉を見つけられなかったクリスは咄嗟に右手を伸ばす。
後ろからトワの右手を掴みかけて一瞬躊躇う。
その刹那にトワの右手はクリスの手をすり抜け、届かなくなってしまった。
扉を開けようとするトワの右手が今度ははっきりとわかる程に震えていた。
クリスはトワの名前を呼ぼうとした。
それを妨げるようにトワが振り返ってクリスに声をかけた。
「行ってきます!」
その笑顔は穏やかだった。




