第30話 小さな貴婦人 前編
肖像画、ウルフバート、レプラコーンと残念な出来事が続いて、追われていることを忘れかけていたが、いままさに危険な事態に陥っている。妖精の金貨をあきらめて旅を再開したところ、立ち寄った街でドンヌの家のボスに出会ったのだ。
聞いていたとおり、二十歳くらいの白髪の男で、灰色のトレンチコートに丸いサングラス。愛想よく話しかけてきたが、目は笑っておらず、独特の威圧的な雰囲気を身にまとっていた。
話を聞くまでもなく全力で逃げ出せというルトの助言を思い出し、取るものもとりあえず、ロッテとゲイルを引きずって逃げ出した。
さらに、車で逃げている最中、別の車に追跡される羽目になった。ドンヌの家の連中かと思えばさにあらず。追っ手はロッテの家庭教師だという。
ゲイルよりも年上で五十手前くらいだろうか。厳格そうな顔つきに刻まれたシワが、労苦多き半生を示していた。荒っぽい運転を続けながら、ゲイルがバックミラーで追跡者を確認する。
「まったく面倒な女に見つかったものです」
「面倒な女って、ロッテの家庭教師なんだろ。別に逃げる必要もないだろうに」
「いえ、御嬢様の家庭教師は、ジョバンナというイタリア系の女で、もちろん敵ではありませんが、ある意味では敵以上に厄介な女なのです」
「そうそう、あいつ頭固いのよねぇ」
「御嬢様のせいでもありますよ。からかってからかってするから。超自然的な出来事は、すべて御嬢様の悪戯だと思ってますからね。カッチコチの現実主義者になってしまいました。
今回の旅もジョバンナには理解できないことですから、御嬢様を連れ戻そうと追ってきたのでしょう。例のボスが追ってきているかもしれないのに、議論している暇はありません。三十六計、逃げるに如かず」
息巻いてアクセルをふかすが、ぷすぷすぷすんとエンジンが止まった。
「おや? このゲイル、一生の不覚。どうやらガス欠のようです。うっかりしてましたね。わはは」
「どうするんだ?」
「なに、ジョバンナは運動とは無縁の女。走って逃げましょう」
夕暮れが迫る中、街道を外れ、森を抜ける小道へ入った。あきらめてくれれば良いのだが。しかし、そうは問屋が卸さない。ジョバンナも車をおいて、息を切らしながら後を追ってきた。
「おい、追っかけてきたぞ。自慢じゃないが、僕も体力のなさには自信がある。なぜ、フィルギャを出さない? 例の大鴉と黒馬なら、簡単に逃げられるだろう」
「ボスに見つかります」
「ボスに? なぜだ? なぜ分かる? 以前にも出会ったことがあるのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
歯切れの悪い返事をして、ゲイルが立ち止まった。
「どうした、追いつかれてしまうぞ」
「ふっ、このゲイル、一生の不覚。どうやら道に迷ってしまったようです」
「……おまえの一生は、何回あるんだ」
と、そこへジョバンナが追いついてきた。ロッテの手を捕まえていう。
「ロ、ロ、ロ、ロッテ様。さ、さ、さ、さあ、戻りましょう。ご、ご、ご、御両親が戻られる前に、や、や、や、屋敷へ」
「ちょっと落ち着きなさいよ。もう逃げないから。走らせて悪かったわ。息を整えて喋ってちょうだい」
「す、す、す、すみません。さ、さ、さ、さすがは御嬢様。お、お、おやさしい、こ、ことで」
ジョバンナの息が整うのを待っているうち、気付くと森の中は暗く、行く道も戻る道もわからなくなっていた。完全に道に迷った。そのことをジョバンナに告げると、
「道に迷った? どういうことですか!」
と声をあげてゲイルを責め始めた。
「ゲイル、あなたという執事がついていながら何たる有り様。そんなことだから御嬢様が家出などなさるのです。御嬢様、帰りますよ」
「その帰り道がわからないのですがね。相変わらずの石頭ですな」
「来た道を戻ればいいでしょう」
「もうわかりませんよ。この暗い中、いくつも枝分かれした道をたどれません」
「なぜ、そんなことを」
「あなたが追ってきたからですな」
不毛な言い争いを背に、森に消えていく道の先を見つめていると、ぽっと白い光が浮かびあがった。ふわふわと揺らめく白いドレスのような。
現れたのは、宙を舞う小さな貴婦人だった。幼い顔つきに、大人の腰ほどの背丈、ただ気品のある雰囲気が貴婦人と呼ぶにふさわしい。
「ロッテ、見えているか?」
「ええ、悪いものは感じないわ。きっとアイルランドに伝わる精霊の一種よ」
ふわふわと漂うように、それはロッテの足元に舞い降りた。ぱっぱっ、と白いドレスの裾を払い、くるりと回ってみせる。しゃがみこんだロッテが、ぱちぱちと手を叩くと、照れ照れと嬉しそうにしていた。
「きゃー、かわいい。そうだわ。あなた森の精霊なのかしら。私たち道に迷って困ってるの。どこか人が住んでいるところへ案内してもらえないかしら」
ロッテの言葉を聞いて、小さな貴婦人は、こくこくとうなずいた。小さな日傘を取り出すと、それを開いてふわりと浮かびあがる。ふわふわと白い光が明滅するようにして道を示す。
「行きましょう。案内してくれているんだわ」
「わかりました」
とゲイルが応じる一方、ジョバンナの方は不服そうだった。
「御嬢様、どうされたのです。道がわからないと言われていたではありませんか」
「あら、なぁに。あの光が見えないの? 白い小さな貴婦人が案内してくれているのよ」
「またそんなおとぎ話のようなことを。私には光なんて見えませんよ。まったく、大人をからかうのはやめてください」
「もう、ジョバンナの石頭!」
「御嬢様! 言葉遣いは丁寧に」
「もう、ジョバンナったら、頭が固くていらっしゃるのだから」
「よろしい」
よろしいのか? と思いつつも、つっこむとややこしそうなのでやめておいた。ジョバンナには小さな貴婦人の姿が見えていないらしい。しかし、僕には、ふわふわと浮かぶ小さな貴婦人が、にこにこと案内してくれている様子が見えていた。
森を抜けると素朴な石造りの家があり、小さな貴婦人は、そっと小窓を開けて中へ入っていった。




