第五話
野々原はそろそろ家を出ただろうか。俺のことを待っているんだろうか。それともまだそこまでの時間は経っていないのか。わからない。わからないから余計に焦ってくる。腕時計を着けていたら時間だけでもわかったのに。スマホがあれば、連絡できれば、遅れると伝えることもできるのに。
落ち込んだ様子で言葉少なだった野々原。あいつをどうやって励ますか、何を食わせるか、少しは考えていたんだけどな。
いや。もしかして。すでにその段階ではないのかもしれない。生え際からの汗が、顎を伝って膝に落ちた。暑い。喉が渇いた。このままじゃ本当に救急車のお世話になるのかもしれない。その前に誰かが俺に気付いて救急車を呼んでくれないと、それすら無理だが。
落ち着け。深呼吸、深呼吸だ。わずかとはいえ引っかかりは感じた。もう一度だ。
グラグラのドアノブを回してみる——開かない。
焦るな。今までだってすんなり開かなかったことは何度もあっただろう。その時にはどうしていたか、思い出せ。
ドアノブを右に押すようにしながら、ゆっくり回す……あ。今ちょっと感触が違った。
俺は角度を少しずつ変えて試した。左に押し付けてみる、開かない。下に向かって押す、開かない。上に持ちあげるように——開かない。
一番開きそうな気がしたのは、右へ力を入れた時。それならと、右斜め下に押しながら回してみる。開かなかった。右斜め上に……うん、なんだか惜しい気がしたぞ、今。
ドア全体を右上に押し上げるつもりでドアノブを回す。とうとう、カチャと音がして。
「やっっと、開いたぁ……」
俺はよろよろとトイレから出た。ああ、ようやく解放された。世界が明るい。空気が清浄だ。クッションフロアの床にへたり込む。涼しい。トイレが蒸し暑かったからな。壁も床もひんやりと冷たくて気持ちがいい……。
そのまま放心しそうになってはっとした。俺は野々原を待たせているのだ。
出かけなきゃ。
蒸し暑い場所に居たせいで、シャツは汗ジミができていた。しかし着替えている余裕はない。野々原ならきっと見て見ぬふりをしてくれるだろう。時計を確認する。すでに二十分は待たせてしまっていた。
慌ててスマホを取って通知を見ると、遅刻している俺を心配するようなメッセージ。いやちょっと待て。まずは水分だ。これだけ汗をかいたんだから、脱水症状でも起こしたらまずい。
飲みかけのままだったペットボトルの水を飲み干す。野々原はもう待ち合わせ場所にいるだろう。あれは律儀な男だから、俺が遅刻していてもすぐには移動しないで待っているはずだ。改めてスマホを見る。少し迷ってから、俺は通話ボタンを押した。
「あ、もしもし。野々原? いやごめん、まじで。実はトイレに閉じ込められててさぁ。え? ううん、自分ちのトイレ。ドアノブが前から調子悪くて……」
ごめんごめんと謝り倒しながらバッグを引っ掴んで部屋を出た。
「ああ、うん。わかってる。古いんだよなぁ、このアパート。大家はいい加減だし……その分安いのは良いんだけどな。いや行くよ。今からすぐ行く。遅くなって悪いけど」
鍵を掛け、急いで駅を目指す。待ち合わせ場所に向かいながら、俺はできる限り早く引っ越すことを決意した。




