【 Ⅰ 】コッパーナット
シルバークリークはニュージャージー州パッサヤンカ郡の観光都市だ。人口26万人。シルバーレイクに突き出た半島状の東地区と本土側の西地区とが、街を縦断する運河によってへだてられている。
冬のシルバークリークは霧が深い。シルバーレイクから漂う濃い霧が、この日も街全体を白くおおっていた。
2026年2月8日
東地区メイプル・レーンの青果店“コーナー・フレッシュ・マーケット”の地下倉庫。むき出しのコンクリート空間には段ボール箱が積み上げられ、果物の甘い香りが立ち込めている。
ディラン・“Dタップ”・プリチャードは折りたたみ椅子に腰かけ、テーブル上のラップトップをにらみつけていた。
Dタップは三十六歳。茶色の整った短髪、長身で引き締まった体に地味なグレーのスーツを着た姿は、ごく普通のビジネスマンに見えなくもない。が、ラップトップのモニターに映っているのは、偽造ブランドスニーカーのリストだ。
ナイキ限定の偽造スニーカーが五百足。粗悪な模造品ではない。ロゴ、デザイン、機能性さえも本物に引けをとらない“スーパーコピー”だ。仕入れに三万ドルを費やしたが、売りきれば七万はかたい。
地下倉庫には五人の部下がいた。彼らはテレビを観て雑談を交わしながら朝食を食べている。サンドイッチやホットドッグの包み紙、コーヒーカップが長テーブルに、無造作におかれていた。
部下の一人ポテージがDタップに声をかける。
「なあDタップ。昨日のバスケ観たか?」
「観てねえよ」
Dタップはモニターから視線を外さずに話をさえぎった。ポテージはむくれた顔でホットドッグを頬張る。
ロバート・“ポテージ”・アローは三十四歳。Dタップの弟分で幼馴染だ。髪は赤茶のくせ毛、小柄のずんぐりした体型に、似合いもしない古典的なギャング風のトレンチコートをいつも着ている。よくしゃべるが空気を読むのは苦手。見栄っ張りで向こう見ずな性格だが、喧嘩の腕はからっきしだ。
午前九時半。地下倉庫の扉が開き、室内の空気が変わった。
ボスのバーソロミュー・“コッパーナット”・フィンチが現れたのだ。
コッパーナットはフローラ・ギャングの四代目ボスとして2005年から二十年間組織に君臨している。
彼は何もかもが過剰な男だった。
六十五歳。白髪を肩まで伸ばし、丈の長い漆黒のロングコートをマントのように羽織っている。手には銀の柄がついた杖を握り、その姿はまるでヴィクトリア朝時代の怪人を彷彿とさせた。
小規模なローカル組織に過ぎないフローラ・ギャングが、他の大組織から一目おかれるのは彼の存在感によるものが大きい。
Dタップら六人は椅子の上で思わず背筋を伸ばした。サンドイッチを食べていたホルヘ・サラサールは音も立てずにそれをテーブルへと戻す。
「Dタップ。例の靴は倉庫に届いたんだな?」
コッパーナットはいつもの甲高いしゃがれ声で言った。英国ドラマに登場する貴族のような抑揚はいかにも芝居がかっている。だが、彼の恐ろしさを知るメンバーらは、ただただ緊張で顔を強張らせていた。
「あ、ああ。問題ないぜ、ボス。すぐにさばききって、先月の損失は必ず穴埋めするよ」
Dタップは椅子から立とうとする。その胸元にグッと杖が押し当てられた。
「立たんでいい。小僧、座っていろ」
「なあボス、すまねえ。先月のあれは……」
「黙れ。立つな。その口も閉じていろ」
杖に力がこもる。銃口を突きつけられたようにDタップの体は固まった。
「よく聞け。月末までは待ってやろう。だが一日でも過ぎたら、お前のみすぼらしい運送会社はこの俺がいただく。さっさと靴をカネに替えろ」
コッパーナットは酷薄に笑って、そっと杖を戻した。
「わかってるよ……」Dタップの顔を冷や汗が伝う。
先月、偽造ブランドバッグを保管していた倉庫が警察の手入れを受けたのだ。幸いDタップ自身にまで捜査は及ばなかったが、倉庫内のバッグはひとつ残らず押収された。損失は莫大だ。
何より最悪なのは、ボスのコッパーナットが仕入れにポケットマネーを出していたことだった。資金が足りず、Dタップが頼み込んで融資してもらったカネだ。
「たかが五万だ」と、ポテージが自信満々の顔で話に割りこんだ。
「月末までに耳をそろえて返せるさ」
ポテージの言葉に、Dタップは眉間にしわを寄せ、思いきり顔を歪ませた。なぜそんな余計なことを言うのかと。
「一括返済か、気前がいいな。優秀な参謀がいてお前がうらやましいよ」
コッパーナットはDタップに視線をやり、さも愉快そうに笑った。
皮肉を理解することができず、ポテージは「Dタップには俺がついてる。何も心配いらねえよ、ボス」と胸を張って続ける。Dタップは目を閉じて額を押さえ、コッパーナットは肩を揺らしながら笑う。
「いいか小僧。月末だ、忘れるな。また昔のように路上でクスリをさばく羽目になるぞ」
彼はそう告げた後、ロングコートをひるがえして扉の向こう側へと消えた。階段をのぼる足音が遠ざかり、張りつめていた地下の空気がゆるむ。
「P、ありがとよ。感動のあまり涙が出るぜ」
Dタップは背もたれに寄りかかり、呆れた顔で肩をすくめた。“P”とは、彼がポテージを呼ぶ時の愛称だ。子供のころからそう呼んでいる。
「何が? かばってやったんじゃねえか」
ポテージは口を尖らせた。
「かばっただと? 俺は頭金で二万返し、残りは分割にしてもらうつもりだったんだ。五万もいっぺんに返して、次の仕入れのカネはどこから引っ張るつもりだよ?」
「いや……そんな話、俺は聞いてなかったし……」
「考えりゃあわかるだろうがっ」
Dタップは首を振りながら、テーブルのコーヒーカップに手を伸ばした。ポテージはまだ納得いかない様子だ。
「さっさと返したほうが楽だろ? 分割だと利息だってつくし……資金に困ったら、またボスに借りれば……」
「ポテージ、もう黙ってろよ」と、隣に座るホルヘが見かねて口をはさんだ。ポテージは憮然としながらホットドッグを口いっぱいに頬張った。
午前十時半ごろ。テレビのニュースやSNSがやけに騒がしくなった。
テレビではニュースキャスターが「シルバークリーク市内で複数の暴力事件が発生中です」と繰り返し伝えていた。特にコマーシャル・リッジ・アベニューのシルバークリーク医療センター付近では、市民たちによる騒乱が起きていると。医療センターは、Dタップたちがいる青果店からそう遠くない場所だ。
「暴動だってよ。みんな朝からハイになってるな」
ポテージはニュースを見てのんきに笑う。
「ポテージ、これを見ろよ」と、ホルヘがスマホを差し出した。
SNSのXでは人間が人間に噛みつく暴力的な動画がいくつも拡散されていた。
「これ、ヤバくねえか? ゾンビ映画みてえだ」
「くだらねえ、フェイクだろ? どうせAIだよ」とポテージ。
「やけにリアルだけどな。それに見てみろよ。この駅、カナル・フロント駅だぞ?」
ホルヘは怪訝な顔で指摘する。その動画の背景は、彼らがよく知っている駅の構内だった。東地区と西地区を縦断する運河のすぐそばの駅だ。
動画には悲鳴をあげて逃げ惑う乗客と、ホームに倒れた血まみれの駅員が映っている。その近くをゾンビのようにさまよう、口から血を垂れ流したスーツ姿の女性も。
「映画かドラマのステマだよ。こういうの、よくあるだろ?」
ポテージはホルヘのスマホをのぞきこみながら鼻で笑った。
「いやいや、ローカルすぎるだろ? なんでシルバークリークなんだよ?」
「本物だってのか? ヤク中か?」
「俺が知るか。けど、他にもあるぜ? ほら」
ホルヘはさらにスマホの画面をスクロールしてみせる。
Dタップは部下の会話をほとんど聞き流していた。ラップトップのモニターをにらみ、偽造スニーカーの販売ルート網を入念にチェックする。今、彼の頭にあるのはボスから借りたカネをいかにして返済するか、その一点のみだった。




