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第31話 小さな貴婦人 中編


「そうか、小さな貴婦人を見なすったか」


 笑いながら応じるのは石造りの家の住人で、快く泊めてくれるという。


「本当に泊めてもらっていいのか? 自分たちでいうのもなんだが、小さな貴婦人に案内されてきたなんて、よく信じられるな」


「この国には、まだ不思議なものが生きておるのさ。寝るときにも暖炉の火は少し残しておく、小窓の鍵はかけない。ここらの住人は、みんなそうしておる。小さな貴婦人のためにな。家の守り神なのさ。病や悪魔や、悪いものから家族を守ってくれる」


 それを聞いたジョバンナが苦々しげにいう。


「馬鹿馬鹿しい。不合理な迷信ですよ」


「こらこら、好意で泊めてもらっているというのに、失礼なやつだな」


「それでも迷信は迷信です」


 そう断言するジョバンナの肩に、小さな貴婦人が腰かけて笑っていた。


「あ、おまえの肩に貴婦人が乗っているぞ」


「肩? なにもないじゃないですか」


「見えないのか?」


「いないものは見えませんよ。御嬢様に悪影響を与えるのはゲイルだけで十分。御嬢様は単純、じゃなくて純粋なのです。馬鹿なことを言ってあちこち連れ回すのはやめてください」


 いや、こっちが連れ回されてるんだが、という僕の言葉に聞く耳持たず、ジョバンナから一方的なお説教だ。曰く、妖精などいない。曰く、物語はペテン。曰く、言い伝えなど世迷い言。すべては気のせい、気の迷い。疲れていたのもあって、最初のうちは黙って聞いていたが、あまりに一方的な物言いに、だんだん腹が立ってきた。


「えーい、うるさい! ひとつの物差しですべてを測るな。愚か者め。どれほど優秀な人間でも、自分が常に正しいと思うのは愚か者だ」


「自分が常に正しい? そんなことは思いませんよ。ただ、みなが間違っているだけです」


「同じことじゃい!」


 喧々諤々、喉が枯れるほどやりあって。まだまだ続くかというところ、楽しそうに議論を聞いていた家の主人が口を挟んだ。


「喉も渇いたでしょう。ジュースでもエールでも、なにか飲みなされ。大人は酒で魂を補充しないと。とかく世知辛い世の中、魂がすり減りますからな」


「私は、お酒は……」


 断ろうとしたジョバンナだったが、さすがに喉も渇いたのかグラスを手にした。議論の最中もそうだったが、なぜか小さな貴婦人にまとわりつかれており、エールを飲みながら、その顔を引っ張られたり、つつかれたりしている。


「おい、ジョバンナ。いま、小さな貴婦人に悪戯されていただろ?」


「さあ、知りません。顔面神経痛かしら」


「いい加減、認めたらどうだ。世の中には不思議のこともあると」


「ありません。ですから、魔剣の声に従って旅をするなど、そんなこともあってはならない」


「不思議のことはともかく、自分の可愛い生徒の言うことくらい信じてやったらどうだ」


「面白いことを言いますね。そもそも、あなたには何も関係ないでしょう」


 たしかに。なんで僕がムキにならなきゃならんのだ。そう思ってロッテの姿を探すと、すでにベッドで寝息を立てていた。同じくゲイルもだ。


「ぐっすり寝てやがる。もういいや、僕の負けでいい。もう寝る」


「負けを認めるのですね」


「ああ、負け負け、負けでいい。ただひとつ、不合理でも迷信でも、説明のつかないようなことが起きるのがこの世の中だ。見ようとしない者には見えず、触れようとしない者には触れ得ない真実がある。それを何と呼ぼうとな」


「詭弁です」


 はいはいと応じて、暖炉脇のソファをベッドに横になった。


 早朝、誰もが寝ているうちに、一度寝たら容易に目覚めないロッテを抱き上げて外へ出て行こうとする者があった。ジョバンナだ。


 気付いたのは、僕と小さな貴婦人だけだろうか。ロッテを抱えて出て行こうとするジョバンナの足元で、ふわふわうろうろしている。足に抱きつき、頬をつねり、なんとか止めようとしていた。


「そこにいるのですね?」


 と言って、ジョバンナが戸口で立ち止まった。実は、ジョバンナが起きたのに気付いて外へ先回りしていたのだが、なんでバレたんだと思っていると、


「私には見えませんが、小さな貴婦人が」


と続いた。僕が見つかったわけではないらしい。ジョバンナが言葉を続ける。


「警告ですか? それとも悪戯か。私には信じられない、信じてはいけない理由があるのです。その昔、私も夢見る少女であり、恋をして結婚して娘をもうけた。幸せ、だったのでしょうね。

 しかし、ある時、イタリアに伝わる迷信を無視しました。食卓で塩をこぼすと不吉、その塩は左肩の後ろに投げなければならないというものです。

 その日は夫が娘を学校へ送っていく日だった。朝食をとっていた夫が食卓の塩をこぼしてしまったけれど、こぼれた塩を投げることを忘れていた。

 なぜかとても嫌な気持ちがして、急いで出発しようとする二人に塩を投げなさいと言いたかったけれど、言いそびれたまま見送ってしまった。そして、それっきり。交通事故でした。左後ろから居眠り運転のトラックに突っ込まれて。不吉さを感じたけれど、それを信じなかった。気をつけてとの一言がいえなかった。信じていてもいなくても。

 超自然的なことがあると思ってしまえば苦しい。自分が為すべきことを為さなかったという後悔に苛まれる。だから、でも、私には、こんな生き方しかできない。なぜでしょうね。見えないのに、もしかしたら居るような。頭を撫でられて、慰められているような気がします。

 御嬢様にも、ゲイルにも、パンといった少年にも、もしいるのならば貴婦人にも申し訳ないけれど、行きましょう」


「待て!」


 戸口に立ちはだかり、ジョバンナを呼び止めた。


「こんなこともあろうかと気をつけていたのだ。家族のことは気の毒だが、それはそれ、これはこれだ。ロッテを置いていってもらおうか。それ、そこの小さな貴婦人も、身振り手振りで、出ていってはダメだと告げているぞ」


「貴婦人なんていませんよ。私たちの想像の産物でしかない」


「そんなことはない。いまも貴婦人が僕の方を見て、何か警告しているような……」


 ガツンと頭を殴られて気を失った。


 小さな貴婦人に気を取られているうちに燭台でジョバンナにぶん殴られたのだ。その後のことは事後に聞いた話だ。


 僕を黙らせた後、ジョバンナは明るくなってきた道をたどって車へ戻ったらしい。ところが、車には見知らぬ男が乗っていたという。二十歳くらいの白髪の男で、灰色のトレンチコートに丸いサングラス。ドンヌの家のボスだった。


「やぁ、どうも。背中に乗せているのがロッテだね。よく寝てるねぇ。魔法でもなんでもない、ひたすら熟睡してるじゃないか」


「あなたは?」


「おや、知らなかったか。ドンヌの家の代表だよ。ボス、ボスと呼ばれているけどね」


「ドンヌの家?」


「なにも知らないんだなぁ。まあいいや。面倒くさくなってきた。ロッテをもらおうか」


 ボスがぱちんと指を鳴らすと、朝陽の作る車の影から、また森の端から、続々と暗い影が立ち上った。

 人らしき形をとった影たちがジョバンナに迫り、ロッテを連れ去ろうとする。しかし、まだ眠ったままのロッテを、ジョバンナがしっかと抱きかかえる。


「御嬢様は渡しません!」


「邪魔しないでほしいな」


 不快げに言いながら、ボスが右手を銃の形にしてジョバンナの頭に向けた。人差し指の先に光が集まり、ばちばちと音を立てる。


 夜明けの空に閃光が走った。


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