1-5
一時間後。
クイは、すでに社の中にいた。
薄暗い社に一人きり、特に何もすることがない。
外にもう緊迫した空気はなく、兵たちが片づけをし始めていたから、もう魔獣は追い払ったのだろう。そうなると、クイがここにいる必要もないのだが、あの軍将を待つべきか、それとも、一人で館に戻っているべきか、その判断がつかなかったので、クイはしばらく、ここで軍将を待つことにした。
(あ~あ、たいして面白くもなかったな。)
ひざを抱えてぼんやりと待っていると、いろいろなことが頭をよぎる。
例えば、先ほど直しに行った結界のこと。
案の定、結界柱は、魔風にあおられて吹っ飛んでいた。クイが到着したときには、すでに障壁が破られていて、中型の魔獣が三匹、領地内にまで入り込んでしまっていた。
だが、クイは、それを見て、がっかりした。魔獣は、どこにでもいるようなダチョウ型のビンデラだったし、数も、たった三匹しかいない。できる事なら、もっと大型の魔獣とか、もう少し強そうなのとか、この辺でしか見れらないような珍しいのとか、そういったものと戦いたかったのに、その場にはビンデラ三匹しかいなかったのだ。
クイは、それらを倒した後も、未練がましく魔獣の襲来を待ってみた。
が、結局、それらしい影は見つからず、クイは仕方なく、結界柱をあるべき場所に刺し直して、また、ここに戻ってきたのだった。
(あ~あ、つまんない。)
だが、そんなことよりも、クイには考えておかなければならない事があった。
領主を追い出す計画。
もともと、あれは、行き当たりばったりな計画だった。
ウテリア領の様子が分からないので、(臨機応変に対応すればいいや。)ぐらいに軽く考えていたのだが、予想以上に、ウテリア領軍が強すぎた。軍将の強さも桁違いだし、集団としても侮れない。あれほどの強さを持つ領軍を、クイ一人で何とかできるとも思えない。
(さて、どうしよう。)
ウテリア領軍はカッコよかったし、できれば、戦友として一緒に戦いたい。
では、領軍と争わずに、どうにかウテリア領を手に入れる方法はないものか。
悩んだ末、クイは、まず領民を味方につけることにした。けなげな女性を演じていれば、領民はクイに同情的になるし、結界を直してウテリア領に貢献すれば、領民はクイの行動に甘くなる。
そして同時に、コソコソしているオタクな領主を見つけ出し、ギュッと締め上げればいい。領主を言いなりにすれば、クイは、影の支配者として、ウテリア領の実権を握る事ができるし、もし、領民たちが、クイの正体に気づいたとしても、領民は皆クイの味方だ。領主は元々ダメ人間だから、「領主がクイの尻に敷かれている」程度にしか感じないことだろう。
(でもな~。)
この計画には、気が進まない点が二点ある。
一つは、当初の計画と違って、領主を追い出す事ができないという点だ。戸籍上でも、夫ができるのは邪魔臭い。
そして、もう一点は、けなげな女性を演じなければならないという点だ。実はこれが一番厄介で、今までそれができなかったから、クイはここに嫁がされたのだ。それを、今さらやらなければならないなんて。正直、何日もつか分からない。
(……ま、いいや。)
気が乗らなくても、他に選べる方法がない。
(よし! すべきことは三つ! 領主に従順で、しおらしい女性を演じること。結界の修理に全力を尽くすこと。そして、こそこそしている領主をふんづかまえて、私の家来にすること!!)
すべきことが決まれば、あとは実行に移すだけだ。
しかし、心のどこかがモヤモヤしている。
(何だろ、この気持ち。)
そのとき、
カン、カン。
と、何かが近づいてくる音がした。
はっとして振り返ると、出入り口の向こうから、木がきしむ音がする。これは、誰かが、階段を上ってきている音だ。それにこの金属音。これは、剣の鞘と留め具とがあたる音。
(あの軍将だ!)
クイは、直感でそう確信した。
すると、心臓の鼓動が、自分の意思とは無関係に早くなる。なぜか息が苦しい。体中の筋肉がこわばって、何をどうしていいのか分からない。
クイが扉を見つめていると、
「クイ姫、いるかい?」
と軍将の声がした。
やっぱりあの軍将だ。
けれど、声を聞いた途端、心臓が飛び出しそうなほど驚いた。ついさっき、あの軍将だと確信していたのに、どうしてこんなに驚いたのだろう。
クイが何も答えられないでいると、
「入るよ。」
という声がした。
(わわわ。)
戸惑ったままのクイの目の前で、扉がゆっくりと開きはじめる。
すると、薄暗かった部屋に、外の明るい光が差し込んできた。目を細めて見上げた先に、逆光の軍将がいる。
「大丈夫だったかい? 怖い思いをさせたね。」
軍将は、クイのそばまで来ると、ひざを折って目の高さを合わせた。軍将の後方で、扉が勝手に閉まる。すると、室内は、元の薄暗さに戻って、クイはゆっくり目を開けた。
「……。」
ここにいるのは、軍将と自分だけだ。
狭い狭い社に、軍将と自分の二人きり。
軍将からは、ふわっと石鹸の香りがした。よく見ると、軍将の髪はしっとりと濡れていて、服装も前と違う。さっきはきちんとした礼装をしていたのに、今はラフな普段着だ。だからか、印象が違って見えた。彼の柔らかい笑顔は、親密さが増して見えたし、ゆるく開いた襟元からは、筋肉質の胸元まで覗き見える。
「迎えが遅くなってすまなかったね。」
本当に遅くてつまらない思いをしていたはずなのに、それを表現する言葉が出てこない。
「……。」
「魔獣は追い払ったよ。ありがとう。君のお陰だ。」
「……。」
何の返事もできず、しばらく沈黙が続いた後、クイはようやく、軍将の言葉を理解してハッとした。
(あれ? 今、ほめられなかった?)
クイが驚くと、軍将も驚いた顔をした。
(そうだ、今、ほめてもらった。生まれて初めて、結界士として、ほめられた!)
その事実に気づくと、クイは思わず息を吸い込んだ。
なぜか目頭が熱くなる。
「……わ、私。」
涙がこぼれそうになって、クイは慌てて両手で顔を覆った。下を向くと、ぽろぽろと涙のしずくが落ちていく。まさか、自分が泣いている? なんで泣いているのかもわからないのに?
先走る感情を追いかけて、次第に理解が追いついてくる。
(……ああ、そうか。……私、結界士として初めて役に立てたんだ。)
上級結界士の名家に生まれ、上級結界士であることを望まれた幼少期。
当然のように優秀な兄弟たちに囲まれて、クイはいつも、激しい劣等感に苛まれていた。あの家で、下級結界士は結界士とは認められない。それを繰り返し繰り返し思い知ったクイは、いつの間にか、結界士であるという自覚すら見失ってしまっていた。
けれど、それが、今になって、初めて役に立つことができた。
誰かの役に立って、初めて褒めてもらえた。
その事実に、劣等感が洗われていく。
「……う、うう。」
すると、軍将の手が、クイの肩に触れた。
「すまない。怖かったんだね。」
そう言われて、クイは大きく首を振った。
「いいえ、違うんです。私、……嬉しくて。……お役に立てたことが嬉しくて。」
その言葉に、軍将の声は震えた。
「ああ、何て事だ。」
軍将が、クイの背に手を回し、そっとクイを抱きしめる。
そのぬくもりが、クイにはとても心地よかった。
「それほどまでに、ウテリア領の事を……。」